巻の二 平安コールアンドレスポンス

 預流だって辻説法や托鉢僧の相手ばかりしているわけではない。京の都にはまだ彼女の女友達がいた。


「預流さま、姉上さまがこのところ体調が優れない様子なので、健康を祈願して御仏の絵図など仕立ててお贈りしようと思うのです。お手伝いくださいません?」

「まあ、素晴らしい。ご家族を思う気持ちは尊いものです」

「姉上さまは神に仕えておいでだったから、仏道がおろそかで来世、極楽往生できないのではないかと心配で」

「ええ、預流にお任せを。絵仏師をご紹介します。額装も含めてご予算はどれくらいで。相見積もりが必要ですか?」


 というやり取りをした相手は、二十五歳のにょ三の宮。先帝の第三皇女でおっとりとして優しい目の、それはたおやかな姫君だ。「男の僧より話しかけやすい身分の高い仏教マニアの女」にはこういう需要があった。

 それで高名な絵仏師に声をかけ、見積もりを出し進捗を管理しラフ・仕上がりをチェックし時に職人たちにNGを出し、プロデュースして立派な阿弥陀来迎図あみだらいごうずを仕立てて女三の宮の邸に納品。ここまでは手紙でのやり取りもあったが最後は対面でお手渡し。


「やはり預流さまにお願いしてよかったですわ。これを姉上さまにさしあげるのに、預流さまもいらしてくださいません? それで説法などしていただければ」

「はい喜んでー!」


 即答した後にふと預流は気づいた。


「……女三の宮さまの姉上というと」

「茜さす斎院さいいん、女二の宮です。賀茂大神かものおおかみにお仕えする斎院でございまして随分前に退きましたが、相変わらず仏道を遠ざけて暮らしておいでで」


 斎院は賀茂の御社に仕える斎院――巫女。帝の直系の皇女で清らかな未婚の乙女でなければならないと決まっていた。引退後も結婚の許可が下りるのはレアケースだった。


「四人目の御子を産んで以来不調だとか。預流さま、ぜひ姉上さまに仏道の教えを」

「あ、はい……御仏の教えは平等です」


 一瞬ためらいを感じたがまだ会ったことのない相手、「嫌な予感がするから助けない」というのは功徳がない。今上帝と対立があるとのことで、明空は嫌っているのかもしれないが預流はそこまで現政権支持派ではなかった。


「……茜さす斎院さま、賢木三位中将さかきさんみのちゅうじょうの北の方でいらっしゃる」

「はい。わたくしと同じく后腹きさいばらの姉上なのですが……実は少々気まずくて」


 女三の宮は表情を曇らせた。


為正ためまささま――賢木中将さま、あの方、わたくしと結婚するはずだったのです」

「え」


 預流は一瞬、凍りついたが。


「あちらのお家がぜひにというお約束で、十八くらいであちらがそれなりの身分の公卿になったら降嫁こうかするというお話だったのが、いろいろあって姉上さまが降嫁することになって」


 一見馬鹿みたいな女好きの平安イケメン、その実態は帝室に牙を剥く八岐大蛇やまたのおろち、京で一番の策謀家――結婚しなくてよかったですね! と言っていいものかどうなのか。


「いえ、もう十何年も前のこと。お家の都合で少し文を取り交わしただけではなから好きとか嫌いとかいうことではなかったのですが。わたくしももうよそに降嫁し夫のある身でございますし。――しかし姉上さまは未だに気にしておいでのようで。わたくしが物語の女三の宮の如く夫君せのきみを奪うのではないかと」

「……それは杞憂とは言い切れませんね! 預流がご姉妹の橋渡しをいたしましょう!」


 物語の女三の宮の如く姉の夫に手籠めにされるかもしれない! 久しぶりに懐によく研いだ独鈷杵とっこしょを入れているのを思い出した預流だった。護身用に片側を丸めた密教タクティカルペン。平安女性に流行らせたい。

 そんなわけで預流は女三の宮と二人して牛車に乗り、悪の枢軸・中将邸京極桜林院きょうごくおうりんいんを正式に訪ねることになったのだった――

 よくよく考えて賢木中将の悪評、明空が言った悪口のような気がする。証拠とか何もないし全部あいつの不悪口不両舌違反なのではないかと。個人的な恨みがあるみたいだし。本当のところ、中将本人はただの誤解されやすい女好きなのではないかと――大体、この平安京で一番タチが悪いのは悪意の有無にかかわらず誤解されやすい女好きなのだが。


沙羅さら、わたしや女三の宮さまの身に男が触れるようなことがあったときは殺さない程度に殴って気絶させるとかするのよ。アウェイでやってしまったら流石にうちの兄さまと言えども庇えないかもしれないわ。難しいでしょうけど命は取らずに何とか動きを封じて」

「わかりました、頑張ります」


 沙羅にも念入りに言い含めて。


「預流さまは女の子の稚児をおそばに置いているとは流石ですねえ」


 女三の宮は一人、のんびりと微笑んで育ちのよさを見せつけていた。彼女は中将邸に着いてからも、


「まあ、秋の桜はこれはこれで美しいですわね」


 と紅葉した桜の木を見て歌を詠んだり。ものすごく普通の平安の姫君みたいなことをしていた。

 対する茜さす斎院、先帝皇女・女二の宮は。

 何と同じ父母を持つ妹と会うのに御簾を下ろしていた。いや、これが高貴の貴女のあるべき姿なのだ。ホイホイ誰にでも会っている預流がおかしい。薫香が漂い、金銀螺鈿の調度が並び、着飾った女房がずらりと座る久しぶりに圧のある空間に来た。御簾のうちには影しか見えず、色鮮やかな衣の裾と長い髪だけがはみ出していた。

