巻の九 ためらわずにトぼうぜ

 ――その翌日。靖晶は再度、直衣を返却しに京極桜林院を訪れたわけだが。賢木中将は正妻に打たれたほおの赤みももう引いているくせに、女房に膝枕されてまともな応対する気ゼロだった。


「後朝の歌を取りに来たか、力作だぞ。今晩は何を着ていく? シンプルに狩衣か。お前はチビだから派手な色を着ないとどこにいるかわからんぞ」

「いらなくなりました」

「殴られて臆したか、甲斐性なし。二、三発殴られてもそのまま我慢して突っ込めと言ったろうが。女に殴り殺された男など――たまにいるが、焦がれ死にするくらいが男の本懐というものだろうが。恋する男なら憤死くらいしてみせろ。平安恋愛列伝にお前の名を刻め」


 がっつり精神論。


「多少鼻血など出ても、女も血が出るのだからお互い様だ。ビビるな。前戯と思え。アドレナリンが出てたら痛くない。抵抗するのをねじ伏せるからこそのハンティングだろうが」


 しかし靖晶は既に悟りの境地で、賢木中将の肉食名言など心の表面を滑っていくばかりだった。


「中将さまはご存知ないですか。菅公考案の新たなまじないです。恋慕に狂っておかしくなった男を半刻はんこく、大きな櫃に閉じ込めてから炭の粉を溶いた塩水をたらふく飲ませると正気に返るんですよ。書き記して我が家の秘伝として後世に残そうと思います。いや、北野の火雷天神からいてんじんの加護は凄まじい」


 靖晶のワードサラダで珍しくオートレスポンスモードがエラーで止まり、中将は身体を起こした。


「……お前が何を言っているのか全くわからんが? 北野の火雷天神? 御仏の加護ではなく?」

「ぼくは何を言ってるんでしょうね!」


 靖晶はもうやけくそで笑うしかない。


「炭の粉を飲んだらケガレた煩悩が消し飛んでそれどころではなくなりました! もうぼくのことは放っておいてください!」

「計画通りに人を遠ざけられなかったのか? 殴られたのか?」

「遠ざけて睦言をささやいて抱き締めて口づけて押し倒しましたよ!」

「それは最後まで行くだろう? ……システムの起動シークエンスにトラブルでも?」

「そういうのじゃなくて気づいたら塩水飲まされてたんだよなー!」

「全くわからん」

「ぼくにもわからないんですよ!」

「このおれが手取り足取り献策したというのにお前の不甲斐なさは何だ。この話のED枠はお前だったのか?」

「むしろあなたの協力はない方がうまく行ってたかもしれないんですよ! 二度とあなたの作戦になんか乗るもんか! やるにしても自分のタイミングで行きます!」

「おかしい。おれの計画ではお前のやらかしで尼の入内話がおじゃんになって、おれがお前の純愛ぶりを涙ながらに語って全力で庇ってやり、お前は妻を得ておれに感謝して自由自在に動く駒になるはずだ。新たな受領の財布で豪遊する予定は」

「人間は計画通りには動きませんねー! 人生って面白ー!」


 一通り喚きちらして、靖晶は畳に突っ伏した。


「……本当に何であんな話に乗っちゃったかなあ」

「何だよおれは友人であるお前のせつない片恋を叶えてやろうと」

「白々しい! 受領の財布で豪遊するつもりだったくせに!」


 ――皆さん、「えっ靖晶は悪くないよ、そそのかされてただけで純愛だったよ、ていうか謝る必要なかったじゃん! 預流はもっとちゃんと話聞いてあげなよ!」とかお思いかもしれない。

 違った。靖晶には炭の粉を飲まされてしかるべき理由があった。八岐大蛇の酒毒はどっかのBL坊主の下手くそな挑発とは次元が違った。

 賢木中将はちょろっとポエムを語っただけで人間が自分の思い通りに動くなどというナイーブな考えを持ち合わせていなかった。これまでの話だけでは彼のカリスマスキルはまだ三割くらいしか発揮されていない。

