巻の十 行き着く先は大島てる

「いや本当に情を通じろと言っているのではないぞ、預流は尼なのだから。清浄な身なのだから触れることは許さん。許さんが――預流が大法会の一件で邇仁に目をかけられ、還俗して尚侍となり、ゆくゆくは入内し女御になる話があるのは知っているか」

「うっすらどこかで耳にしたような」


 靖晶はわりと冗談だと思っていたが、式部卿宮は深刻に受け止めているようだった。


「お前は以前から預流と親しくしているようだが」

「陰陽師は不信心で仏道から縁遠いものでそのままでは地獄に落ちると。慈悲深い尼御前さまは憐れな衆生を一人たりとも放ってはおけないと、日々ありがたい説法でわたしの魂を救ってくださっているのです! 言うなれば弟子。決してやましい関係ではありません!」


 ものすごい早口の言いわけを、山背宮は特に不審には思わなかったらしく素直にうなずいた。


「うむうむ、そうであろうそうであろう。預流は貧しい者も下賤の者も分け隔てなく御仏の教えを説く光明子こうみょうしの生まれ変わり、いずれ龍女成仏りゅうにょじょうぶつし菩薩になる身であるからな」

「は、はあ……」


 ――その設定、もう憶えてるのあんただけですよ。


「しかし世間は預流の菩薩の心を理解せず還俗して女御になれと、二十一の女が尼など勿体ないと。世の中は信仰心のないやつばかりだ! ――そこでお前、以前から預流に懸想し通っていたということにしてくれんか。お前は陰陽の術で預流の病を癒してくれた恩人だ。わたしも預流も大変に感謝し好意を抱いたのだが、預流は尼の身ゆえに正式に結婚するのは憚られ、密かに内縁関係にあったと。ほら、何だかよくわからんが預流の部屋に行ったらお前が酔って寝ていて、預流が後から牛車でどこかから帰ってきたあの日とか」

「え、あ、あれはあの」


 ――見られてたのかよ!


「陰陽師の分際で預流に夜這いに来た不埒者ふらちものかと思ったがお前は装束を着たまま酔い潰れていて女人に狼藉を働いたようには見えなかったし、何より肝心の預流が牛車で出ていってしまっているとか。音羽に聞いてもまともに答えぬし。解せぬと思っていたが戻ってきた預流が語るには、お前が八卦はっけでとんでもない運命を見て、聖なる盃を巡る戦いやら何やらが起きるとか不吉な予言をするだけして眠ってしまった。なので代わりに預流が付喪神つくもがみや式神をあまた引き連れて天狗や百鬼夜行と戦うことになったと。――そんなことを信じるのはこの世にわたしくらいなので、あの日に一夜をともにしていたということでだな」

「そんな風に説明していたんですか、尼御前さま!」

「他にどんな理由があったと?」

「――いえ、あの。まあ大筋でそんな感じなんですけど。そう。ぼくは直系の子孫であるせいか晴明公の御魂みたまに憑かれて託宣のようなことをすることがあって。それをすると力を使いすぎるのかやたら腹が減ってのどが渇き飯と酒を食らわずにいられなくなり、その挙げ句眠ってしまうのです! 不吉な予言をすることが多く、あまりいいことではないので一族の者にはみだりに使うなと禁じられているのです。外聞も悪いですしどうか口外はなさらないでください。何を予言したかはよく憶えていませんが尼御前さまがそうおっしゃったのならそうなのでしょう!」


 今日も靖晶は瞬間瞬間を必死に生きていた。


「流石、安倍の陰陽師は只人の理解を超越しておるのだなあ。晴明の託宣とは」


 山背宮は疑いもしなかった。――ああ、何ていい人なんだ。心苦しい。明空を五年も生かしておくはずだ。同じ領域に追いついたと言うか成り下がったと言うか。


「ともかくあの日、お前と預流とは〝逢い見て〟おったのだ。そういうことにしよう。その方が俗な連中は納得する」


 逢い見る=セックス。……おいおい、時系列おかしいぞ。


「いかに受領風情で身分が低いからと言って愛し合っている二人を権力で引き裂き奪い取り、妃としようなど無粋を越えた横暴、国を乱す行い! お前は預流の信仰のために還俗を強いておらず情人の身に甘んじていたのにそこにつけ込もうとは、邇仁は玄宗げんそう皇帝にでもなったつもりか!」


 ものすごい形相で宮さまは拳で繧繝縁の畳を叩き――


「――と、わたしがこう言ってやろうと思うので、そう、名義を貸してもらえんかと」

「名義貸し」

「お前はこれまで通り適当に我が邸で預流の説法を聞き、飯を食ってくれるだけでよい。むこに来いと言っているわけではない、あくまで内縁だ。お前の家庭を乱すつもりは全くないので」