 しかも。


「冗談かと思っていたのに女髪長めかみながを連れてきたのだな。それは男の衣か」


 御簾の中からすごい言葉が飛び出した。


「姉上さま、尼御前さまにはお願いしてついて来ていただいたんですよ」


 女三の宮が戸惑っていた。――神に仕える賀茂斎院と伊勢斎宮は仏道にかかわってはならず、尼のことをこんな皮肉で呼ぶ。もはや、悪口を言われているのかどうかもわからない。


「いえ、預流は夫を亡くして以来、世を儚んで再婚もせず宮仕えもせず女を捨ててただ邸で経を読むばかりの変人でございますから前斎院さまともあろうお方からはさぞ見苦しいものに見えるでしょう。ここにも憂き世のむなしさを語るため参りましたので見慣れぬものとお惑いでしょうが、まあひととき無聊ぶりょうを慰めるものと思ってこらえてくださいませ」


 女を捨てて布教活動をしているのは事実なのですらすらと唱えた。――預流はいつも通りの平安女子としては短めの背中までのセミロングで萌黄の法衣に紫の袈裟なので変な格好は確かだ。子供に指さして笑われたりいい大人に囃し立てられたりもするが身体に触れられない限りは大体自分もへらへら笑っているので、ここでもへらへら笑うことにした。


「女を捨てたか。ふむ。それでも身体は女であろう。女ばかりで御簾を下ろしているのも何だ。上げよ」


 とおっしゃって、やっと女房たちが御簾を巻き上げ始めた。高貴のお方にはこのような茶番も必要なのだ。

 御簾の向こうで螺鈿の脇息にもたれて物憂げにしていらしたのは、それはもう期待通りの絶世の美女でいらっしゃった。緩く波打つ長い髪、艶やかながら見る者を射殺しそうな凄味のある目つき、名前通り紫にゆかりの色の鮮やかなかさね。体調が悪いと聞いていたが特にそんな様子はない。女三の宮がおっとり系で秋の桜にさらわれて消えてしまいそうな、それはそれでよく考えたら怖いのに対して、ダイレクトに刺してくるような美貌。姉妹で基本パーツは似ているはずなのに陰影の加減なのか随分印象が違う。

 今、二十九歳だったがはすっぱな小娘にはない円熟の色が載っていよいよ女盛り。今上に未だ中宮がなく東宮生母が落飾なさった現在、この京の都で最も尊貴の皇女殿下に相応しい佇まいであられた――顔立ちそのものよりも佇まい、威厳なのだ。そういう意味では預流は若いだけが取り柄で見るに堪えない。

 京の男の皆が皆、一生に一度もこのご尊顔を拝することなく死んでいくのが残酷なほど――こんな非の打ちどころのない妻が賢木中将一人のために着飾って御簾のうちにあるのにどうしてあの野郎はよその女にちょっかいを! と思ったが、これほど立派な妻がいても足りないのならそれは本当に足りないのだろうなあ、という謎の納得もあった。高貴すぎてうちとけないというのはよくある話だ。


「女髪長――いや尼御前は女を捨てたと。大層な衣通姫そとおりひめと聞いたが」

「そんな、一体誰が大仰な。この通りのみっともない姿ですよ」


 普通に預流はこんな美女にお世辞を言われるなど恥ずかしい、雑巾が飾られるようなものだと思ったが。


「式部卿宮秘蔵の初草はつくさの君であるとの噂は?」


 ――違った。


「そなた、初瀬はつせの乙女であろう?」


 衣通姫と呼ばれる人は歴史上に二人。

 允恭いんぎょう天皇の皇后の妹、弟姫おとひめ。衣を着ていてもその美しさが光り輝き漏れ出でたという絶世の美女。寵愛ちょうあいを奪われるのではと皇后が恐れたという。妹なのに弟姫、ややこしい。

 もう一人は皇后の娘、軽大娘皇女かるのおおいらつめのひめみこ

 自分の同父母兄と恋愛して引き裂かれ、朝廷に反乱したりいろいろあって最後は二人で心中した。奈良県桜井市初瀬出身。

「お前、ちまたで有名な近親相姦女じゃないの?」と文学的に聞かれて流石に預流は笑顔が凍った。


「……わたしは不邪淫ふじゃいん一生不犯いっしょうふぼんの誓いを立てた尼の身でございますが」

「女髪長の身の上にもかかわらず式部卿宮に〝寝よげに見ゆる若草の〟と詠みかけられたショックで男のなりをして放浪するようになったと聞くが」

「してませんし!」

「式部卿宮が夫を亡くしてすっかりわけがわからなくなった実の妹を邸に囲い、慰み者にしているという噂は?」


 つまり。


 茜さす斎院のイメージ:

 おいおいと泣き崩れる預流の両親。

「夫を喪ったショックで預流はすっかりおかしくなって……祈祷して尼にもしてみたけれど治らなくて痛ましい姿を目に入れるのもつらい」

「ではうちで引き取って静養させましょう。環境が変われば気分が変わるかもしれません。同じ母から生まれた妹、偲びない」

 最初はよかれと思って声をかけた山背式部卿宮だったが。

「初瀬さまー、初瀬さまはいずこー」

 夜な夜な衣を乱してあられもない格好で邸を徘徊するうら若い妹姫に兄宮はあらぬ心を抱き。

「預流よ、初瀬少将はもう死んだのだ……この兄が慰めてやろう」

「あーれー、兄さま、何をー」

 兄と妹とはいえ男と女。神々の許さぬ関係に涙をこぼし、妹姫は仏の道を歩み始めた……


 預流の現実:

