巻の五 和泉式部事変

 その同じ日。


「預流さま、奇妙な投げ文が。いえ、ただのいたずらなのかもしれませんが念のため」


 女房代わりの尼の音羽おとわがその手紙を持ってきたとき、預流は飛び上がった。

 文は短く。


ちょうを揺るがす大事件がある。ご助力願う。日が落ちた後、ただすの森まで来られたし〟


 誰の何という記名はなく筆跡にも見憶えはないが、預流の脳裏をよぎったのは靖晶のこと。――結局、大法会で靖晶が彼女のところに泣きながら駆け込んでくることはなかった。まだ賢木中将が彼に何をするかわからなかった。


「兄さま、護衛の武士を十人貸して!」


 たとえ罠だとしても、いっそ自分が何かされた方が気楽だとさえ思った。



 果たして。もう暗い賀茂大神の鎮守の森の入口。椿の木のはたにいたのは、簡素な墨染めに五條袈裟の――


「え、あんた何してんの」


 預流は御簾を巻き上げて牛車から顔を出しながら、しかしこいつは朝を揺るがす大事件に近い男だと思い直した。明空は今上のためなら何でもするやつだ。彼が大事件だと言ったら大事件なのだろう。


「随分と大所帯で来たな」


 武士に松明で照らされて、明空は不機嫌そうに目を細めた。


「あんたが名乗りもしないから。手紙に名前くらい書きなさいよ、わざわざ他の人に書かせたの?」

「まあいい。ことは秘密裏に進めねばならん。人払いせよ。しばし護衛の皆を遠ざけろ。あちらの松の木より向こうに行け」


 と随分遠くの木を指さす。それで牛車から牛を外し、轅をに置いてめることになったが。


「おれは残っていいですよね?」


 と沙羅が御簾から顔を出した。


「駄目だ。誰にも聞かせられん。皆と松の向こうに行け」


 明空が冷たくつっぱねた。


「沙羅、ごめんね。難しい話なのよ」


 ――邇仁の話を沙羅に聞かせるわけにはいかないという思いと、邇仁の話を沙羅が聞いたからどうだという思いが半々だったが人払いの必要は感じた。沙羅はがっかりした顔だったが、渋々牛車を降りて松の向こうに行った。

 それで明空が牛車のそばに立ち、背を向けて何を語り出したかというと。


「――おれとお前のつき合いも長いな、最初に出会ったのは十六か」

「何、いきなり」

「あのときはひどいことをしたな。すまなかった。ずっと後悔している。もっと違う出会い方をしていれば」

「え、ちょ、何よ。人払いして話すのがそれ?」


 いきなり殊勝なことを言い出して――正直、不気味だった。頭でも打ったのかと思い始めた。


「あの日以来、ずっとお前の姿が心に焼きついて離れない。御仏の教えが頭に入らない。どうして僧になどなってしまったのか、悩まない日はなかった」

「ええっと。あんた、体調でも悪いの? 変なもの食べた?」


 預流の茶々など無視してどんどん語る。


「そもそもおれの出家は現実逃避だった。いろいろ偉そうなことを言っていたが、あの頃は人生全てが煮詰まって焦げつきそうで出家すれば解決すると思っていた。しかしそんな根性でものになるはずがなく、すぐに仏道でも煮詰まって焦げつきかけた。そこに現れたのがお前だ」

「はあ」

「お前の手を取って、二人でなら信仰の道を歩めるかと思った。結局それは叶わなかったわけだが」

「何でよ。何で男同士なら一緒になれると思うのよ、男同士なら煩悩じゃないって曲解だと思うわ。あんたの信仰、根本が不純なのよ」

「混ぜっ返すな」


 即答してから、明空はかぶりを振った。

「――いや、確かに不純で浅はかだった。浅はかで愚かだった。愛欲と言うほどのものですらなかった。お前に言われなくても知っている。おれは見た目ばかりで中身はドロドロで汚い」

