巻の四 ようこそ、平安恋愛工学へ

 ――さて大法会が終わったその次の次の日。陰陽寮に来るべきものが来てしまった。

 賢木中将から呼出状。播磨守、名指し。「日頃の労をねぎらいたいのでうちに酒を飲みに来い。ご馳走を食わせてやる」とか書いてあった。「お前に特別に臨時ボーナスをやる」の意味で普通の役人なら喜ぶべきだったが、靖晶は床に膝をついた。


「一・ぼくが今上の呪いを解いて鬼になりかけていた茜さす斎院さまをお救いして人間に戻したから。

 二・ぼくが市で大勢の人が見ている前で御従兄弟の検非違使佐さまに恥をかかせたから。

 三・更に検非違使佐が送り込んできたアサシンに良彰が山椒の目潰しをぶちかまして撃退したから」

「お、おれのせいにするのか!?」

「ノコノコ行ったら従者に取り囲まれて調凌リンチされる! ぼくは詳しいんだ! それで粉々にされて残骸を二つに分けて左と右の獄の前に晒されて!」


 皆の前で盛大に嘆くものだから。


「……まあ、確かに、我々の惣領をむざむざ調凌させるわけにもいかん」


 自分もげっそりして青ざめた良彰がその背に手を置いた。


「おれが行こう。どうせ七位の役人、平均寿命四十の時代に三十五年も生きたらもう十分だ。孫もいるし。これから朝、お前を起こすのはせがれの定清だ。好き嫌いせずちゃんと青魚と根菜を食えよ」

「ヨシさん……」


 悲愴な覚悟に、有恒も憲孝も涙ぐむ。


「良彰、お前のことは正直いいやつだとは思っていなかったが惣領のために犠牲になろうとは……」

「妻子のことはお前に任せる、憲孝」

「……それは困る、自信がない、別のやつに頼んでくれ」

「惣領の姉だぞ、嫌なのか」

「……いやちょっと待って」


 感動的な別れのシーンに、肝心の靖晶がふと我に返って身体を起こした。


「ほら惣領が姉君の再婚はいかがなものかと」

「じゃなくて良彰、やっぱり思いとどまって」

「何だ別れの歌でも詠んでくれるのか。無理するな、そんな普通の平安人みたいなことはおれも困る」

「いや、所詮七位の地下じげの木っ端役人のヨシ兄が三位中将さまともあろう雲上のお方に打ち殺されて骸を化野あだしのに捨てられても、この過酷な身分社会では騒ぐのはぼくら身内ばっかりで、世間のニュースにはならずに検非違使も動いてはくれないのかな。向こうは親戚に検非違使佐がいるからもみ消し放題だし地下人じげにんが死んだからどうだって話になりそうだし。それならまだしも受領で殿上人てんじょうびとのぼくが行った方がマシなのかな。播磨守が殺されたり失踪したりしたら記録に残るはずだしお前たち以外にも騒いでくれる人が」

「おれはお前を身を挺して庇ってやる悲愴な覚悟をだな!」

「気持ちだけありがたく受け取って、何とか打ち殺されないように頑張る……表向き臨時ボーナスってことになってるんだから断れないし」


 急に冷静になって、ため息をついた。政治はできないといつまでも言っていても仕方ない。自力で瞬間瞬間を必死に生きなければ。――靖晶を名指ししてきたのに別の陰陽師が来たのでは賢木中将が納得しないだろうし。犠牲者を増やしたのでは何をしているのか。

 それで夕方、決死の覚悟で斎戒沐浴し身を清めて一張羅の直衣を着て牛車も一番いいのに乗って、完全に切腹する気分で中将邸に向かうことに。

 まだ切腹という風習はないので自死する場合は毒をあおぐか、口に刀の切っ先をくわえて高いところから飛び降りることになる。陰陽師は文官ということで一応、熊をも倒すという烏頭トリカブトの丸薬を直衣の袖に隠しポケットをつけて忍ばせた。凌遅刑寸刻み文の伯邑考ハンバーグやら漢の戚夫人人豚やらにされそうな気配があったらみっともなく命乞いなどせず一気に飲み込めと。――やたらと恐ろしい歴史知識が家に伝わっているのが災いした。もう胃が痛いのを通り越して、牛車に乗っているうちから魂が半分出ている心地だった。