大君おおいぎみ、出家したと聞いたが」

「師より戒名を授かって本日より清寧尼です。わたし、生まれ変わりました。いえ、自分も死んだものと思って人生をやり直すことにしました。ひとまず御簾のうちに引っ込んでいる姫君はやめます。まず行動するのです。功徳を積むのです」

「ほう、随分な決心だ。この兄が応援しよう。だが名前がかわいくないな」

「戒名はかわいいとかそういうものではありませんので」

「ではわたしがかわいい感じのあだ名を考えてやろう。平安人はいくつあだ名があってもよいものだ。――預流、預流とかどうだ」

「あっ何かかわいいしありがたい」

「この際、実家を出てわたしの邸で暮らしてみてはどうか。俗世を捨てた感が演出できるぞ」

「そうですね!」

「衣も男の法師風に仕立てたものはどうか。それ仏具だ、経典だ。ちゃんとした僧都から教えを学びなさい」

「わあい兄さま話がわかるぅ!」


 ……預流の現実も問題がないかといえばなかなか大問題だったが、わりとこの誤解はクライシス。


「わけわからなくなってないし兄宮さまはわたしの信仰心を重んじて邸に住まわせてくださっているだけです!」

「何だつまらん。そなたらの不吉な力で麗子れいこ朝餉あさげスープを凍らせたりしていないのか」


 斎院は扇を口許に当ててため息をついた。


「一体誰がそんな根も葉もない噂話を!」

「誰って。わらわと世間話をする者がそんなにたくさんいると思うか――」


 そのとき女房が声を上げた。


「女三の宮さまがおいでと聞いて、殿さまがこちらにいらっしゃいます。女三の宮さまに几帳をさしあげます」


 ――当の賢木中将がここに出現するという。斎院が吐き捨てる。


「全く、あの見た目ばかりのお飾りの夫は普段はわらわに目もくれないくせに女三の宮が来た途端、これだ。恥知らずめ。それとも女髪長が目当てか」


 コメントできないうちに、女房たちが几帳を立てて預流と女三の宮とをしっかり取り囲んだ。女三の宮はともかく預流はこんなきっちり隠してもらわなくてもいいのだが、自分一人だけ外に出たいと言うのも申しわけない。

 そして賢木三位中将が久方ぶりにお目見えした。几帳の隙間から覗くと上背はあるがいかつくないすらりとした身体に白と青の鮮やかな襲の直衣、目鼻立ち涼しく爽やかなお顔、歩く所作まで美しい。物語の男君のような貴公子。相変わらず見た目だけは百点満点の男ぶり。

 京の女は上達部かんだちめはもとより受領の妻子に至るまで皆が皆、賢木中将が寝所に忍んでくるのを夢見ているそうだが本当だろうか。イケメンと不倫しながら父や夫が出世するよう便宜を図ってもらうのだとか。そんなムシのいい夢を見ている人がうっかりこの完璧な夫婦が並んでいるのを目にしたら自刃したくなるのではないだろうか。

 ――こんな絵になる美男美女が二人、並んでいたら絶対悪いことをたくらんでいるのに違いない、と思うのも無理からぬことであった。いやあまりに功徳のない発想だ。


「女三の宮さまが折角いらしてくださったというのに、斎院さまはまたこの為正の悪口でしょうか。いたらぬ夫とはいえ悲しゅうございます」


 中将が畳に座りながら上品に嘆いたのに預流はビビった――敬語、喋れたんだ。そんなキャラだったんだ。前回会ったときあなた「五歳児をさらってその乳母めのとをたらし込めば一挙両得!」とか言ってましたね? 本当に同一人物? キャラがブレているのでは?


「おい、名ばかりの夫。我が邸で女髪長などに手をつけてくれるでないぞ。お前だけならともかくわらわや子らに仏罰が下る。巻き込むな。けがらわしいことはよそでやれ。ここ以外ならどこでもかまわぬ」

「はは、信用のない。昼間にそこまで見境のないことはしませんよ」


 斎院の力強いマウンティングをさらりと流す。


「斎院さま、嫉妬なさっているのですか?」

「お前のために嫉妬する心などとうの昔に尽き果てたわ。昔は大海ほどもこの身に涙をたたえていたはずなのにな。わらわのか細い身体にあれほどの水が入っていようとは。海の波が尽き果て大地が炎に包まれる地獄の如きこの世の終わりの日が来たとて、わらわだけはその光景に驚くまいぞ」


 ……大丈夫ですか、斎院さま? これはライトなネット小説ですよ? 出る作品を間違えていませんか?


「おい、寧子やすこ


 と、斎院はいきなり普通は呼ばない女三の宮の本名を呼んだ。険のある目つきでにらみつける。


「この好き者に目線をくれられたとて妙なことを考えるでないぞ。そなたは物語の女三の宮の如く放埒に振る舞うことは許されず、この女二の宮静子しずこは落葉などと呼ばれるつもりはない。くびって殺すぞ」


 言われた女三の宮は返事もできず、青ざめて震えている。

 ……すごい。わたし、一応お義理で言及されただけだ。妹相手にくびって殺すとか言う女の人、初めて見た。強い。あまりにも強い。この時代にこれは病気呼ばわりもやむなし。自分よりすごい女、初めて見たかも。


「客人の前で斎院さまに浮気男と指さされて、恥ずかしくて死んでしまいたい」


 凄まじい修羅場なのにその中心のこの男は軽く袖で顔を隠すだけなのだった。


「五十回ほど死んでもよいぞ。泣かせた女の涙で何度溺れるものか試してみたらどうだ」

「親しんだ妻にこのようにすげなくされるとは情けない」

「何が親しんだ妻だ、わらわを閉じ込め囚人としている獄卒のくせに」

偕老同穴かいろうどうけつにちゃんと捕らえておりますか?」

「ほざけ。酒も飲んでいないのによくたわごとを。誰にでもそんなことを言っているのか?」

「誰にでもなどと。皆の前で為正を不実な男とおっしゃいますか。七度生まれ変わってもこの魂は斎院さまのものであると言うのに」


 いや、ちょっと待って。これ。

 ――来客の女三の宮さまをスルーして、夫婦二人でギスギスと見せかけたツンデレ会話を展開している。

 平安の女はそう簡単に「あなたが好き!」などと言ってはいけない。基本、ツンデレ。本当に嫌いだったら会話イベント自体が発生しない。面倒くさい人たちだ!

