巻の三 君の知らない物語

 陰陽師と連絡が取れないまま、預流に人生の転機が来た。

 なぜだか横川の僧都の大法会のスケジュールに彼女の名前があった件だ。彼女は、出席の権利を得たのだ。


「宮中の大法会となれば流石に鼠色を着るべきかしら。尼って裳唐衣もからぎぬはどうすればいいの?」


 自分の功徳が認められたのだと預流はうきうきと私室の唐櫃からびつを開けて衣装を選び、じっと鏡を見た。


「……髪、剃っちゃう? 再び完全剃髪丸坊主にしちゃう? ていうか大法会に女の席なんかないわよね。男の法師として出席すべきなのかしら。僧綱襟そうごうえりに七條袈裟? 髪の毛あったら着れないわよね、僧綱襟。きっと首がかゆくなるわ」

「……朱雀門院すざくもんいん名代みょうだいということになっているのだから、頭を剃るのはやめよ。兄の命令ぞ。髪をそれ以上切るな」


 山背式部卿宮は彼女ほどはしゃいではいなかった。

 大法会大法会と言うが正確には〝五壇ごだん御修法みしゅほう〟――宮中は大極殿だいごくでん真言院しんごんいんに仏を拝する壇を設ける、五大明王なので五つ。それぞれの前に僧都たち高僧がずらり並んで修する。僧都にいちいち伴僧ばんそうがついている。どこを見ても坊主だらけの坊主つかみ取り大会。皆で七日間祈祷して、帝の健康と長生きを祈る。

 が。

 関係者以外立入禁止、一般観覧なし。預流は祈祷に参加するわけではなかった。


「え、じゃあわたしは何しに?」

玉体加持ぎょくたいかじだ」


 兄によると。――七日間、修行してきた僧たちはともかく帝がずっと皆に拝まれているばっかりではかえって具合が悪くなる。ので代わりに帝の御衣おんぞを触媒としてそれを祈祷する。

 最後、仕上げにだけ帝が大極殿に出御しゅつぎょして僧たちと対面で直接祈祷する。ここには一般観覧席もある。無論、貴族限定。


「お前はそれが終わったら、祈祷の礼として大僧都に仏像や仏具などの寄進物の目録をさしあげる」

「それ、宮中の女官の仕事じゃ」

「男の官の仕事だ。高僧が女官と接するのはまずい。――まさか祈祷の方に参加するつもりだったのか」

「いえ……そうですよね……」


 ――それって参加賞。わかっていても改めてヘコむ。


「それは祈祷はしないが役割としては結構目立つぞ。終わったら主上が茶でもどうかと言っている」


 が、兄宮の言葉で気を取り直すことにした。目立つお役目、だからではなく。

 ――この頃。日本国内にはほとんど茶葉がなかった。遣唐使が持ってきた苗を大内裏の隅っこにちょろっと植えているだけなので、帝が年に一、二回、法会の後に飲むくらいの量しかない。


「お、お茶を賜るなら仕方ないわねえ」

「苦いだけでそんなにうまいものでもないが。茶道以前の問題だから茶菓子がついてくるわけでなし」

「兄さまと違ってこっちにはそんなチャンス滅多にないから」


 何であれ預流は自分の宗教活動が評価されているのだと思っていたが、兄宮は全然違う解釈をしていた。


「尼とは何だと早くも宮中で噂になっている。正直、邇仁ちかひとが何を考えてお前を呼び寄せたかわからん。油断するなよ、あれも男だ。女御更衣にょうごこういが五人も六人もいるぞ」

「今上陛下を捕まえてそんな物言いするの、兄さまだけよ。……そういう感じの人に見えなかったけど」

「見えなかったって、いつ見かけたと言うのだ」

「わ、わたしだって清涼殿に上ったことくらいあるんです。オーラでわかるんです、君主の徳っていうかそういう」

「市を歩いてたら、出会った」とかとても言えないので適当にごまかした。改めてそんな出会い方があるかよと思う。自分が市にいたのですら兄宮に叱られそうなのに。


 市では特に色目を使ってきたという記憶はない。その後、愛人が何人いるかわからない本物の肉食男子と会ったがあれよりひどいとは思えない。……男の恋人がいるのだが。

 ……いや。前回宮中に上がったときは、他に用事があると見せかけ「明空との仲を邪推し皆で預流に詰め寄る」のがメインだった。まさか今上にまで「明空との仲を邪推し詰め寄」られるのでは。