 そんな状態で中将邸にたどり着くと、そこに待っていたのは。


「おお、張り切ってよそ行きを着てきたな、やればできるではないか色男!」


 畳んだ檜扇ひおうぎを手にし、イケメンフェイスに満面の笑みを湛えた賢木中将と。

 綾錦の裳唐衣で着飾り、豊かな黒髪をまっすぐに伸ばした美女軍団。完璧な衣装に完璧な化粧。色とりどりの襲に嗅いだことのない甘い匂いを漂わせ、眉を抜いてくっきり描き、目を伏せた上臈じょうろうが十人も二十人も。皆が皆、天女のようなハイレベル。……これは何人まで中将の愛人お手つきなんだ!? 全員!?

 受領などは建物の外側の床に座らされるものと思っていたのに、母屋の中心、中将のおわす上座の近くに畳に敷物の敷かれた立派な席で。もう暗いので大殿油灯りをありったけ点している。菜種油も安くはないから陰陽寮では節約して、皆、暗い中で必死に書を読んでいるというのに。

 用意された食膳は干しあわびやら鯛やら海鼠なまこやら、よくわからないものまで。酒も、見たことのないような黄金のさかずきに美女が金の銚子柄杓で濁り酒を注ぐ。

 ……かえって恐ろしい。身体が芯から凍えて肩が震えてしまった。


「――いい夜だ、松虫がよく鳴いている」


 中将が言ったが、靖晶は虫の声どころではない。


「最近、頑張っていると聞いてねぎらってやらねばと。うちの伯父の関白がお前を買っているらしいな? 先日の暑気祓いも、失敗のように見えたが実のところ身を挺して主上を呪いからお守りしたとか」


 中将も女房に酌をさせ、笑って酒杯を傾けているが、声が妙に冷たく聞こえる。


「い、いえ、それはあの。か、買いかぶりです、暑気あたりで足が攣っただけで」

「折角褒められているのだから素直に受け取れ。今日は無礼講だ、酒も馳走も存分に食らえ。やせているではないか。もう少し肉をつけた方がいいぞ」


 そう言われても。

 箸を取って口に入れても、粘土を噛んでいるようで味がしない。酒も。のどを灼くばかりで。


「……ええと」


 酒に理性を呑まれる前に何とかしなければ。だが声がうわずり、舌が回らない。


「ぼくが生きて帰らなかったときには父が清涼殿で奏上そうじょうすることになっていて。プ、プラマイゼロになりませんか? いやあの、恩を売るわけじゃないんですがぼくとあなたには複雑な関係がありますよね? リ、リセットくらいで済みますよね? ロストはないですよね? いえ、ええと、その、まあ」

「無理しなくていいぞ陰陽師、お前、政治のできるタイプではないだろう。見てわかる」

「ぼ、ぼくは内裏をお守り奉った功労者で。ぼくを殺せばその、かしこき辺りの宸襟しんきん安らかざる……」

「だから無理をするなと、舌が回っておらんぞ。――そうだったなあ。複雑な関係。恩があるような、足を掬われたような」


 賢木中将はくつくつと笑った。


「おれはお前を次の除目人事正五位しょうごいにしてやらねばならんし、お前は我が妻の呪詛から主上をお守りたてまつり、あめの下で一の陰陽師と名を馳せたのであったなあ。我が妻も鬼と化すところをお前に真人間にしてもらったのだった。うちの従兄弟の検非違使佐を公衆の面前で叱責したと?」

「あの、その話は、ええと……」

「いやいや、おれも感謝しているのだぞ。女鬼をねじ伏せて妻にしたならともかく、妻が女鬼になったのでは夫の不名誉。小野の餓鬼がきも生意気を言って困っていた。お前を八つ裂きにしろと喚いていて、刺客まで送ったとか? 大変だったろう。何か褒美と詫びとを取らせようと思って呼び出したのだ、そう警戒するな」

「う、嘘だあ……絶対怒ってる……」

「本当だとも。お前を油断させ打ち据えるためにこれほどの女房を集めたと思っているのか?」


 中将の言葉で、女房たちが一斉に笑んだ。


「その後、女手が足りなくて困っているのでは? こちらも気遣っているのだぞ」


 ――平安身分社会だ。女房と呼ばれる人たちは、ご飯を作ったり洗濯したりしない。それはもっと身分の低い婢女はしための仕事だ。

 女房は受領や役人の娘などで女主人の身の回りの世話、着替えやら小間物の出し入れやら楽器の演奏やら、話し相手をするやら代わりに手紙を書くやら歌を詠むやら。むしろ本当に身の回りの世話をする人は二、三人もいれば足りるわけで。住み込みなのでそんなにシフトで交代もしないわけで。