 いや、違う。――結婚十何年目、子供が四人もいるというのに未だに面倒くさい茜さす斎院のボールを全部拾って気障な台詞で投げ返すこの男! それだけつき合いが長ければ客の前でも「メシ、風呂、寝る」しか会話がなくてもおかしくないのにまだこんな丁寧な乙女イベントを用意している! 何してるんだこの人たち!?


「今日の襲は見慣れぬものですが羽振りのよい男君でも通ってまいりましたか、為正はいよいよ飽きられましたか」

「自分で仕立てたのだ、下衆げすの勘繰りをしおって。わらわが〝夜半よわにや君が〟と歌っているのをお前が知らんだけだ」

「おやこれは失敬。〝茜さす〟とうたわれるお方なのですから〝人妻ゆえに〟かと好き者の心が躍りましたのに。ではその襲に相応しい紅をお贈りしましょう。次回は人妻の如き出で立ちでお迎えくださいませ」

「本当に下衆な男だな。呆れる。その紅はいずこの受領から巻き上げるのだ。その妻もたらし込んでいるのか」


 ――すごいインテリジェンススキルが出た。

 古典を引用した平安ハイコンテクスト圧縮言語! 兄と妹の近親相姦を〝初瀬の衣通姫〟と表現する斎院は自分のこともストレートには言わない。

 斎院の台詞はこう。


「わらわは伊勢物語第二十三段のように糟糠そうこうの妻でありながら浮気な夫を責めもせず、留守中も身綺麗にして健気にお前一人を待っているのだ」


 一方で中将。


「一途で健気とかいらん。どうせなら万葉集、巻の一・二十、二十一、額田王ぬかたのおおきみのようにおれの兄貴とデキているくらいの甲斐性はないのか。人妻属性の方が萌えるぞ」


 古典和歌の一部を引用することで恐ろしい情報量を七文字や五文字に圧縮して伝える文化資本のなせる技! 喋る方も返事をする方も、ついでに横で聞いている方も教養が試される! 本当に物語の男君のような、乙女ゲーのイケメンみたいな会話してるんだな!? いや本当は預流も他の皆もこんな風に回りくどい会話しなきゃいけないんだけどさ! 読む方が無理でしょ!? 何ページあっても足りないし靖晶とかついて来れなくて泣いちゃうよ!?

 しかも「ツンデレをなだめるばかりが能じゃない」とばかりに攻勢に転じた! 皇女殿下に何言ってるんだこいつ!? この話術で四人子供を作って!?

 ――以前、預流に話しかけたときはこんな風ではなかった。全力を出すとこうなのか!? 初見の預流には手加減して自分の正妻には全力って普通逆じゃない!?

 いや、預流を攻略するには気取った文学スキルを使うより気さくな方が有効だと気づいてキャラを崩してきたのだ――使い分けができるコミュニケーション強者!

 それで客人でありながら放置されている女三の宮の反応を横目でうかがうと。

 ――ヤバい。夫がいるはずの女三の宮さまの目つきが。ほおを赤らめ、口許を扇で隠し、目を潤ませて震え始めた。何も言わないが「わたしもこんな平安乙女イベント体験したい」と表情が語っている。「夫婦の間に挟まる夢女になりたい」となっている。「無視されてるけど何これ」ではない。あなた、「元婚約者だけど何とも思ってない」って言ってたじゃないですか。「くびって殺す」と脅されて震えてたじゃないですか。

 巧言令色すくなし仁、女が言ってほしい言葉を言い当てる八岐大蛇のマルチタスク恋愛術の奥義。自分の妻に全力でリップサービスしながら片手間にその妹を釣り上げる。

 以前に陰陽師が言葉一つでぼんやりした残念な子から平安最強の魔法使いに変身する瞬間を見たが、それ以上の怪物なのかもしれない。女官も高級貴族の妻も入れ食いの男の、これがその手口。兄宮や明空が毛嫌いするはずだ。こんな臆面なく女を口説く男、男から見たらさぶイボが出ることだろう。

 どうやら預流はこの属性攻撃には生まれつき耐性があったようだ。ひたすらびっくりするし教養に感心はするがドキドキはしていない。本当によかった。

 ……この後、何の法話をすればいいんだという問題が残るだけで。滅茶苦茶、話術のハードルを上げられている。宗教者なんて話術が八割なのに。生きた心地がしなかった。



「いやーメッチャ怖いだろあいつ。面倒くさいんだよな、おれの嫁」


 ――話が長引いてそのまま邸に泊まることになったが、客人用の部屋に賢木中将が出現しても、預流が感じたのは貞操の危機ではなかった。


「どう考えても怖いのはあんたよ!? 何であれやった後にわたしのところに来られるの!? しかも口調が平安文学モードじゃなくなって!」

「あれ疲れるんだよ。解説多くなって話が進まない」

「嘘、絶対あっちの方が素のくせに!」

「あんなのが素のキャラが令和のネット小説にいるはずないだろう」

「ここにいる!」


 暗記している古典文学の数がそのまま戦闘力になる平安文弱エリートイケメンが場所を変えただけでへらへら笑って口語で話すので違和感がすごい。


「姉妹水入らずの時間を大切にしてさしあげようと。今頃、斎院さまと女三の宮さまで〝あの男は珍しい女が客に来たとなるとそちらに夢中で妻を放ったらかし。そういうやつだ〟と盛り上がっている」