 それで今回も詰め寄られている最中に、賢木中将にいじめられて半泣きの陰陽師が助けを求めに来るのでは。天丼なのでは。

 ――むしろ陰陽師の方がそういうオチになってほしいのだが。どうか泣かされて駆け込んでくるくらいであってくれ。

 あれ以来預流は毎日、靖晶が闇討ちに遭っていないか、賢木中将が彼をなぶり殺しにしてすっとぼけてやしないか気が気でなくて夜も眠れない。

 五位対五位なら口先で何とでもなるだろうが三位になると全然話が違うらしい。高級貴族は人の生殺与奪権すら――

 兄宮に聞いてみたところ、


「賢木中将が受領の陰陽師とモメてマジギレ? 半笑いの半ギレ? 爆笑とガチギレ両方? どれも薄ら寒いな。――公卿と受領なら打ち殺しても、公卿は叱責されて位が下がったらいい方だ。島流しにはならないだろう」

「は、播磨守さまは今上の覚えめでたく、関白さまにもコネがあるのよ」

「ううん、関白はあまり中将とモメたくはないのではないかな。受領が関白の隠し子でもなければ。邇仁には何も期待するな」


 平安身分社会の厳しい現実を思い知らされてしまった。関白の隠し子が陰陽師になってたまるか。

 いや、罰がどんなに重くても靖晶に永続のステータス変化が起きてしまってからどうこう言っても。死ななくても歯や指が欠けたら。人の世話を焼くのがお勤め、顔に傷がつくだけで仕事ができなくなるかもしれない。人間をひどい目に遭わせるなんて簡単なのだ。

 手紙が送り返されてしまう現状、まさか無理矢理兄宮に雇ってもらった武士を引き連れて向こうの邸に押しかけて「護衛します!」とか言い出すわけにもいかない。普通に「そんなことをされる筋合いがないし、仕事の邪魔だ」とマジレスされて追い返されたら傷つきそうだし、そういうマジレスをする男だ。

 人間を救うとは何と難しいのか。預流だって毎日、御仏の加護とは何かを考えている。



 さて大極殿は初めてだ。清涼殿は五位の命婦に任命されたときに上ったのだがそのときとは何もかもが違った。

「目録を大僧都に渡すだけ」の簡単なお仕事――主役は大僧都のはずなのに預流ばかりメッチャ見られた。位を授けられたときも「尼? 珍しいな」くらいのリアクションはあったが、今回は。

 黒や緋のほうを着た人々が密かにしゃくや扇で預流を指さしてひそひそ言葉を交わす。それも女叙位にょじょいのときは女ばかりだったが、法会に居並ぶ公卿くぎょうは男ばかり。

 結局、預流は後家らしく梔子くちなしの襲に青鈍あおにび小袿こうちぎを羽織って紫の五條袈裟をかけて無難にまとめたのだが、三十人も四十人もいる人品賤じんぴんいやしからん王卿おうけいの注目を引くと。もはや恥ずかしいことなど何もないと思っていたはずなのに、何を言われているのか心臓に悪い。これに近い状況で足がった人のことを思うと気が気でない。

 兄宮が最前列で心配そうな顔をしていて、賢木中将が堂々と冠直衣私服で来ていて、十三歳の検非違使佐が隅っこの方にいたのは見つけたが、靖晶は五位で出席の権利があるはずなのに見当たらなかった。

 明空は僧都の伴僧ともとして例の白い可憐な宿直とのい装束か僧綱襟で出現するかもしれないと心の準備をしていたが、やはり見かけなかった。今上に至っては御簾のうちにあって袍の端すら見えない。お茶は兄宮が言った通り、うっすら苦いような変な味だった。

 それで全て終わって承香殿じょうきょうでんの一室でほっと一息ついていると。

 ――なぜだか周囲から女房が一人減り、二人減り、いつの間にか預流一人だけになっていて。


「久しぶりだな、尼御前ー!」


 眉のはっきりしたイケメンが、見間違いようのない二藍御引直衣おひきのうしを引きずって登場。これは失神するべき場面なのかなと、預流は小さく苦笑した。言うほど久しぶりでもない。


