巻の七 ルビコン川を渡れ
「わたしは! わたしの貞操は一度ならず二度までもあのクソ強姦魔に穢されて! どうしてわたしはあんな男に心を許してしまったの! どうしてわたしは一度でもあんな顔だけのクズが好きだと!」
預流は邸に戻ると、御帳台に引きこもっておいおいと泣き崩れた。眠るどころではなく夜通し泣いていて、朝、目は腫れるは眠くて仕方ないは。〝恋とはなぜままならないのか〟と泣くの、全然楽しくない。
「預流さま、そろそろお着替えになって朝餉を」
「食べたくない……わたし、このまま飢えて死ぬ……」
「体調がお悪いのですか?」
音羽が心配してくれたが、こればかりは彼女にも教えられない。もう今日は一日、御帳台で泣き暮らしていようと思ったが。
「預流さま、具合が悪いんですか?」
「そうなの、沙羅も放っておいて」
「じゃ安倍の陰陽師の小うるさいおっさんの方が門の前に来てますけど、追い帰しますね」
「それはちょっと待って! お通しして! 着替えるから!」
いきなり目が醒めた。音羽を呼んで顔を洗い、法衣を着せてもらう。
「親戚のお兄さん、母屋に上がっていいんですよ?」
「いえ地下の小役人ですので庭で結構。それより! うちの惣領がいよいよおかしくなりました!」
と良彰は庭にひざまずき、こちらも袖で顔を覆って泣き出すものだから。預流も血の気が引いた。
「おかしくなったって、播磨守さまに何が」
「昨日の夕方、賢木中将さまの邸に呼ばれて朝、酔っぱらって帰ってきて。明らかに目つきがヤバくなって気色悪い笑い方をするようになって、何があったか聞いてもへらへら笑って〝ヒ・ミ・ツ❥〟とかごまかして。BがLな目にでも遭わされたんでしょうか。ケツを掘られて壊れたんでしょうか」
「大変だわ」
「あいつのことは
悲痛な訴え。これは、あれに決まっている――預流は睡眠不足とご飯抜きが祟って「何てこと」と失神したかったが、そんな場合ではなかった。
「勿論よ。正義の解釈違いでモメただけで死んでしまえとまでは思ってないわ、別に従兄弟のお兄さんが謝らなくていいわよ。――そちらの邸に行く? 陰陽寮?」
「それがふらっとどこかに行ってしまって。行く先に見当がつかないので捜しに来たんです。こちらでもないんですね。陰陽寮や邸に現れたらご連絡します。もしこちらに来たら何かどうでもいい話で気を引いて、密かにうちに連絡を。明らかに態度が変ですが刺激しないように」
「わかったわ。わたしは何があってもあなたたちの味方よ、気をしっかりもって。御仏の大慈大悲が播磨守さまを救ってくださいます」
泣き暮らしてはいられない。しっかりしなければ。あんなクソ強姦魔のことは忘れて現実に対処するのだ。
良彰はもう一度陰陽寮を見てくると言って辞し、預流は音羽に命じた。
「〝例のあれ〟を用意させて!」
「〝例のあれ〟ですか」
「火が点くと大変だから水でよく濡らして石臼で挽くのよ!」
それで預流は
「ああ黙って待ってるってキャラじゃない! でも親戚のお兄さんが駆けずり回って捜してもわからないんじゃわたしにもどうすることもできないし。一体何があったというの、靖晶さん! ……まさか中将がそんなエグいことを……自殺したりしないわよね……?」
無駄に妄想をたくましくして悶えたりしていた。自分も大変な目に遭った直後のパニック状態。
彼女はまだ、自分が置かれた境遇をちゃんと理解してはいなかった。
――それでうっかり預流は、文机にもたれて眠り込んでしまっていた。一晩中泣き明かした緊張の糸がここで切れた。
気づいたとき、嗅いだことのない何やら甘やかな香りがして。――紅と緑色という何かものすごい色彩の暴力みたいな直衣の男君が鎮座していてビビった。