 残り七割が真の技前。彼はあのドシリアス会話の後、ちゃんと靖晶が入内妨害作戦を成し遂げられるよう駄目押しでモチベーションを上げてやっていた。


「尼御前さまに言えるわけない、あなたと野球拳したら仲よくなっちゃったなんて!」



 賢木中将に戦略的にも戦術的にも退路を断たれ、マウンティングされて酒に酔っているのかその場の雰囲気に酔っているのかよくわからない状態になっていた靖晶だったが。

 何杯目からか。酒をあおっているうちに何周か回ってキレ始めた。


「何でぼくばっかりこんな我慢しなきゃいけないんだああ!?」

「そう、それだ! お前に足りなかったのは怒り!」


 元々、彼は怒り上戸だったがこの場にいない者に矛先が向いた。


「ぼくはメッチャ頑張ってるのにあの女に搾取される一方じゃないか!? これを惚れた弱みなんて言っていいのか!?」

「いいはずがない! 女なら何をしてもいいと言うのは逆差別だ! 割を喰うのは男ばっかり! お前にはお前の権利があるはずなのに!」


 賢木中将はなだめなかった。オートレスポンスモードで靖晶の非モテインセル根性を煽りまくった。


「お前はこれまで能力に見合わない不当な扱いを受けてきた! 播磨守、お前はもっと評価されてしかるべき男だ! このおれが保証する!」

「うおおおおおー!」


 この世には自分が上位種と見なした男に褒められたときしか「褒められた」と思わない男がいるという――絵に描いたような平安イケメンで高級貴族の賢木中将は、大抵の男にとって上位種だった。何より重要なのは、彼は靖晶よりちょっと年上だったこと。

 彼が最も恐ろしいのは他人を褒めるとき。その甘言は女にばかり甘いのではない。

 炎上に更に燃料を注ぐのが京極桜林院――クラブ京極のナンバーワンとナンバーツー女房ホステス常盤ときわちゃんとともえちゃん。この二人がガッチリ両脇から靖晶を挟む。

 この二人は男をダメにする「さしすせそ」――「流石」「知らなかった」「すごーい」「説明上手」「そうなんだー」の使い手。五つの言葉で喋るタイプのコミュ障を完全に攻略する。


「播磨守さまって物知りー。もっとお話聞かせてー」

「巴、バカだから全然知らなかったー。播磨守さま賢いー。知的な男君って素敵ー」

「女とはこうあるべきなんだ! 口答えする女は根性がなっていない、根性が!」


 女が隣に座ってお酌してうなずくだけの安易な成功体験で人格を根底からねじ曲げる。イケメンが気の利いた言葉で女を口説き落とせるのは当たり前、女を挟んで悪いホモソーシャル関係をこじらせて男を落とすのが恋愛工学の真髄。

 カリスマを何倍にも増幅してヘテロ男をねじ伏せる賢木中将専用の舞台装置、クラブ京極ハニトラ御殿が動き出した。都で一番スケベな男が作ったスケベの殿堂、ものすごい説得力。ここにいない女すら思いのままになる夢を見られる場所。

 いや、靖晶にも正気に返る瞬間はあるにはあったのだ。


「役に立たないものが好きなんですよ。別に何も役に立たないけど美しいもの」

「花とか?」

「それはわりと皆が喜んでるじゃないですか。花も月も皆好きで和歌に詠んでるじゃないですか。嫌いだとか言ったら変なやつだと思われる。星の巡りのようなもっと人にわからないもの――彼女の説法は特に誰の役にも立ってない。むしろ不吉だ」