 しかもこの家は二年後三年後、いや来年にも娘を東宮妃にしようと狙っている。娘を妃として後宮に入れる場合、侍女は自前でつけなければならない。侍女の給料も衣装代も化粧代も何もかも妃の実家持ち。

 美しくて教養ある上品な女を二十人や三十人、四十人――多ければ多いほど家の力を示せる。その中には紫式部やら清少納言やら、文才を見いだされて他に何もしなくていいというレベルの才女がいなければならない。ただ娘に子を産んでもらう、そのつき添いというだけでは済まない。帝の寵妃と崇め奉られるためには摂関家の名のもと華やかなりし王朝文学サロンを築かねばならないのだ。

「今すぐ来て。好待遇」と募集をかけて東宮妃の侍女に相応しい才媛が集まるわけではない。学歴とか選考基準もなくちょっと面接しただけで人柄がわかるわけもない。

 来年、再来年のために既にあそこの娘が美人だとか頭がいいとか和歌や楽器が上手いとかいう噂を聞いて片っ端から声をかけて集めて、個体値を比較・選別・育成に入っていないと間に合わない。

 ――靖晶より身分が高い家の姫君もいるのではないか。選別で落ちた者か、未選別か。少なくとも顔面偏差値は賢木中将のお墨付き。本当なら顔を見ることも許されないレベルの才媛たちだ。


「反応が堅いな。女は嫌いか?」

「ふ、普段美人を見慣れていないもので……目に毒です。どこを見ていいのか」

「〝聞き得たりそのの中に花のえんを養うを、請う君、一枝いっしの春を折ることを許せ〟」


 中将はすらすらと漢詩を唱えた。

 ――お宅のお庭に美しい花が咲いていると聞きます。春の花を一枝いただきたい。

 この場合の春の花とは、美女のこと。


「詩は読まないのか、陰陽師。――許すぞ。好みのを選べ。一人と言わず二人でも三人でも。お前には世話になったし、これからも働いてもらいたい。今は萩の季節だが桜でも桃でも百合でも、望めばどんな花も与えよう。ここに通ってもいいしお前の邸に持ち帰っても」

「ご、ご冗談を」


 ハニートラップに決まっている、こんなもの。

 お家への忠誠心がない時代だ。目下の者に言うことを聞かせるには自前のカリスマスキル、飴か鞭を使わなければならない。

 良彰は山椒を使うが、賢木中将はこういうものを使う。――ここで美人の妾を得て中将に頭が上がらなくなった受領はたくさんいるのだろう。惚れすぎて正妻と崇め奉っている者もいるのかもしれない。

「言うことを聞かなければならない」気にさせる。

 邸に女が入り込めば台所事情なども筒抜けだ。


「……皆さま美人すぎて気後きおくれします。貧相な生受領なまずりょう如きにはとても釣り合いません」

「気に入らないか。――花は花でも蓮華れんげでなければときめかない?」

「あっ……」


 ――しまった、罠はこっちだった。血の気の引いた頭に違うものが巡るのを感じた。


「太政官の前でどこぞの坊主と、尼について罵り合っていたとか? 相当に入れ揚げているそうではないか」

「尼御前さまとはそんな関係では。そのような不浄な煩悩は――」

「まことの恋を知ったのではないのか。愛欲とはそれほど不浄なものか? なぜありのまま、只人ただびとのままではいけない? わからんなあ」


 中将は傍らの女房の腰を抱いて引き寄せた。


「ただの髪の短い女ではないか。なぜ触れてはいけない」


 ――それを言ってはお終いだ。

「まさか触れれば地獄に落ちるなどと真に受けているのか。死んだ後の地獄などそんなに怖いか。十二の童の少将などお前には関係のない話だろう。――妻にしてしまえばよい」


 靖晶は盃を握り締め、少し唇を噛んだ。


「――彼女とは道をたがえました」

「女人が道とは何のことだ。まさかあの仏道ごっこか。いつまでも思い出に浸っているだけのこと、一つ女のよろこびというものを教えてやればよい。すぐに忘れる。その方がよほど幸せではないか。二度三度結婚する者など珍しくもない。二十一だぞ。若い身空で尼などしている方が不憫だ。妃の位も望める高貴の生まれの姫が、経を読んで歩いて変人と嘲られそしられて。憐れと思ったことはないのか」


