巻の八 時に親切は愛に勝る

「預流ー!」

「あ、兄さま!」


 遠くで兄宮の声がした途端、いきなり声が出るようになって、一気に身体を起こした。その勢いで靖晶を跳ね飛ばした。元々預流は図体が大きくて靖晶は小さい上に、今、随分やせているせいか軽かった。

 ほとんど反射で彼の襟首をひっ掴み、想定通り空の経櫃に。


「隠れて! 早く!」


 手際よく押し込み、蓋をしてかんぬきを差す。これでよし。背の小さい人でよかった。

 そうだ。衣が乱れてはいないだろうか。胸許と袴の紐を確かめる。よし。

 ちょっと唇に触れてみた。濡れていた。つい袖で擦ってしまった――紅を引いていなくてよかった。

 兄は内裏から戻ったばかりなのか冠直衣で、弓を手にばたばたと部屋に乗り込んできた。


「大事ないか、預流ー!」

「え、あ、ええと」

「宮さま! 誰も近づいてはならないと陰陽師どのが!」


 遅れて音羽と沙羅が駆け込んできた。


「預流さまは今朝から具合が悪くてろくにものも食べられなくて! なのに無理をなさって! 物の怪だと!」

「心配ではないか! ……陰陽師は?」


 ……兄は弓を持っている辺り、物の怪退治の儀式を手伝ってくれるつもりだったのだろうか。弓の弦を鳴らすのは悪鬼悪霊を追い払う由緒正しいまじないだ。預流はしゃきっと背を伸ばした。


「な、治りました! そう、物の怪に憑かれて頭がぼうっとして何が何だか憶えておりませんけど、そういえばかすかに陰陽師どのに助けていただいたような!」


 自分でも信じられないような嘘八百がすらすらと口から出た。


「きっとわたしから追い出した物の怪が他の者に取り憑かないように、急いで陰陽寮か自分の邸に持ち帰ったのでしょう! 人に見られるとその人に取り憑いてしまうから、素早く密かに姿を隠し、どこか安全なところで改めて調伏するつもりなのです! 流石、播磨守さまは若くしてこの道の大家たいか、都で一番の陰陽師、晴明公の再来!」


 口から出任せだったが、兄は目を丸くした。


「何と。本当に治ったのか?」

「ええ、それはもう!」

「預流が無事でよかった!」


 それでひしと抱き合い、兄妹きょうだいの絆を確認して。

 山背式部卿宮敦能あつよし親王さまはあらためて部屋を見回すと、櫃の横に巻物が積まれているのに気づいたようだ。そこに、烏帽子が落ちているのを取り上げる。


「……烏帽子が残っておるが。烏帽子なしで帰ったのか?」


 ――烏帽子を着けないでもとどりを丸出しにするのは全裸になるのに等しい。流石にこのパーツは櫃に入りきらなかったようだ。


「まじないで神がかりになった勢いで烏帽子を振り捨ててしまったんですね! 夢中で恥ずかしい格好になっているのに気づかないなんて、すごい霊能の才です! 過集中とかそういうの! 天才キャラっぽい!」