「どうも、本日はこのような栄えあるお務めをわたくし如きに賜り……」

「そんなことより! そなた、痘瘡の病人を介抱して死にかけたことがあるか?」

「え? あ、はい。十七のときの話ですか? 不覚を取りましたが痘瘡というのは一度罹ると二度はうつらないので次回はあんなことにはなりません」

「三日三晩伏せったか?」

「はあ、三、四日ほど。朦朧もうろうとしていたので日にちまでは」


 いきなりまくし立てられて戸惑った。首の後ろの痘痕あばたを見せた方がいいのだろうか。馴れ馴れしくて無礼だろうか。距離感が掴めない。


「兄……式部卿宮が申しましたか? 朱雀門院さま?」

「やはりそなたが東方浄瑠璃世界とうほうじょうるりせかいの菩薩なのではないか! 生きているのではないか! 前に会ったとき、どこも青くなかったから気づかなかった!」

「東方?」

「全くあの嘘つきめ、今に見ておれ」


 何やらぶつぶつ言いながら向かいの畳に座った。よく見たらいきなり繧繝縁うんげんべりが敷いてあって彼がここに来る予定ははなから確定していたらしかった。

 ……東方浄瑠璃世界と言えば薬師如来の浄土だが……

 ――薬師如来ってまさか明空はこの人に飛鳥の話を!? 何考えてんだお前の恥だろ! わたしを巻き込むな!

 いやまさか痴女に襲われたなどと改変はできまい。どうだろう、そんな恥知らずな主張をしたのだろうか。藪蛇になっても困るので、恐る恐る尋ねる。


「あのう、東方浄瑠璃世界の菩薩とは一体……自分でそのような大それたあだ名を名乗った憶えはないのですが」

「ああ、こっちの話だ。平安テンションで勝手に名付けた。別にそなたを責めているのではないし悪口でもない、言葉通りの美しい意味だ。気楽にせよ。誰も聞いておらんから市で出会ったときのように話せ」


 既にぐだぐだなのだが。


「予はそなたと軽いノリで話をしようと思っただけなのにこれほどの手間が必要であるとは。五位の命婦のくせに出仕出勤しないそなたが悪い。式部卿宮は何だかんだ文句を言って表に出そうとせんし。市には来るのに内裏に来ないとはどういう了見だ?」


 文句まで言われてしまった。


「内裏には既に立派な上人が数多いらっしゃるので……正直わたし、結構忙しいんですよ。私度しどの尼にもすがりたいという切羽詰まった人は公の僧では代わりが利きませんし」

「そういうものか? 予より忙しいとは思えんがなあ。ここ、時間制限あるのだぞ。この後も予定が詰まっているのだぞ」

「それは比べるようなものじゃないですけど」

「ということで平安らしい回りくどい言い回しはやめてサクサク進めようではないか。――源四郎げんしろうとはどこまで行った。あれはそなたを瑠璃の海の彼方に消えた恋と呼んでおるぞ。入籍はするのか。式部卿宮の初草の君であるからできんのか。女人にょにんとは大変なものだなあ」

「は?」


 独特の話のテンポに預流は惑った。……賢木中将級のセクハラが来なかったか、今。瑠璃の海の彼方に何? 邇仁は何やら真面目ぶってうなずいているが。


「安心せよ。予は源四郎の彼女カノジョと聞いて瑠璃光の菩薩に好奇心が湧いて、純粋に興味本位で根掘り葉掘り追及したいと思っただけで尼に触れるつもりは毛頭ない。式部卿宮に恨まれるのも嫌だ。宮はそなたのことになると目の色を変えるぞ」

「わ、わたしが明空の彼女?」

「源四郎が女に興味があったとは。あれの女嫌いは一生ものかと思っていたのに。瑠璃光の浄土には男も女もないとはそういう意味か。和歌も詠まん木石のふりをしてポエットなことを言いおって」


 いや、言及されるというのは予想していたのだが。かなりあさっての方向から来た。


「……あなたこそ明空の彼氏なのでは?」

「そうだが、何か問題でも?」

「予想通りの平安タコ足配線!」

「そなた、好きな男に彼氏がいたら気になるタイプ?」

「気になるわたしがおかしいんですか!?」

「源四郎に予の他に彼氏がいたら大問題だが、稚児や女はいてもいいのでは? 予がいいと言ったらいいだろう」

「いいって何が!」

「予と同時進行では気に入らんか。そなたも兄と同時進行なのでは?」

「気に入らないわけでは……何で実の兄との話がそんなにスムーズに納得されてるんですか! この時代でもNGですよ!」

「昔はそんなに悪いことではなかったと聞くぞ。無理強いされているならともかく他人の迷惑になるでもなし」

「おおらか!」

「遺伝的には何度も何度もいとこ婚で累代する方がきょうだいよりよっぽどまずいが遺伝子で倫理を語るのは危うくないか」

「何でそこだけ現代的なの!?」


 テンションが予想外でひたすら疲れる。


「源四郎は気にしているのか?」

「ていうか実の兄とはそんなんじゃないですからね! 清らかな家族愛があるだけです! いや明空ともデキてませんし! 僧として尼として互いに研鑽けんさんし合っているだけで、亡き夫の菩提ぼだいを弔う一生不犯の身の上です!」