 言葉の矢が心を容赦なくえぐった。

 この人は、全部わかっている。


「そもそも十二で仏の道を〝選んだ〟などと言えるのか? 俗を知らんだけでは? お前が俗を教えてやればいい。北の対に置いて子を産ませればお前の子に明日何を食べさせるか何を着せてやるかそればかり考えるようになる。それが人並みだ。人並みの女にしてやれ。普通の幸せ、何よりだろう? まだ間に合う、若く美しいうちに目を醒まさせてやれ。老いてから益のない人生だったと気づいて悔やんだのではあまりに惨い」


 ――恐ろしい人だ。言ってほしいことを本当に言う。


「……なぜぼくのような者にかまうのです?」

「女は顔のいいのが一番だが男は頭のいいのが好きだぞ。お前は冴える。使える。お前、世の中の全員が馬鹿に見えることはないか?」


 中将はゆるりと立ち上がり、歩み寄った。こちらを見下ろすその目の冷たいこと。


「おれは昔から何でもよくできて漢詩でも弓でも馬でも琴でも笛でもすぐに誰も敵わない、師匠もいらないという話になるが。良家の生まれだから皆、遠慮しておれにお世辞を言って持ち上げているのかと思ったが――あるとき別に遠慮などしておらず、全力を出してもこの程度なのかと気づいた」


 嘲るような声だが、それは、本当のことなのだろう。


「世の者は皆、おれがこのようにせよと言ったら己が破滅するようなことでも本気で真に受けて従い、おれが思った通りに破滅する。それで恨むならまだしも礼を言いながら死ぬやつすらいるぞ。誰も彼も出来損ないばかりだ。お前はそんな風に思うことがないか?」

「ぼくは血筋ばかりの非能非才ですから中将さまのような才覚あるお方の気持ちは――」

「つまらん謙遜はするな、本当のことを言え。お前の才を理解しない出来損ないばかりがのさばって世の中が少しもよくならん。そう思ったことはないか? 検非違使佐もそんなものだ。くだらん。何もかもくだらん」


 檜扇の先が靖晶のあごに触れた。上を向かされる。


「自分は賀茂有由のような出来損ないではなく陰陽道の真髄を解する晴明公以来の天才なのに、道を知らぬ俗人どもに侮られたまま。陰陽寮の者、いや家の者すらその真価に気づかず、このまま並みの陰陽師として記録に記され消えてゆくのには耐えられない――おれにはわかるぞ、お前の才が。おれがお前を理解してやる。おれと手を組めばいちいち話が早くなるぞ。これまでいかに無駄なことをさせられていたのか、あの苦労は何だったのかと思わせてやる」


 顔を覗き込む目が輝いている、怖いほど。すごい目だ――こんな目に見つめられたら女なら誰でも逆らえはしないのだろう。


「おれにつけば何でもお前の思い通りにしてやるぞ。富、名声――そんなものに興味はないか」


 ふっと表情が緩んだ。――反応を見られている。そんなに顔に出ているのか。


「ではこのくだらない世の中を滅茶苦茶にすると言うのはどうだ。お前の大事なものは脇によけて――いや」


 唇が吊り上がった。


「大事なものも何もかも、全てだ。全部ぶち壊してやる。父祖も子孫も関係ない。上官も下官も同輩も、親兄弟も妻子も全て台なしにしてやる。身軽になるぞ。地獄が何だ、死んだ後の心配などするだけ無駄だ。一度しかない人生、楽しければ何でもいいだろうが」