「何と預流のためにそこまで必死になってくれるとは。褒美を取らせねば。陰陽寮でよいのかな」


 兄宮は感心した顔で深々とうなずいたが、横にいる沙羅の方が首を傾げていた。


「預流さま、そんなすげえ物の怪に憑かれてたんですか? 朝メシが食えなかったくらいで」

「え、ええと。実は今朝より前から、人には言いにくい種類の体調不良がその。恥ずかしくてあなたたちに言うのも薬師お医者を呼ぶのもためらって」

「そ、そうだったんですか。……下痢とか?」

「どうしようと悩んでいたら陰陽師どのが察して向こうから来てくれて。霊感ってすごいのねえ!」

「あいつそんな仕事できるやつだったんですか?」

「能ある鷹は爪を隠すのよ!」


 預流は自分がこんなに嘘をつける女だったと初めて知った。

 兄宮が、ついでにここで夕食を食べると言うのを「まだふらふらして本調子じゃない」と一生懸命追い出して。


「ちょっと皆で、お湯を沸かしてぬるま湯にして桶に持ってきて。用意していた〝あれ〟をやるときが来たわ」


 ――ばたばたしてすっかり、さっきまで何にすくんでいたのかよくわからなくなった。音羽に言う声が自分でも据わっていた。

 櫃に向かってささやく。


「陰陽師どの。もう喋っていいわよ」

「え、陰陽師、そん中にいるんですか」


 沙羅が目をしぱしぱさせた。


「わたしから祓った物の怪にやられて自分がおかしくなっちゃったのよ。兄さまの前で面目を潰すのもかわいそうだから。これからわたしが調伏してやるわ」

「やっぱり仕事できねえんじゃん」


 沙羅が呆れているのは放置として。


「あなた、わたしが〝寸鉄を帯びてる〟って言ったわよね。その情報知ってるの、賢木中将だけなのよね」


 周囲の者には〝独鈷杵〟と見たまま言っている。明空をブン殴るのに使ったが、暗かったしメリケンサック方式だったので明空は寸鉄だと思ったかどうか。確か賢木中将に語ったあの一度だけ。


「……はい。中将さまにそそのかされて大それたことをしました」


 経櫃の中からは半泣きの頼りない声がした。


「お察しの通りです。寸鉄も漢詩も人払いの作戦も全て中将さまの入れ知恵で。香と直衣も借りて、後朝の歌を作ってもらう約束までしてました。馬鹿なことをしました」

「名前は?」

「……公務中に知りえた情報を悪用しましたー! 公務員にあるまじき公私混同、大変反省しております! 調子こいてましたごめんなさい!」


 いよいよ半泣きですらないガチ泣きの嗚咽が漏れ出した。


「あの、預流さま、出してください。ごめんなさい。謝りますから。反省します。ぼくが悪かったです。何でもしますから」


 そこから、命乞いが始まった。


「出家しろと言うならします。これ、息が詰まるんです。息苦しいし足が変な方向に曲がってて。このままじゃ死んでしまいます。ぶたれたり刺されたりしても仕方ないと思ってましたがこの死に方は嫌です。ここで死ぬのは勘弁してください後生ですから。尼に狼藉を働いた挙げ句失敗して櫃の中で死んだなんて家族がどう思うか。出家した方がまだマシ。まさかぼくに毒で自裁して果てろって言うんですか」

「わたしの目が黒いうちはそんな消去法的懲罰的出家、許さないから。信仰もないのに逃避で出家されたって迷惑だし邸で陰陽師に死なれたんじゃ不吉じゃないの。ちょっと待って、もうちょっと待って。喋らなければもうちょっと息ができるはず。浅く息をするのよ。今準備してるから」

「準備? 何の?」


 この日のために預流はずっと家人たちに秘伝を言い聞かせてきた。


「――できた!」


 それが用意できると、預流は櫃を開けてなるべくそちらを見ないように顔を背けて靖晶に烏帽子をかぶせてやった。それは自分で直してもらうとして。柄杓を差し出す。


「これ飲んでこれ。何でもするって言ったでしょう」

「な、何ですか」


 真っ黒な水を牛馬の飲む用の桶一杯。


「木炭を石臼で挽いた粉。をあっためた塩水に溶かしたもの。黒いのが怖いけど炭だから、何も身体に悪くないから。ほらわたしが飲んでも平気」


 と預流自ら柄杓の中身を一杯こくこくと飲んでみせた。


「はい、どうぞ」


 靖晶はおっかなびっくり柄杓を取り、ちょっと舐めた。


「……焦げくさい……」

「焦げくさいだけよ。さあ飲んで。どんどん飲んで」

「まさかこの桶一杯?」


 目を白黒させていたが、靖晶は叱られるのが怖いのか、おずおずと黒い塩水を飲んだ。柄杓が空になったらまた桶から汲んで差し出す。五、六杯飲ませたところでげっぷが出た。


「もう無理です、のどの奥までいっぱいです。これ以上飲んだら吐いてしまう」

「じゃここに吐いて」

「は?」


 預流は角盥つのだらいを差し出した。


「吐きそうなんでしょ? のどの奥に指を突っ込んでお腹の中のものを吐き出すの。汚いし苦しいけど頑張って! 死ぬよりマシだと思って! 櫃の中で死ぬと思ったら何でもできるでしょう!」