「予にだけは本当のことを言っていいぞ、罰当たりとか言わないから」

「本当にデキてないんだってば!」

「えー。仲よさそうだったのに。そなたの悪口を言うときの楽しそうなテンション、独特ぞ? あれとはつき合いが長いからわかるがそなた、ものすごい複雑な例外処理をされておるぞ? エラーを吐いて止まらんのが不思議だ」


 不思議なのはそっちだ。どうしてそんなことを暢気に言える。え。何て。わたしが複雑な例外処理?


「……わたし、愛されてると思います?」

「思う思う。すっごい矢印出てる。予はそういうの鋭い方だぞ」

「わたしには全然実感ないんですけど」

「えー。罪な男だなあ。何をしているのだあのニブチン。予から言っておこうか?」

「やめてください、わたしは表向き永遠のライバルみたいな立ち位置なんで。信仰のために聞かなかったことにしておきますんで」

「そういうものなのか? 御仏とは随分心が狭いのだなあ」

「御仏に禁止されてるからじゃないので、自分のありようの問題なので」

「難しいなあ」


 何で情報の開示がこんなにぐだぐだなのだろう。喜べばいいのかどうすればいいのか。知らないうちに彼氏に告白されるな、甲斐性なし!


「……そちらは随分長くおつき合いがあるとか」

「ああ、物心ついた頃には乳母子めのとごを押しのける勢いでどこにでもついて来て。今頃は少将や中将になって仕えてくれるはずだったのに、出家などしてしまって。若い身空で」

「あちらの親御さんが願掛けをしたとか?」

「気にしなくていいと言ったのだがなあ。十三のときに頭を丸めて出ていってしまって。剃った後に気づいてしまっては止めようもなく。かわいそうなことをした」


 ――じゃあ十二で出家したわたしよりキャリア短いんじゃん。うわっ腹立つ。


「后妃にも劣らぬ麗しさで宮中の華となったであろうに。いや坊主の格好はそれはそれでなかなかの麗しさなのだが。予を置き去りにするとは、それほど仏道とは楽しいのか」

「楽しいとかそういうものじゃないですが、やりがいはあります。やりがいしかないんですが。畏れ多い御方に軽はずみに勧めることではないので二十年三十年後にご期待ください」

「別に今日、今すぐ始めてもいいのだが皆うるさくてなあ」


 邇仁は恐ろしいことをさらりと言ってため息をついた。


「本当にあれとつき合わなくていいのか? 仏道にその身を捧げるのか?」

「何でそんな悪魔のささやきみたいな聞き方を……煩悩は断ちます、男君とつき合う気はありません」

「譲ってやろうと思っていたのに。いい男なのに、後で泣きをみても知らんぞ」

「……譲って……なぜ? 長くつき合ってお飽きになった? 他に女御更衣が山ほどいるから?」

「それもないではないが、いい歳の男にいつまでも受をさせるのも心苦しいではないか。二十一だぞ。妻妾の二、三人も持たせて独り立ちさせてやりたい」

「伝統的衆道しゅどうならではの感性なの!? 時代背景の問題なのかこの人個人がガバガバなのかよくわからない!」


 何より。

 ……わたしはこの人の存在を知って傷ついたのに、この人はわたしに嫉妬しない! 何だこの敗北感! 正妻の余裕か! いや、攻様はそんな些細なことを気にしないのか? αとΩの唯一無二のつがいの絆はβなど勘定に入れないのか?


「あれは女官に人気で、何なら男の官にも人気で、皆に好かれているのに予だけが独り占めしていたのでは憐れと思って。――本当は皆、自由にしてやりたいが順番があるから」


 ということでとても忙しい邇仁さまは、ものすごいスピード感で話を締めくくった。


「気が向いたら女のよさを教えてやってくれ!」

「どういう意味なの!」


 こんな三角関係ってアリなのか。

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