「痛烈だな」

「それでも気にしないあの人が好きだったはずなのに。役に立たないなんて本当のことを言ってしまった……」

「ははは。おれは今、オートレスポンスモード全開で恋愛アドバイザーをやっているはずなのにお前が何を言っているのか全然わからないぞー恋だなー」

「好きだから好き程度のことしか言ってないので気にしないでください」

「お前相当面倒くさいな! 考えすぎだ。どうでもいい女の前で心を開いて馬鹿になれ。本命の女と本命でない女を使い分けてこそ一人前の平安男子だ」

「いやあの。……房中術を人前で披露できるほどはっちゃけてないんですが」

「勿論だとも」


 ここからが本当の罠だった。


「お座敷遊びはそんな令和の風俗のように高カロリー食をパッと食って腹一杯になって胃もたれして帰るだけの味気ないファストフードではない。段階を踏んで仲よくなる疑似恋愛、スローフードだ。最初の一口を体験していくといい」

「ス、スローフード?」

「無論疑似でないガチ恋も可。おれが遊び方を教えてやろう」

「あの、ええと。和歌とか物語の引用とか満載の小粋な会話、マジで勘弁してほしいんですけど。平安ハイコンテクスト圧縮言語、ぼくには無理なんで。仕事に知性全振りで。よく知らない女性と会話すると気遣っちゃって癒されないタイプだし」

「仕方ない。コミュ障童貞のために初心者向けの、教養がなくても楽しめるやつを教えてやろう。自分だけがメタ知識無双で令和の内政チート技を使えると思うなよ」

「童貞ちゃうわ。れ、令和のチート技?」


 用意されたのは塗りの鉢に賽子。二つあって片方がみどり、片方が白。

 賢木中将はゆっくりと立ち上がると、鉢を片手に、もう片手で扇を開き、ゆらゆら舞い始めた。すかさず常盤が前に出て同じ動きで舞う。


蹴鞠けまりなし給ふぞ蹴鞠なし給へば。かくの如くさぶらふぞ。かくの如くさぶらふぞ」


 唱えながら扇を振って舞い。


「あなや、おかし、ヨヨイのヨイ!」


 勢いよく畳に鉢を伏せた。


「……ヨヨイのヨイって」

「と、このように歌いながら踊ってかけ声をして男と女で賽子さいころを振る。翠が男で白が女だ」


 鉢を開けると、翠は四、白は二。


「はいおれの勝ちー!」


 それで常盤が、身につけていた唐衣を畳んで床に置いた。


「出た目の小さい方が衣を一枚脱いで、裸にされた方が負けという画期的な遊びだ。同じ数だったら引き分けで振り直し。何も頭を使う要素がない!」

「……野球拳……」

野崎のざきの観音の加護で思いついたので野崎の舞いと名付けた!」

「令和のメタチートじゃないんですか」


 靖晶はどこから突っ込めばいいのか。


「野崎観音って色町歓楽街じゃないですか」


 世間では遊び白拍子しらびょうし傀儡子女くぐつめなどの遊女が陸の宿と川を行く舟とで春をひさいでおり、貴族も役人も洛外に買いに行く。貴族は宴にコンパニオンを呼んだりもする。


「色町行くんだ、意外。自前で攻略するからそういうのいらないのかと思ってました」

「部下の福利厚生だ」

「一瞬素晴らしい職場環境だと羨んでしまった!」

「部下や従者にいい思いをさせてやりつつ世間の見聞を広めている。政情の話も聞けるし意外な女が副業で小遣いを稼いでいたり、世間から消えた美姫が流れ着いていたり拾いものがある」

「悪趣味ー」

「それで世渡りの役に立つ。この常盤ちゃんも江口えぐちの色町からスカウトしてきた。お前の大好きな尼御前さまも式部卿宮が失脚したら江口に流れているかもしれないぞ!」

「嫌なこと言わないでください!」

十二単じゅうにひとえを脱がすのはやり甲斐があるぞ! 本当に十二枚も着ているわけではないが!」

「く、公卿の女房装束フル装備は唐衣と裳も一枚ずつ数えるんですか!? これ男一人で攻略できるんですか!? 六分の一の何乗!? いや相手より大きい目を出す確率はそもそも。1d6の期待値が三・五として」