「や、靖晶さん?」
「あ、失礼します。よく寝てらしたので起こすのをためらって」
畳に座っていたのはよく見ると噂の安倍播磨守靖晶で、軽く頭を下げた。何だかひどくやせてほおの肉が落ちているし、いつもの黄色い狩衣と全然違うから別の人なのかと思った。普通に口を利くのでほっとした。が。
「……寝顔がかわいいなって……」
……表情が。というか口許が緩い。彼らしくもなくにやにやしている。良彰の言う通り、うっすら何かが気持ち悪い。が、口には出さなかった。いくら仲がよくても笑顔が気持ち悪いとか徳のない発言だ。それに、気づかれないようにどうでもいい話で時間を稼がなければ。
「の、直衣着るのね。いつも狩衣だから見違えたわ」
「借りもので。ちょっと派手かな。お恥ずかしい」
「こ、こちらこそみっともない姿を見せたわ。顔を洗わないと。それにお客さまにお菓子を。音羽? 沙羅?」
寝ヨダレを垂れていないか口許を袖で隠して、預流は部屋を見渡した。
――寝入ってしまったのは自分のうっかりだが、そばに誰もいない? 几帳の陰にも?
誰も返事をしない?
馬鹿な。いくら知り合いだからって寝ている女と男を二人きりにするとか――
「みっともないなんてとんでもない、このままで大丈夫ですよ。今日は、お話をしに参りました」
違和感をそのままに、靖晶は何ごともなかったように話をする。
「いつぞやは無礼なことを申しました。あれからいろいろと考えて、預流さまのおっしゃることにも
「いえ、わたしも言いすぎたわ。あなたにも立場があるのに。……
「そう」
誰も来ない? じゃあどうやって良彰に連絡する?
そもそも、どうやって彼はこの部屋に入った? 音羽や沙羅以外にも山ほど家人がいるのに。誰も客人に気づいて預流を起こさなかったと?
靖晶は預流を見つめていたが、その瞳は笑いながら何となくうつろで。
「まだぼくが地獄に落ちないように気にかけてくださっていますか」
「当たり前よ」
即答したものの、預流はほとんど上の空だった。なぜ今日に限って、靖晶とやたらと目が合う?
「それ、もういいですよ」
「どういう意味?」
「〝聞き得たり園の中に花の艶を養うを、請う君、一枝の春を折ることを許せ〟」
――漢詩? 春って今は秋だけど?
顔が近い、と思っていたら。
脇の下に腕を回され、ぎゅっと抱き締められた。――え。
何これ。
「蓮華を
耳許にささやかれた台詞が彼らしくない。
「あ、あなた、正気なの」
「全然正気じゃないです。愛しています。宮さまに成敗されても地獄に落ちてもかまいません。――妻になってください」
「ま、待って、待って」
何とか、肩に手を置いた。
「これ、前みたいにまた途中で止まるんでしょう? 天丼なんでしょう? コメディ小芝居入るんでしょう? ドッキリ的な?」
「前って何の話ですか。ドッキリじゃないです」
「だってそんな突然わたしがモテ始めるとか、あなたもわたしを陥れる陰謀で演技を」
「陰謀。かもしれないけど」
深い深いため息が洩れた。
「ぼくが冗談でこんなことをする男だと。あなたはそんな風に思っていらっしゃる」
――しまった。何かしくじった。
タイミングがまずかった。
「いいでしょう。冗談なのだと、ふざけているのだと。そんなことのできる男ではないと侮っていればよろしい。あなたが勝手に騙し討ちに遭ったと思うだけです。――何を言っても聞いてもらえないのなら寝ている間に手に入れてしまえばよかった」
今度は顔を撫でられて――
唇に柔らかくて温かい感触。
え。これ。え。
――これは、冗談ではない。ドッキリではない。途中キャンセルが入りそうな感じではない。だって冗談にしては長いし。頭の後ろに手、回してるし。おかげで逃れられない。