「ドロドロなの」

「ドロドロだ。悩みのないお前とは違う」


 ちょっと面白いような、頭が痛いような。


「あんたわたしのこと何だと思ってるの? あんたこそ何を悩んで焦げついたって?」

「お前には想像もつかないし話したくもない」

「それってみこさまとのものすごいプレイが不敬すぎて規制の緩いネット小説ですら口に出せないって意味?」

「半分くらいはな。この生き地獄はお前にわかるまいよ。お前のように自由に生きられたら――」


「ええと。瑠璃の海の彼方に消えた恋って何?」

「何ってそんなものは知らん。瑠璃の海?」

「あんたが知らないなら何よこの謎ワードは」

「本当に何のことだ。いいからおれの話を聞け」

「さっきから抽象的でわかりにくいのよ。何が起きてるのかはっきり言いなさいよ」

「……勘の鈍い女だな、播磨守の被害妄想ではないのか? もしやおれはまんまとノセられた? はかられたのか?」

「ちょ、播磨守さまがどうしてるか知ってるの!?」


 思わず預流が身を乗り出すと。


「他の男のことなどどうでもいいだろうが」


 明空が振り返った。上り始めた月に照らされた顔は、見たことがないほどにせつなげで少し息を呑んだ。「どうでもよくはない」と即答すべきだったのに、なぜか出てこなかった。


「おれのことが気にならないのか、お前は」


 それで気がついたら顔を掴まれ、引き寄せられていて――

 顔に鈍い痛み。鼻と鼻がぶつかったのだ、と冷静になってわかった。歯もぶつかったらしい。「痛っ」と声を上げそうになった。

 ファーストキスは倶縁果レモンの味がするとは誰が言ったのか。預流のそれは痛かった。まさかの。

 何やってんのあんた、と言おうと思ったが口を塞がれている。長い睫毛がすぐ前に見える。

 顔を離すと、畳に両手をついて明空は牛車に上がってきた――預流は押し倒され、したたかに畳に頭をぶつける。髪が背中に挟まれて痛くもあった。そう長くもないのに。

 御簾を持ち上げていた手が離れてばさりと下りた。

 一瞬の出来事で、驚く一方で感想を抱く間もなかった。


 ――御簾が下り、月明かりが遮られ、牛車の中が真っ暗になると。

 急に明空が身体を離し、起き上がった。体温が離れていくのは、さっさと牛車の隅に移動したらしいが――

 牛車が、ギシギシ音を立てて揺れ始めた。


「え?」


 預流はただ呆然としていた。

 どうやら腕立て伏せでもするように壁に手を突いて両手で揺らしているらしい。それはもうギシギシと。しじから轅が落っこちそうな勢いで。


「預流の前、預流の前、この玉の肌、誰にも触れさせはしないー」


 何やら、やたら棒読みでわざとらしく素っ頓狂な台詞を唱えながら。

 ……これは。

 暗殺者か何かに追われているのを、女とイチャついているふりで乗り切るパターン? エアセックス?

 何だ、そうだったのか。急に冷静になった。明空が今更発情するはずがなかった。そうだったのか。ものすごい勢いで納得。幻覚ではなく、作戦。誰かに騙されたみたいだし。

 靖晶が闇討ちされる世の中だ。こいつもどこで誰の恨みを買って誰に命を狙われていても不思議ではない。僧のくせに徳がないのは嫌というほど知っている。何も本当にキスしなくても、とは思いつつ。