「だからそういうのをやるなと。烏帽子を数に入れるかどうかは協議して決めるとして――お前が下帯フンドシ一枚になったら次はおれが脱いでやる。おれに恥をかかせるなよ」

「れ、連帯感で強制的に絆そうとしている気配!」

「運で負けたら恥だぞ陰陽師。考えるな。陰陽の気を操って〝流れ〟を引き寄せろ」

「賽子勝負に流れなんてないですよ。――なにげにこの賽子、翡翠ひすいと象牙ですね!? これ一個で何人の恵まれない子が!? 馬鹿じゃないの!?」

「馬鹿になれ!」

「いや……馬鹿になれって言われてもこんなことで……」


 最初はドン引きで渋々賽子を振っていた靖晶だったが。


「あっと一枚! あっと一枚!」


 普段にない刺激であるとき脳内麻薬がドバッと一気に出て、超絶あっさり陥落した。あっという間に烏帽子と下帯だけになり、賢木中将もやたら重ね着しているのを二、三枚脱いだ頃には酒の力もあってテンション爆上げ最高潮。扇を振り回して踊っていた。

 自分一人ではなく横に率先して馬鹿をやってくれるサポートがいるせいなのか速やかにブッ壊れた。ただの馬鹿ではない、シリアスパートで真面目なときはものすごく真面目で地位も名誉も知性も品格も教養もルックスもある上位種の賢木中将がわざわざ彼のためにレベルを落としてコメディパートにつき合ってくださっている。二人して衣を脱いで踊っていたら本当に馬鹿になった。


「見ろ、素晴らしい光景だ。天照大御神あまてらすおおみかみですらも天岩戸あまのいわとから出てくるぞ」

「おおお、ありがたやありがたやー野崎の観音さまやー」

「更にこの常盤ちゃんはストリップの名手でもあるのだ! ここからまだ魅せてくれる!」

「アスリートの技が冴え渡るー!」

「女体って美しいだろう? 男に生まれてよかっただろう?」

「生きててよかった! ありがとうございます! ありがとうございます!」


 一瞬でもアホみたいでもごっこ遊びでも、運命共同体となることでホモソーシャルな絆はMAX。


「靖晶ー! おれたち、友達だよな!」

「はい、中将さま! 中将さまは人生で一番の親友です!」


 成し遂げた後は二人とも、半裸で肩なんか組んでいて。そのうちカラオケ大会とか始まって。いや勿論歌っているのは当時の俗謡で伴奏は女房の皆さんによる弦楽です。

 その後一応、単衣一枚羽織ったが、もはや靖晶は衣を着ていないのを恥ずかしいとも思わなくなっていた。


「ぼくこんなに楽しいの生まれて初めて……」


 俗世から遠ざけられて育てられたアサシン少女が人生初の遊園地に行った日、みたいなことを口走って、涙ぐんでさえいた。


「男同士で馬鹿やるの、楽しいだろ! 必要なんだよ、魂のデトックスが!」

「必要ですねー三大欲求ですもんねー!」


 ご覧の皆さんはこういうのに絆されないように。この友情は、かなりクソ!