「意外に気遣いの人なのね」

「そう、おれはものすごく気を遣う人間だ。この後、本格的に灯りが消えた後に女三の宮さまの名を呼びながら斎院さまの御帳台ベッドに忍び入る予定があるのでお前は無駄に警戒しなくていいぞ。時間を潰しに来ただけでここで体力を使っている場合ではない」


 それで平然と言い切るので預流はかえっておののいた。


「な、何でわざわざそんなトラブルの種を。そこがくっついたらくびって殺すとか言ってたのに」

「そんじょそこらの女なら浮気者呼ばわりして蹴り出して終いだが、斎院さまは奥ゆかしいので何もおっしゃらない。で、ちょっといつもとは違う手荒いプレイをしてやると、〝この男は妻以外にはこんなことをするのか〟とショックを受ける。それで明日、おれが後朝きぬぎぬの歌を送ったり女三の宮さまの邸を訪ねたりしようとすると焦って止めに来るだろう?」

「……止めなかったらどうするの?」

「適当な女の家で暇を潰す。同時進行マルチタスクでケアすべき女がいくらでもいる。おれはプロだぞ。間違えて本当に女三の宮さまの寝床に入ってもうまくごまかして素通りする自信がある」


 どんな自信だよ。何のプロだよ。今日は警戒しなくていいというのだけやけに説得力があったので、沙羅を下がらせた。局が狭くて大人二人いるとぎゅうぎゅうだった。お互い、座るとやたら裾の広がる装束を着ているから。


「どうして波風を立てるのよ。何でそんな屈折したプレイを」

「波風がないと飽きるだろうが。おれたちの夫婦生活はまだまだこれからだ。恋は〝なぜままならないのか〟と泣いているときが一番楽しいのだぞ」

「そ、そうなの?」

「生娘はこれだから。円満で楽しいのはせいぜい二、三か月。期限イベントを入れていかねば」

「期限イベント」

「あちらはずっと邸に籠もって我々よりお暇なのだから話題を提供してさしあげなければ。斎院さまの中で今一番旬のネタが〝御妹姫とおれとの三角関係〟なので積極的にそこをつついていく。素材をいつどう使うかも腕の見せどころだ。人生はめでたしめでたしでは終わらない、いつでもジェットコースターで振り回していかないと」


 ――わたしの考えてた結婚生活と違う。この生きもの、本当にどういう構造になってるの。夭折ようせつした夫が生きていたとして、こんな風になったとは思いたくない。

 もしやこの屈折したプレイを他人に語っている行為自体、プレイの一環なのか。一生不犯を説く処女の宗教者に美女との夫婦生活を語って聞かせるの、楽しいのでは。預流が気づき始めたとき、矛先が変わった。


「お前はその後、坊主とは? 結婚しないのか?」

「あいつ彼氏いるんですけど?」

「え、何、知らないで好きとか言ってたの?」


 これもさらっと流されて、預流の方が脇息にすがってしまった。


「知ってたの!?」

「彼氏がいるくらいで諦めるのか? たまには女と結婚してる稚児とかいるだろうが。彼氏の存在ごとあいつを愛してやれよ。むしろあいつが彼氏の一部なんだよ」

「彼氏があいつの一部なんじゃなくて!? 平安タコ足配線にわたしを巻き込まないで!」

「あいつの存在、彼氏が二であいつが一くらいだぞ。そんなんで音を上げるなよ、見損なったぞ」


 ――何でこんなことで男に説教されなければならないのだろう。こいつ、話のネタがセクハラしかないのか。

 ふと、預流も賢木中将に聞くことがあったのを思い出した。


「そうよあんたのせいよ」

「おれのせい?」

「左京のいちで天然のサイキック少女を朝廷に仇なす邪悪なまじない師に仕立てた件で、わたしいろんな人と気まずくなってるんですけど」

「サイキック? ……フツーに何の話かわからんのだが」


 首を傾げている。このとぼけ方は本当に知らないようだが、やはり明空が勝手に解釈して――


「……あ、そうか、この人マルチタスクだから一個ずつの事件を詳しく把握してないんだわ……人にやらせるばっかりで自分ではお金しか出してないから実感ないんだわ……腹立つ……あんたの親戚の十三歳の検非違使佐に手柄を立てさせようとした件よ!」

「検非違使佐? ああ、そういえば小野の小童こわっぱが例の不動明王に馬ごと半殺しにされて小便漏らすほどビビリちらして寝込んで、それとは別件で何とかいう陰陽師が生意気だからブチ殺そうと刺客を送ったら撃退されたとか間の抜けたことをほざいていたな」

「半殺しとか刺客とかマジで何やってんのよ!」

「何をしているんだろうなあ、うちの弟なら二、三発殴るんだがあそこの親はしつけてないのか」


 暢気にため息なんかついて。


「……陰陽師? お前、そういえば陰陽師とデキてるとかデキてないとか……坊主と陰陽師と二股かけてたのか?」

「かけてません。根は善良なのに具体的な行動が罰当たりで地獄に落ちそうだし何かうっすら気の毒なものを感じるから見守ってたんだけど、本格的に宗教的思想信条が合わないから袂を別つことにしたの。音楽性の違いで」

