尼御前さま、オーバーキル!!!! 有為転変のハニートラップ
汀こるもの
巻の一 験者と山椒
尼僧を前にして、彼は驚いた。
「何と、
「世辞は結構。
とは言うものの二十になるかどうかの若さは意外だった。彼が四十なので娘のようだ。
まっすぐな澄んだ瞳は市井の娘のようだが日に焼けない白い肌は高貴の姫君のもの。だが
それに鮮やかな萌黄の法衣は男の法師が着るものだろうか。銀糸で紋を描いた紫の袈裟は上品で貴人に相応しい。左手に絡んだ黒い数珠は
どれもこれもちぐはぐで、それでも堂々と背筋を伸ばして真正面に座している。
これは異形の美だと思った。京を離れている間にこんなものが現れていようとは。
「いやこれは失敬。これほどの方がやつがれごとき
こちらはもう随分長く頭を剃っていないから髪も髭も伸びていて、道を歩いているだけで子供にも指さされるありさまだというのに。装束だけは山から下りてきたままというわけにいかないのでそれなりに整っているが、整った
用意された膳は水漬けに野菜の炊き合わせ、漬け物。簡素だが生臭のないちゃんとした食事だ。
「我が師も
声も凜として澄んで、滑らかに喋る。滑らかに喋る女がまず京には少ない。
「それはそれは素晴らしいお心がけにございます。しかしやつがれ、
〝陰陽道〟というくだりで、少しだけ視線が揺らめいたような気がした。
「修験ですか。
「それほど立派なものではありません。占いやまじないをするだけで」
「残念ですが占いは足りております。何が起きようと御仏の
「尼御前さまは陰陽師と親しくしておられるとか」
今度ははっきりと表情が惑い、袖を口許に当てた。もう市井の小娘だ。
「……噂になってます?」
「それはもう。安倍のせがれと市で派手にやり合ったとか」
「まあお恥ずかしい。いえ、ちょっとした宗教的対立がありまして」
尼と陰陽師と宗教的対立、というのがおかしい。
「いやわかりますぞ。やつがれはあれの幼き頃を知っておりますが、あれは術の腕はあっても人の心のわからぬ男ですから。いつか
由西が述べると、その顔つきが冷たく強張ったが。
「……わたしがあの人と喧嘩したって噂を聞いて、悪口を言いに来たの? それでわたしが喜ぶと思って?」
言い放ち、立ち上がった。しゃんと立つ女がまた珍しい。
「布施を返せとは言わないし今夜は宿を貸すけれど、あなたとお話しすることはないわ。験者だか何だか知らないけれど言葉で他者を貶め、人と人とを仲違いさせるのは御仏の教えに反します。
「おやおや、ご機嫌を損ないましたか」
「誰のことでも同じよ。耳が汚れる。――あの方とは袂を分かったけれど、陰口を叩いてわたしの機嫌を取るような人ではなかったわ」
なるほど。――彼の知る
この女からは目を逸らせなかったというのが、何だかわかる気がする。
預流は歩き出し、
「
「さて、占いとまじないが取り柄の半端者でございます」
「
「俗のことなど忘れましたな」
「人の心がわからないのはあなたも大差ないんじゃないかしら」
「これは手厳しい」
襖障子が閉まり、尼の姿が消えた。
由西は箸を取り、膳をいただくことにした。夜明けには出ていくが布施はしっかり受け取っておこう。
* * *
「……播磨守、やせたな」
「そうなんですよー!」
靖晶が何か言う前に十一も年上の従兄弟が大声を上げた。ほおをつままれる。いつもなら肉をつままれるところが、皮の上の方が引っ張られるので痛い。
「どうしたんだよ、行く先々で飯を完食する野蛮人って言われるのをそんなに気にしてるのか! お前は意外と筋トレしてるから基礎代謝が高くて燃費が悪い、あれくらい食べないと維持できないんだ!
「別に気にしてはないよ。食欲がないだけ」
「お前、やせたらやせただけイケメンになると思ってないか!? お前がやせたってガリのオタクが出現するだけでお前のままだぞ!?」
「人を傷つける真実を言うな!」
「尼御前さまと喧嘩したのか!? したんだな!?」
「
「体調に出てたら関係あるだろうが!」
例によって良彰がやかましく騒ぎ立て、他の陰陽師が「やれやれ」と呆れる。靖晶がやせただけで、陰陽寮は平常運転だった。嫌になるほど。
「惣領、ぼくのおやつの
今日は
「お前んちの惣領じゃないぞ、
「もういいじゃないですかー皆の惣領でー」
……賀茂の末弟が笑うのを見ていると心が痛む。
「……有恒」
「何ですかー?」
「いや、何でもない」
――お前の兄が生きていると知ったらどうする?