 楊貴妃ようきひは当初、玄宗皇帝の息子の妻だったが父親が岡惚れして奪い取った。権力者が力に飽かせて目下の者の妻を奪うのは国を傾ける行い、というのはこの時代によくある論法だが。

 ……この間、本当に内縁関係になろうとしていたのにあなたのせいで失敗したんですよ、とはとても言えない。靖晶が本気で惚れていると知っていたら出てこない発想だろう、これ。

 しかし宮さまには宮さまの深い懊悩があるらしかった。切なげに頭を抱える。


「何せわたしは兄に過ぎない。預流の父が乗り気である以上、わたしが愛しているから預流は邇仁などにはやらん、と言うわけにはいかないのだ。世間で言う初草の何やらかと義父に怒られてしまう。わたしは母の連れ子で左大臣は実の父ではないので口出ししづらく! なさぬ仲の親子と言うのは気まずくて!」

「た、大変ですね」


 ――そうか、この人も父親に死なれたんだった。恐らく左大臣家の中での立場が微妙で父方でも「女御更衣の選定に口を挟むな」と既に怒られているのだろう。親王の立場は上から数えると意外と低い。


「いや、わたしは血のつながった家族として預流を慈しんでいるのであって、親愛の情であって、それは手や肩に触れたりはするが我が子・小姫こひめと同じように愛でているのであって、世間で言うような初草の君とか全く出鱈目でたらめであるし、衣に手をかけるようなふしだらなことは断じてしていないからな!」

「はあ、そうでしょうね。わかりますよ、兄宮さまが妹姫さまを労る純粋なお気持ち」

「わかってくれるか陰陽師!」


 ……多分あなたよりぼくの方がけしからんことを考えてふしだらなことをしましたからね。妻にするつもりで衣に手、かけましたからね。そちらがぼくより不純なわけないですからね。棒読みになってないか心配だったが山背宮は全然気づいていないようなので結果オーライ。


「ではここで一つ余興を見せるか。沙羅」

「はい」


 高い声に靖晶が振り返ると、沙羅が何か大きな茶色いのものを両手で抱えて庭に出てくるところだった。


「……何ですかそれ」

「宮さまの寄進で去年き替えた西寺さいじの鬼瓦の古いやつ」


 瓦と言っても高さ三十センチ、奥行きも同じくらいある。生きているかのように禍々しい凶悪なご面相をした『火の鳥・鳳凰編』みたいなブッダガーゴイル。沙羅はそれを庭土の上に置き。

 下駄を履いた足を頭より高く上げ、振り下ろした。それだけで鬼瓦が重い音を立て、割れ目が走り、真っ二つになった。

 ――生体陰陽道コンピュータの中を数式が駆け巡った。沙羅の身長と細身の肉づきから言って体重は四十キログラムもないはず。一方、瓦の密度と強度は。彼女の体重でこのサイズの瓦を割るのは物理的に不可能だ。瓦にあらかじめひびが入っていて下駄に鉛が仕込まれていても無理。物理法則をも凌駕する〝何か〟が起きたことだけ瞬時に悟った。頭より足が高く上がる身体のしなやかさも驚嘆に値する。それで沙羅は高い声で啖呵たんかを切った。


「どうだ陰陽師、この沙羅はてめえのようなうらなりの青瓢箪あおびょうたんを殺すのに刃物なんざいらねえ。宮さまのお話を勘違いして預流さまに不埒な真似を働いてみろ、ブッ殺してやる。宮さまのお許しがあるんだ。生受領の一匹二匹殺したってお咎めなしだ。祟れるもんなら祟ってみやがれまじない師。幽霊になって帰ってきたって伊勢神楽いせかぐらの秘技で何度でもブッ飛ばしてやるぜ。坊主だって殺していいんだけど何かタイミング合わねえんだよな。こないだとどめ刺しときゃよかった」

「沙羅のこの技の冴え、実に見事であろう?」


 山背宮さまはご満悦で拍手なさっている。


「いやわたしはお前を信じているが、預流は尼にしておくには惜しい美しさで平安京の男は皆が皆、理性が脆く性欲がバカみたいに強い。聡明な男でも何かの弾みで血迷うということはありえるからな? 二人きりにして間違いが起きてはいかん。その点、沙羅がいれば心配がない」

「はあ、その通りすぎて返す言葉もないです……」

「宮さま、沙羅にお任せを! おれが男だったらこんなやつに頼らずに預流さまを連れて伊勢いせでも陸奥みちのくでも鬼界ヶ島きかいがしまでも逃れてやるのに」

「美しい忠誠心だ。女稚児など奇妙なものをと思ったこともあったが実に健気。預流の考えることに間違いなどないのだ」


 ……忠誠心……? 何やら疑問を抱いたが、反論はしないことにした。



 こうして靖晶は数奇な運命の果てに、兄宮さま公認で預流に紹介されることに。


「この男と沙羅と三日の間、わたしが用意した隠れ家に隠れていなさい。三日で結婚が成立するので、既成事実ができるので、その後にうちに逃げ込んできたら〝若い二人が思い詰めて駆け落ちを〟とわたしが庇ってやるので」