「あ、あの」

「何ならわたしが指を突っ込んで吐かせてあげる。へどがかかるかもしれないけどそれくらいの覚悟はしてるから! 子供と酔っぱらいがへどを吐くなんて当たり前だから何も恥ずかしいことはないわ! 口開けて! お袈裟は糞掃衣ふんぞうえと言って本来みすぼらしい襤褸布ぼろぬのつづったもので僧の功徳を表しているから、人助けのためなら汚しても大丈夫よ!」

「いや、あの、何の意図があって? どういう目的の行為なんですか?」

「かの菅原道真公考案の平安胃洗浄術」


 しばし、靖晶が柄杓を手にしたまま動きを止めた。


「……それは史実でも古典の引用でもないですね?」

「パクリじゃないの! 昔、痘瘡騒動のときに知り合った薬師くすしに教わって! 貴族なら毒を盛られることもあるだろうって。いえパクリだったとしても人命救助よ! 毒を抜くにはこれなのよ! 炭の粉が毒を吸い取って胃の腑の中を綺麗にしてくれるの。さあ吐いて!」

「ど、毒って何ですか?」

「あなた、賢木中将に媚薬か何か危ないドラッグ飲まされて頭がパーになってるんでしょ? 目つき危なかったしわけわかんないこと言ってるって従兄弟のお兄さんが心配してたし、賢木中将があなたをひどい目に遭わせるって言ってたし。盛られた毒を出すにはこれなのよ、これ! さあ飲んで吐く、飲んで吐く! つらいけど頑張って!」

「……いやあの……」

「わたしを信じて!」


 預流は柄杓の柄ごと、彼の手をぎゅっと握って瞳の奥を覗き込んだ。


「賢木中将にとんでもない人体実験をされたんでしょう! あなたが悪いなんて思ってないわ、安心して! 薬のせいなのよ! あなたに責任はないわ! 薬物、ダメ、絶対! 依存症は自分で努力して治すものではないの、周囲が理解して正しい知識で治療してあげなきゃ! 吐いた後は塗籠ぬりごめに閉じ込めて、離脱症状が消えるまでつき合ってあげるから! 職場や親戚のお兄さんにはわたしが説明するわ、一緒に社会復帰しましょう! ええ、世間の目は冷たいでしょうが、何度転んでもわたしはあなたを見捨てない! 一切衆生いっさいしゅじょうを救うべき御仏の大慈大悲があるから! 宗教があなたを助けなくて誰が助けるの!」


 預流は誠心誠意説いたつもりだったが、靖晶は半分白目を剥いてひっくり返りそうになっていた。それが諦めたように、何度もかぶりを振って言う。


「……催眠暗示的なものなので吐かせなくていいし櫃の暗闇の中で己と向き合っているうちに正気に戻りました! 薬じゃないです!」

「え、そう? あなたさっき目が危なかったわよ? 本当に何もキメてないの?」

「大丈夫ですから!」


 口だけでは何とでも言える。預流はじっと靖晶の目を見た。


「何かメッチャ目を逸らす……あなた普段人と目を合わせないのよね……目が合うの自分の魔力に酔ってるときかキマってるときなのよね」

「な、納得いただけましたか」

「大丈夫、気にしないで! わたし、憧れていたの」

「あ、憧れというと」

「口で膿や蛇の毒を吸い出すとか薬湯やくとうを口移しで飲ませるとか溺れた人に息を吹き込むとか、いかにも徳が高いじゃないの! やってみたいと思っていたのよ!」

「……あ、もうぼく無理。駄目。耐えられない」


 大丈夫と言いながら腰が砕けたのか、へなへなと畳に手を突いた。


「急に正気に戻るものなの? 大丈夫? わたし、心配してるのよ?」

「はいもう知性が通常の五分の一になってすっかり阿呆になっていたのが炭の粉で治りました。何を考えていたのか自分でもさっぱりわかりません! 帰っていいですか!」

「親戚のお兄さんに連絡して迎えに来てもらう? その状態で牛車に乗れる? 休んだ方がいいと思うけど。牛車で揺らして真っ黒なへどを吐いたらきっとお兄さんも従者も困るわよ。それとも歩いて帰るの? もう暗いわ、夜道は危ないわよ。泊まっていく?」