 しかもこのアホみたいな策略は、見た目より狡猾だった。緊張のシリアス陰謀モードから弛緩のお色気バカ騒ぎモードにシームレスに移行する手際は、人体のセキュリティホールに対する攻撃。

 性欲とは副交感神経が司るリラックス状態から発生するので、圧をかけて限界まで緊張させて心を折り、ぐだぐだの空気で弛緩させ油断させてからエロ刺激を与える。いきなりエロではなく、前もって真面目な話で情動をぐちゃぐちゃにしたのは理詰めの策略だった。

 靖晶が脳内麻薬でラリったのは、サウナに入ってもないのに日常にない雰囲気の温度差でととのってしまったのだ。場酔いならぬ場ととのい。まさか薬物で洗脳されて、という預流の推測は当たらずとも遠からず。何だかんだここでは最後まで満足させず多少のフラストレーションを残すところまで計算のうち。

 そして従兄弟の良彰程度ならともかく、不邪淫を説き一生不犯を旨とする清純な僧尼に「賢木中将にこんな目に遭わされたがパワハラセクハラ全部盛り、男ってつらい。いや自分はやりたくなかったんだ。不可抗力だ」と堂々とは言えない。

 いや人並みにスケベな従兄弟にはもっと言えない。「え、ただの野球拳とカラオケ? 何でお前、そんなんであそこまでラリって? やっぱりおれが行けばよかった」とか返事されたらぐうの音も出ない。

 一方的な被害者ではない、しっかり楽しんでしまった後ろめたさがある。――安倍播磨守靖晶は自己評価が低くプライドのない男だったがこの件だけは話が別だった。彼は少々残念なドジっ子だが芯は知的で理性的な男! そういうキャラで売っているのにこんなしょうもないスケベお座敷遊びで裸で踊っていたと知られるわけにはいかない! 一方で賢木中将にはこの情報が漏れて失うものなど何もなかった!

 預流はかつて「誰も知らない賢木中将の本性を自分だけが知っている」という思い込みに囚われてしまったわけだが、靖晶は逆だった――「誰も知らない安倍播磨守の本性を賢木中将だけが知っている」。

 完全に弱みを握られた。今まさに自前の脳内麻薬でラリっている靖晶には弱みを握られ魂を売り渡したという自覚すらない。


「その勢いで尼御前をモノにしろ! お前ならできる! 子供部屋に閉じこもってスマッホに没頭する時間は終わった。腰抜けになりたくなければコロナビールをあおって銃を取り、メキシコの太陽の下で本物の男になれ! バンデラスだ!」

「はいっ! 播磨守靖晶、男になりまーす! 見ててください中将さま、脳内世界に閉じこもったサブカル宗教オタ女とか陰陽道の極みたる本格房中術でメス堕ちはらませさせてやりますよ! 陰陽師ナメんなー! 中国三千年の指テクで快楽堕ちさせて子供の五、六人産ませてやる!」

「ええと、王朝が実在したとして四千年でこれが令和より千年前だから三千年?」

「流石中将さま話がお早い! 何が一生不犯だ! 淫語しか喋れないテンプレドスケベ尼僧にしてやる! 島田荘司作品シマソウみたいに、島田荘司作品みたいに! この話にR-18タグをつけてやる! ラブコメとはほど遠いジャンルにしてやる! 目指せムーンライトノベルズ! 行き着く先は快楽天ビースト! 陰陽の和合、肉体言語こそこの世の真実! 書を捨てよ町へ出よう、リアル、リアル、リアル! 現実へ還れー!」

「お前は今リジェネレイトした! アタッカーバレット靖晶、アヴェンジャー荼枳尼ダキニてんとして再召喚されたのだ!」

「真言立川流、まだこの時代にないですけどね! まあいつの時代もやることは一緒ですよ、日本人はドスケベ! 日本人の本性はドスケベ! 鶺鴒せきれいに子供の作り方を教わって以来ずっと! 道祖神ばんざーい! 五穀豊穣ー!」

「播磨守さま、意外と男らしーい!」


 人体というミクロコスモスと社会というマクロ、ジェンダーロールの二つの心理面に同時にクラッキング攻撃を仕掛けて男の性根を土台から破壊する。高度な意図を持ったしょうもない下衆の極み行為が靖晶の人間性の底を抜いて奈落に突き落とした。――自覚はないが彼はうっかり、そこそこ霊感があった。自分で発する言霊に縛られてしまうのだ。アホみたいなことを言ってはいけなかった。