「え、それ事実婚なんですけど」


 預流も預流で兄が突然におかしなことをほざき始めて面食らった。


「わたしの一生不犯の清い身の上はどうなるんですか? 実際の貞操は沙羅が守ってくれるとして世間体として再婚して受領の妻になっちゃうんですけど?」

「それなのだ。わたしも寺に逃がしてやりたいのはやまやまだが、お前が寺に駆け込むのは目に見えているので大抵の寺は既に監視が」


 うつむく兄宮の隣で、一人、受領の陰陽師だけが力なく笑っていた。


「ぼくは世間体とかどうでもいいので宮さまの決定に従いまーす。宮さまがおっしゃるんだから仕方ないじゃないですか! 尼と通じたクソ野郎と呼ばれても失うものなどないです☆ むしろやっと人並みになったと祝われます!」

「当人が思いのほか、やる気であるのだから」

「……陰陽師どの、わたしたち兄妹であなたの何か大事なものを決定的に壊してしまっていない? あなたはそれでいいの? 晴明公の直系、絶えてしまうわよ?」

「遺伝子のために結婚するなんて文明人のすることか! 良彰の子が勝手に継げばいいんですよ!」

「な、何か目が怖い。あなたやっぱりヤケクソ入ってるんじゃないの」


 ということで靖晶と預流、と沙羅の三人で牛車に乗り、〝隠れ家〟とやらに向かうことに。まだ何日も経っていないのにこの距離感は気まずいような、沙羅がいるので踏み込めないような。


「まああの。本当にそこそこ身分の釣り合う対抗馬をぶつけたらうっかり本気になって預流さまを娶ろうと本末転倒になってしまうかもしれないから、宮さまが威圧すれば何とでもなる受領風情に持ちかけたんでしょう」

「わ、わたしはお妃になる気ゼロだから兄さまが陰謀でも何でも反対してくれるのはありがたいんだけど……あなたはいいの? そんな話のダシにされて」

「ぼくらはあれじゃないですか、ただならぬ関係」


 沙羅がいるのに靖晶が悪い顔で笑った。


「――この間の解毒の術ですけどすごくなかったですか?」

「すごいって?」

「次の日、真っ黒な炭の色のまりが出ました。さっぱりと身体中の煩悩が拭い去られた気分です」


 彼はやはりどこかブッ壊れたらしく、親指を立ててウインクした。


「もう何とも思ってないから気にしないでください! ぼくらは二人で炭入りの塩水を飲んで真っ黒なものを出した仲ですからね!」

「リアクションしづらい!」


 ……これ。賢木中将の陰謀と兄宮の苦肉の策が逆の順番で起きていたら普通に預流は受領の妻になっていたのだろう。因果はめぐる糸車。

 こっちはキスした相手と何を喋っていいのかわからないのに向こうは吹っ切れてしまっている、どうすればいいのこれは。誰が悪かった?


「今日は預流さまがメッチャ目逸らしますね。もしかして意識しちゃってる? やっとぼくを男と認識し始めました?」


 ……どうしてくれようこの男。


「結局、世間体としての貞操はどうなるのよ。初瀬さまの菩提を弔っているのに二夫にまみえたことになってしまうわ」

「それが悩ましいところですねえ。ベストよりベターって感じの策で」

「おもうさまがわたしの信仰心を重んじる気皆無とか、薄々気づいてたけどショックだわ。――もういっそこの頭を丸剃りにして還俗の可能性ゼロなの見せつけてやろうかしら。つるっぱげの女なら流石にお妃になんてできないでしょう」

「そうしたら今度は女坊主のあまりの可憐さにどこかの律師さまが〝やっぱりお前が好きだ!〟とかデレ始めるかもしれませんね!」

「あー!」


 ――フラッシュバックする暗闇の記憶。あいつヘタクソか、と思った瞬間、自分の女としての格が下がった気がした。こうホイホイ唇を奪われるのは既に貞操が守れていないのではないだろうか。


「……明空のあれ、どうなったのかしら」

「律師さま?」

「あのクソ野郎、一応入内反対派なのよね。わたしのためでなくBLの攻様のために」

「ああ。何か動きあったんですか?」


 ……この人に知らせてしまっていいものだろうか。何やらためらいが生じる。


「あっちはあっちで活動してるはずなのにその後の進捗報告がなくて不気味だなあと」


 エアセックス、人に見られて聞かれて噂になってそれで入内話がかき消えるという計画だったはずなのに、まだ兄宮が知らないとはどういうことか。明空があれで死んだとも聞かない。確か、賢木中将の腰巾着がどうとか――