 だとすると名前を呼ばないでほしいんだが。人助けはやぶさかではないが、こちらの個人情報を勝手に開示しないでほしい。預流まで暗殺者に狙われたらどうしてくれる。


「……ああ、いけません、御仏に仕える身でこのような」


 預流も身体を起こすと、テンション低めにそれらしく唱えてみた。――特に止められない。続けた。


「おやめください、おかくれになったとはいえわたしは夫のある身。草葉の陰で夫が嘆いております。あなたの気持ちに応えるわけには」

「初瀬少将は祟るならばこの権律師・明空に祟るがよい、我が霊験れいげんで退けてくれるー」

「そんな。ああ初瀬さま、お許しを、わたしはそんなつもりではー」


 もはや指一本触れていない状態でギシギシ音だけ立てながら二人して馬鹿みたいなやり取りを。人助けだと思わなければやっていられない。


「初瀬さま、初瀬さま、わたしのみさおはあなたのものでございますー」

「もうあんな童の名を呼ぶなー。お前はもはや我がものだー」

「こんな狼藉が許されるのですかー。女の身とは何と力なく浅ましいものかー」

「僧を堕落させたあなたが悪いのだー」


 どれくらいその茶番を続けただろうか。

 明空は御簾の外をうかがっていた。それで牛車をギシギシ鳴らすのをやめ、ため息などついていた。預流は半笑いで彼に声をかけた。


「……何とかなったの?」

「なった」

「そ、そう」

 ほっとすればいいやら、ドン引きすればいいやら。

「……これってわたし、あんたを助けたの? 人命救助だと思ってつき合ったんだけど? 何に追いかけられてたの? こうなったら事情くらい話しなさいよ。……ちょっとやりすぎじゃない?」


 対する明空の返答は。


「いや。おれが一方的に画策してたった今、お前を陥れた。お前の名誉は地に堕ちた。僧を堕落させた浮かれ女ビッチめ」

「は?」

「朝を揺るがす大事件とは」


 暗闇の中でも鼻先に指を突きつけられたのが気配でわかった。


「お前の還俗げんぞく入内じゅだいの話が出ているということだ」

「何ですって?」


 ――寝耳に水。還俗とは尼を辞めることで、入内は帝の妃として後宮に入ること。


「このたび尚侍ないしのかみが体調不良で里下がりをすることになったが、体調不良とはどうも懐妊で、それも主上の御子ではないようなのだ」


 尚侍は女官長ということになっているが、この頃は実質お妃だった。


「流石に外聞が悪いのでおおっぴらにはせず、尚侍には尼にでもなってもらうが――ポストが空くのでそこにお前を、となりつつある。尚侍を尼にして尼を尚侍に、とは世も末だな」


 明空はそれをどんな顔で語っているのだろうか。心なしか、笑っているのではないかと思った。


「先の大法会の異例の抜擢とその後の〝二人きりでのお話〟。今上はお前に興味を持ち、お手をつけたと貴族の間で噂になっている」

「は」


 ……他ならぬお前の話してたんですけど? お前との結婚を勧められこそすれ、自分と結婚しようなんて一言も言われてないんですけど?


「何せもう二十を過ぎておられ、女御更衣が出揃っているのに未だに子宝に恵まれない。――この際、お前のようなゲテモノがお好みだとおっしゃるならそれもアリだということになった。それで男御子を授かるなら結果オーライだ」


 あっけらかんとした口調だった。


「生物学的には人類の女で仮にも父御は左大臣、母御は元東宮妃。家柄と血筋は問題なく、トウが立っている代わり骨盤が成長していて安産が期待できる。即戦力になるので幼すぎるよりずっといい。ただ一つバツイチ後家とはいかがなものかとなったがもう十年近く前のこどもの頃の話で、相手は死んでいて子もいないのだから。お前と前夫は幼すぎて夫婦の契りを結んでおらず、処女おとめだという噂もある。のでそのみっともない髪さえ姫らしく伸ばしてそれなりに着飾るならスルーしていいだろうということになった。流石にいきなり女御にはできないのでまずは尚侍から。尼を還俗させて寵愛を賜るのは前例があるし」

「ということで何よ!? わ、わたしが今上のお妃に!?」


 預流は声が震えたが、明空の方はからかうようだった。


「左大臣さまはなかなかやる気になっているぞ。あちらはずっと妹姫の方を勧めるつもりでいたが、顔かたちよりあまり見かけない変わった人柄で格別の寵を賜りきさいの宮と仰がれるやもしれないと考え直し、今日明日にも邸に引き取って還俗の仕度をと」