 そこに言葉の軽い男、「相手が言ってほしいことを狙い違わず言う」賢木中将のユニークスキル、オートレスポンスモードがメタにブッ刺さる。預流は「何その厨二病設定」と思ったが間違いなくこの男は妖怪変化。人生のあらゆる局面を舐めプで済ませてきた。

 更にクラブ京極のホステスたちが唱和するとエコーチェンバー現象でどんどん思考が極端に偏る。通常でない精神状態で急速に認知が歪んで「女レイプして何が悪いの? 悪いって言ったら預流さまが悪いんじゃん」と本気で思い込む。

 この頃にはもう話がシリアスから始まったことなんて憶えていない。入内妨害という政治、戦略も関係ない。靖晶が自分で決断したのだ、「加害行為としてセックスを仕掛ける」ことを。純愛とかかけらも残っていなかった。

 これが令和のメタチートテクニックであると同時に平安京を支配する摂関家の大蟒蛇の手練手管。乙巳いっしの変からこの方、日本史の中心を陣取る大貴族・藤原氏のやり方。完璧に整えた厨房でばばっとインスタントに忠臣を作り、いいように動く鉄砲玉を作り出す。――時に、上司も作る。

 彼らにとっては狐の子とささやかれる大陰陽師の末裔と言えども便利なハリボテ。都合のいいときだけ容赦なく毛皮を剥いで血肉が通う人の子と扱い、都合によってまたハリボテを着せて矢面に立たせる――陰陽師と言わず人間全てがそのようなものだった。


「メス堕ち孕ませボテ腹エンド! メス堕ち孕ませボテ腹エンド!」


 こうして女遊びとは無縁の堅物が公衆の面前でエロ同人の台詞を連呼する本物の馬鹿になった。その品性の堕落っぷりは従兄弟の良彰が怖くて泣いてしまうほどだった。それがなぜだか自分の方が被害者のような顔をして上っ面ばかり甘くせつない言葉を垂れ流していたのが前々章。

 ――明空とどっちがマシって見た目イチャついてみせるだけだから具体的な家族計画なんて思い描いてなかった明空の方がまとも、まであった。彼はあれでいろいろ気遣っていた、独鈷杵アタックを避けなかったとか。いやどっちも甲乙つけがたい気持ち悪さ。

 つくづく、預流は男運がなかった。



 ……櫃と炭の粉は意外なほど靖晶の魂を浄化したのだった。あれで最底辺まで堕ちていた人間性が普段通りまで回復し、己を恥じた。あのまま最後まで進行していたら全然ハッピーエンドではなかった。禍福かふくあざなえる縄の如し。人間、何が自分のためになるものかわからないものだ。

 コメディタッチで書いているがこれで舞い上がった挙げ句に幼女誘拐犯になってしまい、明空に不動明王の利剣でシバかれた人もいる。この程度で済んだ辺り、靖晶に御仏の加護はわりとあった。いや、かなりあった。


「とにかくぼくは尼御前さまの大慈大悲に触れて暴力的な男性性というものに嫌気がさしてあなたに恩や後ろめたさを感じる義理は全くないと気づいたので、あなたとは絶交しますしここで二度とお酒は飲みません! 陰陽寮の仕事はしますけど今後、プライベートのおつき合いは一切ナシで! じゃあ!」


 靖晶は一方的に言い放って一礼すると、大急ぎで裸足で庭に下りて走って邸を出ていった。彼はこの後、家に帰ってまだ心配している従兄弟をなだめなければならなかった。まさかクラブ京極ハニトラ御殿の仕掛けがこんな解け方をすると思っていなかった中将は呆然としたままで呼び止めることもできなかった。