 それで。

 心の奥で何かが砕けた音がした。


 預流は菩薩となってこの世を虚無にしてくれると言ったが、この人はこの人のままで都を滅茶苦茶にするのだろう。

 大事な人も皆、残らず不幸になる。

 自分は虫けらのまま、この人の隣でうなずいているだけで全て灰燼かいじんに帰す。全て。


 そんなことを願う人間だと見抜かれた。

 ――何という辱め。

 無意識に、力ない笑いがのどの奥に起きた。ひっひっとしゃっくりのような。


「あの尼がお前を理解することなど絶対にないぞ。お前のために御仏の加護があるように祈っている、だと。暢気な女だ。今、何か加護を感じるか?」


 ――そうだ。こんな卑しい人間だと知れたら。


「大体、半端な者が道を説くなど片腹痛い。女は分を弁えて御簾の中に引っ込んで物語でも読んでいればいいのだ」


 ――あの人と語らっても下衆の性根は直らなかった。


「それとも一度抱いてしまえばどうでもいいただの女だと気づくのが怖いか。特別でないと気づいてしまうか。それは愛を失うのではない、克服するのだ。あの女を使って人間として成長しろ。お前にはその資格がある。なに、命を取るわけではない。誰でもすることだろうが。あの女にとってもいい経験だ。お互いに成長して美しい思い出になる。そうして人は一人前の男と女になるものだ。男だけでも女だけでも駄目だ。陰陽の和合というものではないか」


 理解し合えるはずがないのにお互いの成長の糧にしろだって?

 勝手な人だ。全く道理の通らない、自分に都合のいいことばかり並べ立てて。

 言葉の安い人だ。安くて薄い。

 薄いからこそみ渡る。――だってそれはずっと言ってほしかった言葉だから。

 あいつにだけは言われたくなかったけどこの人なら。

 預流さまはこの人を好きじゃないしこの人も預流さまのことなどどうでもいい。


 言葉が安くて薄っぺらくても、立派な人だ。芯がねじくれていても大業たいぎょうをなしそうだ。自分と違って。

 何でも己のしたいように押し通すのはそれはそれで大変なことだから。意志が強いのは尊敬に値する。

 こんな人の言うなりに踏み台になって黙って死んでいくのは楽しいのかもしれない。礼を言いたくなるかもしれない。

 一将功成りて万骨ばんこつ枯ると言う。万の自軍を足下に踏みしだいて笑って立っているのなら敗将でも将の器なのだろう。全てを灰燼に帰しても楽しく笑っていれば。

 芯がねじくれているのはどうせ自分も同じ。

 頭のいい人の言うなりになって何が悪いのか。


「別に大して頭がいいわけでもない。生意気なあの女が悪いのだ」


 酒が回ってきた。頭が痛い。

 賢木中将の声なのか、自分の声なのか。

 いや、もう一つ声がする。


 祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。

 仏に逢うては仏を殺せ。


 お前が大事に敬っているのは本当に大事なものか?

 言われるままに敬って拝んでいるだけでは真の価値はわからないのでは?

 全てを疑え。自分の目で見て手で触れて確かめろ。

 この世に尊い砂金は少しだけだ。それ以外は塵芥ちりあくた、篩い落とさなければ。

 高みに至るためには自らを精製しなければ。


 ――まずはあの女の価値を試せ。

 あの女の信仰とやらがそんなに正しいのか。


「虫けらですら恋歌を歌っているぞ。お前は一生に一度も鳴かないのか、安倍播磨守」


 女を喰らい帝室に背く八岐大蛇。

 これを倒すのは陰陽道の術でも仏法でもなく――



 良彰は一晩中、土御門邸つちみかどてい車宿くるまやどりでまんじりともせず従兄弟の帰りを待っていた。この歳になると何もせずぼうっとしていてもそれほど苦痛ではない。

 夜明け頃に牛車が戻ってきたとき、跳ねるように立ち上がった。ふらふらと下りてくる従兄弟を抱き留めるように支えてやる。


「無事帰ったか。――酒臭いな」

「うん、まあ」


 弱々しい声だったが、ちゃんと返事をするのにほっとした。


「飲まされただけか。ひどい目に遭わされなかったか」

「まさか。ご馳走になったよ」


 靖晶が顔を上げた。宿酔ふつかよいで青い顔をしているかと思ったが、むしろほおは赤い。

 ――良彰は従兄弟が生まれたときもう十二歳だった。襁褓むつきを替えたのすら昨日のことのようだ。

 いろいろ残念な子だが、惣領の器だ。自慢できるところも少しはある。

 お家の未来を託すのは彼しかいないと思っていた。


「賢木中将はいい人だよ。ぼくらは官なのだから皆であの方にお仕えしなければ」


 それがこんな濁った目で笑うのを、この二十三年で初めて見た。

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