「そ、そんなのわたしは嫌よ! いえ、ええと、あの方のお人柄に文句があるわけではないけれど。わたしは初瀬さまの菩提を弔う身、誰であろうと還俗して結婚なんて!」


 慌てて、口から唾が飛んだのを法衣の袖で拭った。


「大体あんたはそれでいいの!? みこさまの愛人なんでしょ!?」

「全然よくない」


 かわいげのないしれっとした言い草。


「ということで現在進行形の醜聞なら何とかなるかと、大法会にお前が出てくるのが決まった時点でこうなるのを見越して受領の陰陽師をきつけてけしかけたつもりが、不発だったようでちっとも噂にならない。あのヘタレ甲斐性なしが。使えない男め。――なので消去法でおれが文字通り身体を張って醜聞を作り、入内を邪魔することにした。それがさっきのだ。投げ文をしてわざと人を呼び寄せた。木陰に近江守おうみのかみがいたぞ。賢木中将の腰巾着だ。あいつ、お前は坊主とデキている、后がねに相応しくないと大声で吹聴してくれることだろう。十六の頃からの関係となったら早い者勝ち、いかに主上と言えども間に割って入るわけにはいかないとなるだろう。この身も男に数えられるからな。やはり最後は自分で何とかするしかない。自力救済だ」

「……それってみこさまのため?」

「勿論。みこさまは心の清い方だ、お前を妃になどとは望んでおられない。ただ世間話をしていただけなのに臣どもが勝手に大仰に忖度して。お気の毒に。わかっているおれが潰してさしあげねば」


 今度は明空は露骨に鼻で笑った。


「大体、左大臣家の姫とはいえお前のようなあばずれが中宮皇后とか許すものか。受領の妻がせいぜいだろうに、五位鷺風情が。中宮というのは弘徽殿こきでんさまや麗景殿さまのような美姫びきにこそ相応しい。御妹姫にでも譲れ。――お前まさか何かおれに期待したのか? 煩悩を抱いたか?」


 ――全て聞いた預流の感想は。

 彼女は袈裟の中の独鈷杵を握り締め、暗くてよく見えないのをいいことに渾身の力で明空の顔のド真ん中に拳を叩きつけた。確かな手応えがあった。


「死ねクソ坊主! この強姦魔! 尼に触れた罪で地獄に落ちろ!」


 ――独鈷杵は突き刺すものだが、握ってブン殴るメリケンサック方式でやってしまった。それで明空は声も上げずひっくり返って牛車から落っこちた。腰でも打ったのかそのまま立ち上がれないようだった。


「ちょっと皆! どこまで人払いしてるのよ! 帰るわよ!」


 預流は御簾を上げ、大声を上げた。松の向こうにいた武士たちがそれで、わらわらと戻ってくるが――


「あ、尼御前さま。お坊さまが血を流して倒れておられますが……」


 松明で仰向けに倒れた明空を照らし、戸惑っている。

「いいのよ、死ぬなら死ねばいいんだわ! 追い剥ぎにでも遭え!」

「じゃとどめ刺します?」

「そんなやつのために罪を犯す必要はないわ! 沙羅の身が穢れる!」


 沙羅の手を取り牛車に引き上げ、ひしとその身を抱き締めた。ああ、女の子って何てかわいいんだろう。この子を遠ざけようという男にろくなのはいなかった。


 帝に「好きなら結婚しちゃいなよ!」と煽られ、好きな男には強引に抱きすくめられ唇を奪われて「帝の妃になんか……なるなよ」とささやかれた。

 平安京で一番幸せな姫君のはずだった。乙女ゲーみたいだ。

 だのに最悪な気分だ。


「いっそ出家したい! 尼になりたい!」


 ――もうなっている。

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