かすかに吐息がかかる。自分もあまり強く息をしてはいけないのかと思い、少し息苦しい。明空の口づけは限りなく〝頭突き〟〝顔面への攻撃〟だったことを思い知った。
口を吸いながら指先で髪を掻き分け、うなじを探るのがくすぐったくて。痘痕の痕だ。何かとても恥ずかしい。ものを言おうと口を動かすと、深くついばんでくるのが一層恥ずかしい。
抵抗しなければならないと思った。思っていたが、それと同時に。
頭の中にセピア色の走馬灯が駆け巡っていた。
「大君ー!」
童女の頃。母の邸の庭で、髪をみずらに結った幼い初瀬が手を振っている。
「今日は何する?」
「雛遊びー!」
庇の間に男女一対の雛人形と、それは立派で精巧なミニチュアのお邸調度セットや牛車が揃っていて。
「これが初瀬さまでこれがわたし! わたし、初瀬さまの北の方よ!」
「ではぼくは立派な
「それで夫の留守中に受領の陰陽師を引っ張り込んで不倫ー!」
そこになぜか、浄衣の人形がもう一つ。
「不倫なんか誰でもやってるから仕方ないよねー!」
いや、思い出と大分違う。陰陽師人形なんか持ってないしそんな雛人形、ないし。
思い出と全然違うのに、父や母や兄も笑っていて。
「仕方ないなー大君はー」
「仕方ないわねーこの九年でいろいろあったものねー」
「大人になったのだなあー」
身体にはいろいろな感触があるのになぜか遠くにあるように思える。心と身体とが分かれて、身体だけ粘つく重たい粥の底に沈んでいるよう。預流はマルチタスクで動ける身体ではなかった。走馬灯、いや謎の幻覚のせいで容量が圧迫されて現実が処理できない。
蛇に噛みつかれた蛙がまだまだ動けそうなのにされるがまま呑まれていく。水鳥に捕まった魚が
少し身体が離れた。それはじっと顔を見るために。――目が虚無だったのが、なぜか今は少し悲しそうに見えた。
「預流さまはその身に
――寸鉄って、独鈷杵!? この人に見せたことあったっけ!? 何で知ってるの!?
驚いているのに声にならない。まだセピア色の幻覚で頭の中がいっぱいだから。
親指の先で唇をなぞった。
「人を呼んでも誰も来ません。預流さまは物の怪に憑かれているのです。ぼく一人で物の怪を祓う儀式をする、悲鳴などが聞こえても決して近づいてはならない、もし人が姿を見せればそちらにあやかしが乗り移って一層恐ろしいことが起きると。そう言うと皆、あなたが寝ているのに起こしもせずここに通してくれました。あなたが逃れるには寸鉄を使うしかないのです」
――そうだ。
預流はゆうべのショックで珍しくものも食べずに泣き暮らしていて。初瀬が死んだときでさえご飯を出されたら何だかんだ食べていたのに! それで夜、寝つけずに昼にうとうとするなんて。よほどおかしく見えたろう。
「寸鉄の対策はしていません。鎧を着て女人に挑むわけにいかないし。痛いのは嫌だけど、あなたが嫌がるようなことをしたいわけではないし。――でももしあなたが寸鉄を使わないまま、全て終わってからこんなはずではなかったと嘆いたらその方がずっと悲しい」
――ええと、独鈷杵は。
どこにあったっけ?
「好きだの嫌いだの、一言もないのですか」
何か、何か言わなければならないはずなのだが。
「お返事がいただけないのであれば」
右手で肩を掴まれ、左手は頭の後ろ。あれよあれよと言う間に畳に押し倒された。
「あなたと三途の川を渡るのはこのぼくです、
――名前! 何で知ってるの!
その名を呼んでいいのは初瀬だけで――
男の身体の重みが覆いかぶさってきて――
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