 素でリアクションを取れずにいたら、背後の御帳台から笑い声が漏れた。


「……くくく、あそこまで痴れ者ぶって醜態を晒したのに振られおった」

「斎院さま」


 つい低い声で彼女を咎めてしまった。


「……為正。怒っているのか?」

「別に」

「たまには怒ればよいではないか。どうした」


 斎院が少女のように笑うのが今日はなぜか神経に障った。



 いや。賢木中将に失うものはないと言ったが、あった。

 あの場を密かに覗き見ていたもう二人――由西は「ケッ、いいご身分だな」と舌打ちしただけだった。その後、何か真剣に腹立って靖晶の首を匕首で切ろうとしたわけだが賢木中将へのマイナスでは特にない。

 対して茜さす斎院は屏風の陰で、夫が女を並べて下品な乱痴気らんちき騒ぎを起こし、自ら衣を半分脱いで受領如きの下臈と肩を組んで彼女には意味すらわからないたわごとをほざき、歌って踊って大声で笑っていたのにショックを受け、声もなくわなないていた。元賀茂斎院で皇后を母に持つこの国で最も尊貴の皇女殿下、その夫ともあろう者が。立派な公達のすることではない。この時代、男は人前で泣いてもよかったが笑ってはいけなかった。

 クラブ京極のホステスの中には彼女や娘づきの女房もいた。妻の女房が夫の愛人になるのは普通だが、まさかあんな下臈の接待に駆り出しているとは。

 しかも。


「これは恥ずかしい。お見苦しいところを。まことお目汚しであったでしょう」


 問い詰めたら、まだ自分が十三歳ショタであるかのようなすごいブリッ子っぷりではにかまれた。


「……為正。わらわにはお前の心がわからぬ……お前はオートレスポンスモードで自分を見失っているのではないか……?」


 この妻は夫が人を陥れるために何でもするのが恐ろしかったし本当に何でもするのが心底痛ましかった。


* * *


 ということでやっとフラストレーションの全てを解消しみそぎを終えて拭い去ったつもりでいた安倍播磨守靖晶だったが。


「頼む。何があったかは聞かないでくれ。それで皆、誘われても賢木中将さまのお邸で酒を飲んだりしないように。……マジで薬物のせいってことにしちゃおうかな興味持たれたら困るし」


 陰陽寮の皆への説明が大変だった。間違った雄の自意識が肥大したイキりまくりの顔は良彰にしか見られていなかったとはいえ。


「役人として京の都に住んでて中将さまのお誘いを断るなんて可能なのか?」


 あれをやられてここまで効くのはインセル根性の強い靖晶だけで他の者は、特に良彰には何も起きないのかもしれないが。


「ぼくはこれから清く正しい陰陽師になる。もう二度と〝ゆこう〟〝ゆこう〟〝そういうことになった〟とか言って流れで三位中将さまと酒を飲んだりがくを楽しんだり人生語ったりわけありのちょっとエロい女にかかわったりしない! 断じて!」

「全然そんな導入じゃなかっただろうが」


 いっそ魔術論とか語っていた方が無事に済んだのだろうか。

 ともあれやっと食欲も戻り、いつもの日常に帰ろうとしたら。


「今度は山背宮やませのみやさまから惣領に〝内密の頼みがあるから目立たないように来い〟ってお手紙がー」

「まさかそっちにまで殺される!?」

「そっちにまでってこっちには何の心当たりがあるんだよ。妹姫さまのお部屋に通ってるのがバレて叩っ斬られるのか?」


 良彰の認識が当たらずも遠からずになってしまった辺り、進歩なのか堕落なのか。

 またしても戦々恐々で、普段は行かない宮邸の寝殿に赴くと。こちらも畳にしとねの立派な席が用意されていてやっぱりビビりちらし。

 山背宮さまは、彫りが深くてくどいお顔に少々愁いを帯びた風情でため息をつかれた。


「ええと、安倍ナントカの守」

「播磨守です」

「お前、預流の愛人になってくれないか」

「は?」


 天から落ちてきたような話に虚を突かれた。

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