「ボロクソだな。陰陽道と仏道で合うはずないと思うが。陰陽師……会ったことあったようなないような……」


 閉じた扇でこめかみをつついていたが――それで何かとんでもないスイッチが入ったらしく、賢木中将は突然弾かれたように背筋を伸ばした。声も緊張していた。


「まさかお前、宗教関連物件全部落とすのか!? 斎院さまと斎宮女御麗景殿さいぐうにょうごれいけいでんと、後、東密真言宗もコンプするつもりだったりするのか!? 実績トロフィー集めてるのか!? おれの嫁が女に狙われているのか!?」

「狙ってません!」

「そんな、女稚児だけでは飽き足らず……おれがお前の女稚児を狙うばっかりだと思ってたのに逆にうちの静子内親王殿下が女に狙われるとか……」


 預流の否定も聞かず、頭を抱えて――


「興奮する! 女同士で出来上がっておれのことを本格的に厄介者扱いして足蹴にしたりするのか! ヤバい、はかどる! 女と女の関係性!? 新境地!」


 おかしな目つきでぶつぶつ言い出し、預流はこれまでと違う身の危険を感じた。


「うわっ気持ち悪い。ナマモノ相手の妄想は配慮してくれない? わたし、清らかな比丘尼びくによ?」

「もう何年も動きがなくてマンネリだった推しに新規シナリオがドバッと! 情報量が多い! 尊い! 公式解釈一致です! ありがとうございます!」

「公式ってあんたが勝手に想像してるだけでしょ?」

「――折角ツンデレなのにおれのことが好きすぎてあんまり意味がない斎院さま、完璧すぎてこれ以上足したり引いたりできない。いっそ浮気でもしてくれればこの倦怠期が打破できるのだがこちらから男を差し向けたのでは斎院さまの格が下がってしまう。おれに比肩するようないい男がいるはずもなし。だが女を差し向けるという手があったか! 女同士なら何がどうなってもノーカンだ!」

「楽しそうねあなた。何にでも楽しみを見いだす……仏教的に見てもすごい人なのかもしれないわ……」

「そして完全に出来上がったところをおれがオセロのようにひっくり返す! 百合カプの両方をNTR、男の夢! こんなところでおれと喋ってる場合じゃない、尼御前、今すぐあちらに行って斎院さまの御帳台みちょうだいでカーマスートラの秘術の全てを尽くせ!」

「あなた尼を何だと思ってるのよ。いい加減にしないと尼を妄想で辱めた罪で訴えるわよ」


 そもそもは自分が歪んだイメージを与えてしまった自覚がない預流。


「倦怠期ってあれだけサービスしといて何よ。何食べて生きてたらその思考回路ができあがるわけ?」

「逆だ。調味料の絶対数が足りなくてメシ食っても大して楽しくないから、こっちを複雑化するしかない。むしろお前ら、生臭を断っておれたちより楽しくないメシ食って性生活もないとかどうして生きていられる。その人生に何の意味があるんだ?」

「お、おいしいものもあるわよ、芋粥とか。――あなた嫁のことが好きなの? 何なの?」


 この質問をした途端、急に目が据わった。


「斎院さまは先帝の后腹の皇女にして賀茂の阿礼少女あれおとめ、この世で最も尊き姫にして我が妻。お血筋、品格、美貌、教養、全てが最の強」

「……なら何でよその人妻に手を出すの?」

「最強でない隙だらけのどうしようもない女はそれはそれでとてもいいものだから」

「あんたが最悪よ」

「〝大の男に妻が一人しかいないとか馬鹿みたいだ〟と道長公が言っている。子をもうけ家門を広げるのが最優先。どうせばたばた死ぬから多めに作っておかないと。我が家の家訓だ」


 ※史実です。


「大体、斎院さまほどの素晴らしい妻を持つ男が非モテの甲斐性なしでいいわけないだろう。常に情人の五、六人いる好き者恋愛強者でなければ。その中で断トツの正妻という箔をつけてさしあげなければ」

「これだから平安時代って!」

「それに斎院さまにもう四人も子を生ませてしまった、ちょっと調子に乗った。妊婦の五人に一人が産で命を落とす。そろそろ無理はさせられん。愛しているからこそ、この先はくだらん性欲如きはもっとどうでもいい女で発散しなければ。いやどうでもよくはない。情人が醜女ブスだと斎院さまの名誉にかかわるし美しすぎても問題だ」

「避妊法が確立されてないがゆえの気遣い!?」

「……ああ、大分思い出してきたぞ、陰陽師。確か関白の使い走りの受領の。そうだあいつだ、一緒に牛車に乗った」


 与太話の途中で、いきなりまた目つきが変わったのにぞっとした。――藪蛇だったか? 本当に脳味噌がマルチタスクで動いているらしい。


「播磨守、だったか。唐天竺からてんじく房中術ぼうちゅうじゅつの。れ者の顔をした化け狐、お家を守るために親兄弟に強いられて!」

 預流の知らない謎キーワードは牛車に相乗りしたときの話題か?