「……賢木中将ってわたしの入内に反対なの!? あれ、味方に引き入れられないかしら! 何とか交渉して」

「やめた方がいいですよ絶対ぼくらの手に余る」


 間髪入れず即レス。


「これまでも今上に名家の姫君が入内するという話が出るたび、あの人が無惨に喰い散らかして。内大臣家の姫君がそれはひどい目に遭ったけどなぜかあの人はお咎めなしで? どこぞの公卿の姫君などお妃どころか何年もぐだぐだ膿んだり潰したりこじれにこじれた挙げ句ついこの間、まだ二十そこそこなのに奇妙な死に方をなさって。何でも鉄輪かなわをかぶって女鬼になろうとしたとか? 明石あかしより遠くに流されてしかるべきなのに、弘徽殿女御さまが関白家だから関白さまが対抗馬を潰させては揉み消しているという噂で。このたびクビになるって尚侍さまはずっとあの人とデキてるって噂があったせいで女御になれなかったとか? 確かに入内妨害のプロですがぼくが頭をおかしくされて差し向けられたのはあの人のやり口としてはマシな方で、これ以上あの人とかかわると預流さまは確実に妊娠するか鉄輪をかぶるか、菩薩とほど遠い状態になるでしょう」

「そ、そこまで」

「ぼくらシングルタスクの人類とは根本的に精神の構造が違います。属性的にぼくでは調伏できない八岐大蛇、うっかり人の器に受肉したバケモノですよ。ぼくなんかよりよっぽど唐天竺から渡ってきた化け狐の生まれ変わりだし、メギドラルを追放された邪悪な不死者ですよアレ。前世とか信じてなかったけどあれはチート能力としか。掛け値なしのホンマモン、取引とかそんなのが通用する相手じゃないです。視野も価値観も違いすぎる。あの人に限っては人間同士、話し合えばわかり合えるとか思わないで。男同士でもあんなに頭をおかしくされるんだから女人はあの人と口を利いただけで人間としての価値が減って妊娠します。これは本当に。預流さまのような清浄な尼は一刹那たりともかかわるべきではない。あれに時間を費やしただけ、あなたの功徳が減ってしまう!」

「急に早口になったわね。一体どんな目に遭わされたの。暗示って具体的には?」

「はは、どんな目でしょうね……」


 こうして預流のそばに、賢木中将の悪口が無限に出てくる男がもう一人出現した。面白いくらい男に嫌われる男。


「ともかくあの人は駄目です。こうなったら〝とりあえず〟何か考える前に預流さまを一口味見、とかするのに決まってるし。女人を実績トロフィーとしか思ってない人です。味見してポイされたら元も子もないですよ。世間体は損なわれても、ぼくと沙羅さんと兄宮さまで生物学上の貞操だけでも守りましょうよ。多くを望んじゃ駄目です」

「それはそうだけど――」


 と、音を立てて牛車が止まった。大分長く走っていたが。


「到着しました、尼御前さま。これより牛を外します」


 牛飼童が声を上げる。


「あ、うん」


 預流は何気なく御簾を上げ――

 そのまま固まった。沙羅と靖晶も横から外をうかがう。

 古い邸だった。屋根に草が生えている。桧皮葺ひわだぶきは傷むとどんどん草が生えてくる。庭も雑草が腰の高さまで伸びてそのまま立ち枯れて隙間を赤蜻蛉あかとんぼが縫うように飛んでいて。門といい壁といい柱といい床板といい木の建材はどれもこれも真っ黒に黒ずんで、埃をかぶって穴の空いた床板につがいを背負った飛蝗ばったが歩いていた。

 どこからどう見ても。


「へー、すげえボロ屋」

「こういうのは風情があるって言うんですよ。おもむき深い。び。わざわざ古いところに住みたがる人もいます。今は秋ですしこういううら寂しいところで渡り鳥やら何やらの声聞いてしんみりするのが平安情緒ってやつじゃないんですか? 冬、寒くてどうしようもなくなる前、余裕のある秋のうちに。許されない恋で世間から逃げてる感たっぷりです」

「単にボロい家だと思うけど」

「ぼくこのお邸知らないなあ。なるほど、ここなら長く隠れてられそうですね。ご飯は干し飯アルファ化米とかなんですか? 井戸は水が出るのかな」


 沙羅と靖晶が無邪気に追い討ちをかけた。預流は何だか頭の上の方が冷たくなって倒れそうなのに。


「こ、これ、夕顔が死んだ廃墟じゃないの」

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