「お願い、家に帰して! 親切にしないで! いっそ殴って放り出して!」

「そんなヘコまなくていいのよ、わたし全然気にしてないから!」

「気にしろよ!」



 こうして預流の前は無自覚に結果的に入内妨害作戦の二の矢を防ぎきり、靖晶を邸から叩き出した――逃げられた?


「預流さま、何で預流さままで物の怪退治の真っ黒い塩水飲んでるんですか」

「これはわたしの心を浄めているの」


 沙羅に咎められるまで、預流は桶の残りを柄杓で掬って飲んでいた。


「預流さまは心の綺麗な方ですよ」

「そうでもないのよ」


 あのときは慌てていたので本当に何とも思っていなかったが、時間が経った今になって、預流の中には葛藤が生まれ始めていた。

 ……わたしは、あのとき兄宮が来なかったら受領の妻になっていたのだろうか。いや受領の妻が悪いわけではなく、勢いだけで純潔と信仰を捨てて尼を辞めていたのかと。

 勢いとしか言いようがない。流れ? 空気? あのセピア色の幻は一体何だったのか。

 ものすごく全てがどうでもよくなっていた。知性が通常の五分の一になっていたのはこっちもだ。「明空があんなことをしたばかりなので、絶対途中でキャンセルが入ると思っていた」という正常性バイアスもかなりあった。

 焦げくさくて苦くてしょっぱいのを飲みながら己に問うていた。


「わたしってそんなにあの人のこと好き? ねえ? 人を見下して性格は悪いけど外聞を気にするだけマシな方だし何よりもラリってたとはいえいろいろ断ってからやってた分、明空より全然マシ。そうよあのクソ強姦魔より遥かにマシよ。あの人が地獄に落ちてはいけないとは今でも本気で思っているし。でもそれって好きってこと? 初瀬さまと信仰を捨てるほどのこと? 二人して違う地獄に落ちてたら二重遭難じゃない?」

「何をぶつぶつおっしゃってるんですか、預流さま。二重遭難って?」


 ……きっと痴漢に遭ったら声が出なくなってしまった現象。

 いや、どうだろうか。最初に強姦されかけたときの傷つき方はこんなではなかったような気がする。それこそ神さま仏さまお父さまお母さま初瀬さま兄宮さまに全身全霊で助けを求め、しばらくフラッシュバックに苦しんだ。あのときほどつらくない。

 それって強姦されかけるのに慣れてしまったから? 鈍くなった?

 あるいは強姦ではなかった? 合意していた?

 ……合意していた?


「ごめん、沙羅、わたし今、人生の悩みについて考えているから話しかけないで」

「人生の悩みですか」


 これほどの悩みはあるまい。

 ――世にレイプから始まる愛などないと聞くのにわたしはよりにもよってあのクソ坊主に好意を抱いてしまった。

 そして今、あの人に心乱されている。

 わたしはもしかして、無理矢理抱きすくめられキスされて押し倒されると誰のことでも好きになってしまうのでは。ひどい目に遭った理由を無意識に自分の中に求めてしまうたちなのでは。

 意志の弱い女なのでは。

 チョロいのでは。


 法難など何ほどのこともない。預流は命を惜しみはしない。牙を剥く狼が相手であってもこの身を投げ出すことができる。

 そう信じていたのに。

 真の信仰の敵、仏法を犯す悪魔はそんなものではないと思い知った。

 それは己の心の中にいる。雛人形を抱いた裳着もぎ前の童女の姿で「いいじゃん彼、つき合っちゃいなよー。お妃とかガラじゃないし坊主なんか現実見ろって感じ」とませたことを言って笑っている。

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