「――そろそろ借りを返すか。貸しか? そうだ、確かやつには斎院さまもお世話になった。本気で泣かせてやるときが来たらしいな」


 整っているが軽薄なだけの顔に妙に目をぎらつかせて薄ら笑いを浮かべるのが不気味で、焦った。


「いや、あの。あ、あの人、悪い人じゃないのよ」

「ああ、悪いやつではないが少々思い上がっておれの足をすくい、うちの従兄弟に恥をかかせて斎院さまの名も辱めた――おれもあまりナメた真似をされて放置しておくわけにはいかないのだがなあ?」


 何やら雲行きが怪しい。マジギレの風情ではなく半笑いがかえって怖い。


「い、いろいろと仕方なかったのよ、あちらにもお役目があって――」

「何だ、庇うのか? 憎からず思っているから?」

「違います、御仏の大慈大悲だいじだいひです」


 即答した。


「あなたそれこそ闇討ちとかするの、そんなの絶対駄目だから。誰でも傷つけられてはいけない、人間よ」

「さてどうするかなあ、おれが尼御前の言うことを聞く筋合いは何もないなあ。斎院さまに御仏の絵図をくださったのは女三の宮さまだ。お前は恩人と言うほどではなくおれの情婦でもない。おれに何か願うなら対価が必要だろう。親戚の手前もある、ただと言うわけにはいかん」

「ま、まさかわたしに貞操を差し出せとでも言うの?」


 預流は声が震えたが、賢木中将は余裕綽々に首を横に振った。


「それは生娘にはハードルが高いだろう。涙目で必死で差し出されたのではおれも重たい。興奮しない。もう少しまけてやる。――お前の女稚児でどうだ」


 いい考えだと思ったのか、中将は両手を合わせた。


「あれをくれたら――そうだな。播磨守に手出しはしないし代わりの稚児をくれてやろう。丁度いいのがいる。おれは美童美少年には用事がないからな。余っているのをやる。顔がいいからきっとお前は気に入るぞ。好きにしろ。小間使いをさせるもよし自分の代わりに寺に入れて坊主にするもよし、おたあさまと呼ばせるもよし、将来の夫にするもよし。うん。何て心の広い男だ、誰にも損がない。お前に得まであるではないか」


 ――何てことだ。

 沙羅か靖晶かどちらか選べと?

 自分の身を差し出す必要はないと?

 この卑怯者。


「……沙羅をあなたの妾の一人にしろって?」

「どうするかはおれの勝手だなあ。まあ殺しはすまいよ。案外、お互いに今よりいい暮らしができるかもしれないぞ?」


 ――冗談じゃない。


「わたしが決めることじゃあないわ」


 ほとんど考えずに答えた。


「わたしがあの子の身をやったり取ったりするなんて御仏の教えに反します。あの子がわたしのもとで稚児をしているのはあの子が望んだからで、奴婢ぬひなどにしたわけではないわ。あの子が自分であなたに仕えるのを望むならともかく、わたしがどうこうすることではありません。あなたにあげるなんてものではありません」

「あっそう、じゃあ播磨守はどうなってもいいと」

「どうなってもいいとは思いません――御仏のご加護をお祈りします」

「御仏の加護!」


 賢木中将は大声で笑った。子供みたいに不作法に畳にそっくり返って足をばたつかせて腹の底から。几帳を倒さんばかりに。――典籍に通じ詩歌を嗜む上品な貴族は大声で笑わないものだが、彼にとってそれは礼を失するほどの最高の冗談だったらしかった。息を切らすほど笑っていた。


「いいだろう。御仏の加護、尼御前の功徳がどれほどありがたいものか、おれがやつに聞いてみよう! どんな答えが返ってくるか楽しみだ! なるほど、並みの女を口説くのとは違う面白味があるな?」


 信仰を嘲られた――

 目がくらむほどの憤りを感じたが奥歯を噛んで耐えるしかなかった。身体に触れられたわけではない。言葉で辱められて、拳で殴っては道に反する。

 明空が昔の私怨だけで中将を悪し様に罵っているのではないともわかった。――この男の本性は邪悪だ。御仏を拝む気もなければ人を踏みにじるのを何とも思っていない。

 信仰以前に、現政権への不満以前に、人を人として尊重するつもりがまるでない。

 どんなことでもする男だ。


 翌朝一番に陰陽寮に使いをやったが、賢木中将に気をつけろという手紙は読まれもせずに戻ってきた。


「播磨守さまは冷却期間を置きたいと」


 使いが申しわけなさそうに言った。



 朝になると中将は一人、さっさと内裏に参内して。女ばかりで朝餉を食べて帰ろうと牛車の仕度をしていると、預流だけ女房に呼び止められた。


「尼御前さま、斎院さまがあなたにご相談だと。男の僧には言えぬお悩みがおありで、二人きりで御仏の教えを乞いたいとおおせです。後から別の牛車を仕立てますから」

「預流さま、ぜひ」


 と女三の宮も言うので、断れない。さて何だと思いながら茜さす斎院の母屋もやへ向かう。


「お呼びでございますか、茜さす斎院さま」

「うむ」


 今日ははなから御簾は下りていなかった。衣も昨日は豪奢な晴れ着だったが今日は普段着で、斎院は大儀そうに脇息にもたれていた。白粉も紅も薄いのか少し顔が青く見える。


「――実は率直に言って、夫婦のありようについて悩んでいてな。女髪長くらいしか言う先がない。お前、口は堅い方か」


 ……まさか、昨日の。

 もしやあの後、「女三の宮さまの名を呼びながら斎院さまの御帳台に入り手荒いプレイをする」を実行したのか、あの男。これから預流はそれを相談されてしまうのか。処女なのに。夫と妻の両方から。


「口は堅いですが、わたくし、一生不犯の身の上で夫婦の機微にはその……」

「ああ、うむ。機微と言うほどのものではなく、ざっくりと我が夫についてどう思う? 思うところくらいあるだろう」

「ど、どうって」


 ――「素敵な方ですね」と心にもないお世辞を言おうものなら「そうか我が夫が素敵だと。お前も不倫したいのか」と殺気立つかもしれない。だからって「陰謀まみれの八岐大蛇、何をたくらんでいるのか、京の平安のために一刻も早く仏法をもって調伏しなければ。あんたからも躾けてくれ」なんて本当のことを言うとそれはそれで角が立つ。

 預流が返答に迷っていると。


「反応に困るか、やはりな」


 斎院はため息をついた。


「困ると言うか……」

「あの男、気色が悪いだろう」

「は?」


 ――意外な言葉が紅を引いた艶やかな唇から飛び出した。


「世間では八岐大蛇などと呼ばれていると聞く。遠慮するな、あれの悪口ならわらわに敵う者などない。どれほど悪し様に罵ってもかまわん。許す」


 ……これはツンデレプレイの延長? ツンデレの定義が揺らぐ。


「いやあの……御仏に仕える身であまり人を悪く言うのは」

「そういうものか。――やはり、悪者だという認識はあると」

「まあ……」


 ――何せ昨日、知り合いのどちらか片方を選べ、お前が選ばなかった方をひどい目に遭わせると脅された上に「拝んでどうにかできるならしてみろよwww」と煽られた。邪悪の極み、誤解のしようもない完璧な天魔仏敵ムーブだった。


「わらわには貴族ぶって古典の引用で話しかけたかと思えばお前には俗語で話す、あの鮮やかな二枚舌。人ではなく物の怪の類であるよ」

「聞いたんですか?」

「多分そうなのだろうと見当をつけただけだ。――わらわはかの異能ユニークスキルをオートレスポンスモードと呼んでいる」

「……はい?」


 聞き慣れない謎の専門用語がいきなり。この人も、昨日とキャラが違うのだが。


「その才は生まれながらに備わったもので、考えずとも相手が一番喜ぶ言葉がわかり、そのまま言えば相手は意のままになると。幸いにして子はそのような能力を持っていないようだ」

「ユニークスキル……って、この小説のジャンルってそういうのなんですか?」

「ジャンルなど知らぬ。わらわはといえばもうすっかり耐性がついて、あれの長いばかりで心のこもらない薄い言葉にはうんざりなのだ。――昨日は女三の宮の手前、体裁というものがあるのでつき合っていたが、正直毎回あれはメチャメチャ面倒くさいのでバトルスキップ機能を実装してほしい。月に一度、決まった日だけのイベントボス戦にしてほしい。世の夫とは〝メシ、風呂、寝る〟くらいしか喋らないものではないのか。亭主元気で留守がいいのではないのか」


 ……おい。

 中将為正、悲しい恋をしているな! お前の努力、斎院さまに届いてないぞ! 女三の宮さまが振り回されてるだけだぞ! 「なぜままならないのか」って泣いていいぞ! くびって殺すとか義務感で言ってたの!?


「皆、世間では知られぬあの男の本心を己だけが知っていると思っている。わらわは逆だ。十三年も連れ添っているのにまだあの男がわからない。――毎年四季折々のイベントに違うネタを繰り出してくる。トレンドを取り入れているようだが無理をして傾向に統一感がないわりに薄い。十三年だぞ。ネタを使い回してくれていいのに、もう上の子は十一だぞ。毎年恒例でいいのに。全然違うことをされると疲れるようにもなってきた」


 いや、逆に生娘の預流にはわからないことなのかもしれなかった。なるほど倦怠期。結婚生活が人生の半分を占めてくるとこんな風に。


「――女髪長、いや尼御前。お前は〝面白い女〟と言われたことはあるか?」

「動きが面白いと言われたことなら」

「わらわはあれの面白い妻であることがしんどくなってきた。あれのために面白くあるのがつらい。普通では駄目かと思う」


 ――世にまたとないような人は世にまたとないようなことで悩んでいるものだ。


「あれはまだ二十六でこの先もしばらくは都で一番の色男を気取っているだろうに、わらわは老ける一方で、子のことばかり気にする普通の年増になってゆく……美しい妻であることも難しいが面白い妻でいるのはもっと難しい。もう十六の頃のような夢は見れん、そろそろお前も落ち着いてくれなどと年下の夫に言わねばならぬのはつらい」


 斎院はまだ全然若く美しいのに、疲れた顔で目を伏せた。それは確かに臈長ろうたけた美女だったが、〝八岐大蛇の九つ目の首〟〝御簾の中におわして生きながらに今上を呪う女鬼〟からはほど遠いやつれた女だった。

 もしかしてこれらの言葉は彼女への悪口ではなくて。

 自分の妻も自分と同じくらいの怪物であってほしいという夫の願望なのだろうか。

 最強の賢木中将にかしずかれる最強の妻――十一歳を筆頭に子供四人を育てながらそんなものを演じなければならない女。乳母や遊び相手が他にいるから赤子を抱いてあやさなければならないわけではないとはいえ。


「あるいはあれは素っ気なくてつまらぬ現実など見たくなく、ずっと心を閉ざして楽しい夢を見ているのだろうか。立派なあの男に相応しい立派なものしかいない世界だ。現実をそちらに近づけようとしているのだろうか。いずれ、わらわや子らはそんな世界に相応しくないと思い知らせるのがつらい。――いや、置き去りにされるばかりの至らぬこの身がつらい。あれが望むような、十年でも二十年でもずっと面白いばかりの女でいたかった……」


 声を詰まらせ、か弱げに目に袖を当てた。

 ――不思議な家だ。

 預流は全然普通ではない。京の都で一番の変人の尼だ。

 父はこの何でもありの状況をきっと全然喜んでいない、会わないように避けているから。親孝行の話は耳が痛い。――多分客観的にメチャメチャ面白い女だと思うが、人に面白がられるためにやっているのではない。

 茜さす斎院は「普通で申しわけない」と嘆く。完璧な素晴らしい美女なのに、あんな悪い男のために泣く。

 あの男が浮気者だからではなく、自分が至らないと。

 もう面白い女ではないと。

 一つも共感できなかった。

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