考えると苦いものが広がって、餅に手を伸ばす気になれない。
「人の親切を素直に受け取るのは功徳のうちだぞ、播磨守。飯はちゃんと食え」
……あれ。賀茂まで〝惣領〟と呼んでいると、今、陰陽寮に靖晶を〝播磨守〟と呼ぶ者はいないのだが。
陰陽師は皆、
「……何で
「最初からいらしたぞ、気づいてなかったのか。ちゃんとしろ惣領。やっぱり脳に糖分が回ってない」
「
「は、はあ」
「体調管理は大事だ。拙僧がいじめたせいだと言われたのでは困る」
「勝手な人だなー……」
「ストレス要因は他にもあろうが、尼と市でやり合って寝込んだと聞くが本当か」
明空が大声で言うので陰陽師全員が息を呑んだ。
「そうなのか!?」
「あれはきつい女だからお前から謝らないといつまでもこじれるぞ。さっさと謝って結婚でも何でもしてしまえ」
「そうなのか!?」
「どうしてあなたにそんなこと言われなきゃいけないんですか!?」
「え、言い返すのかお前!?」
ここで良彰が顔を青くしたが、無視。他のことなら謝ってごまかすところだがこんなのスルーできるか。
「非常に嫌な予感がするのでこの辺でお前に押しつけておこうかと。拙僧は真面目にあの女の行く末を案じて、
明空はぬけぬけと答えたが。
「お前にその気はないのか?
「まさか自分はBLライフが安定で充実しているから他人の恋バナにちょっかいを出す余裕が? 幸せのお裾分けってやつですか?」
靖晶がとげとげしく言うと。
大きく一回舌打ちの音が鳴り、有恒が怯えた。
「な、何ですか今のー」
「BLライフ……」
「ていうか何だこのセクハラの応酬! おれの知ってる陰陽寮じゃない!」
良彰はわりとセクハラをする方なのに、BLという単語が聞き慣れないのか音を上げた。
「陰陽寮は恋愛相談も受けつけていますがこちらの惣領に誰と結婚しろとか簡単に言わないでください!」
「よく言った良彰!」
「こいつは宿題今すぐやれって言ったらモチベーション下がるタイプなんです! もっと外堀を埋めて逃げ場をなくしてから言ってください!」
「何言ってるんだ良彰!」
「こんなところで修羅場を展開するな、お前ら! 神聖な職場で!」
普段は全然神聖だと思っていないくせに。明空はため息をついた。
「純粋に心配していて修羅場を展開する気は微塵もなかったのにセクハラで返されて心外だ」
「純粋な心配の時点でぼくの心を激しく傷つけている! あなたに心配される筋合いなんかない! ここは職場で一族郎党、皆がいる前でプライベートなこと言わないでくださいよ!」
「……一族郎党、全員筒抜けなのかと思っていた」
明空は攻略情報を事前に調べてRTAしているのかというくらい効率よく靖晶の地雷を全部踏んだ。
「部外者から見たら全員似たよーなもんでしょーけど、一族郎党じゃない人もいるんですよー」
「だからお前は惣領と呼ぶなと」
「わりと本気になったらいくらでも調べられるからこそ惣領のプライベートを尊重にした方がいいのかと思ってまして」
陰陽師一同は目を逸らし。
「もうこれ殴っちゃおうかな。うちには何かないのか? 晴明公秘伝の、北斗七星の印が刻まれてて封を解くとド素人でも勝手に身体が動いて人が殺せる厨二武具みたいなの。今から作ろう破軍必滅とかそういう感じの名前の。ありそう。それっぽい。陰陽師の本気見せろお前たち」
「早まるな、惣領。そんな妖刀はないし陰陽師が坊主を殺めて祟られたら陰陽寮はお終いだ」
もはや自分でも何を言っているのかわからない靖晶の袖を引っ張って憲孝が止めるありさまだった。
「うちの惣領が、グレた! 冗談でも人を殴るなんて言う子じゃなかったのにこんな歳になって急にすさんで!」
良彰は畳に伏して嘆いていた。お前は母親か。
「そうか、親戚の前で色恋の話はしないものか、悪かったな」
明空が素直にうなずくものだから。
「親兄弟にBL関係をイジられるのに慣れすぎていたが嫌がってよかったのか」
「憎むべき敵なのにかわいそうになってしまう! ……外で話しましょう、ここじゃ本気が出せないから」
「惣領、お坊さまを殴るなよ」
「拙僧は強いが大丈夫か。なぜキレるのかわからないし、いくら自衛のためでも半病人を半殺しにするのは功徳ではない」
「それならここでやる。四人がかりの方がまだしも勝算がある」
「ぼくらを戦力に数えないでー!?」
悲鳴を背に、二人は陰陽寮を出た。と言っても
何だか回り道をするのも馬鹿馬鹿しいので諦めて率直に言った。
「……預流さまが好きなのはあなたですよ」
「は?」
「ああやっぱり殴りそう」
そこからの明空の返答は想像を絶していた。
「――だとしてお前が遠慮する理由になるか?」
「は?」
「どうでもいいだろうが。女が誰が好きだの嫌いだの言ったからどうだと言うのだ、結婚してしまえばそのうち慣れる。貴族の結婚とはそういうものではないのか」
――これが女に人権のない時代の感覚だった。いや男にだって人権はなかったのだが。
「
靖晶の方はもうキレすぎてどうしたらいいのかわからなくなりつつあった。多分、健康だったら鼻血が出ていた。人生でこれほどキレたことはなかったのではないだろうか。
「好かれてるって聞いて何とも思わないんですか、BLの攻様に
「――それは嬉しいに決まっている」
途端、明空の表情が一変した。緩んだのではない。
「人に好かれているとは素晴らしいことだ。しかもあの女に? いやありがたい。実にいいことを聞いた」
天女のよう、ではない仏敵を討つ不動明王の笑みだった。笑いは本来、生物にとって威嚇の表情だと言う。忿怒の相より上があったのを知った。ものすごくレアなものを見たのかもしれなかった。
「煩悩の炎に灼かれればいい。あの女の番が来た。因果応報、盛者必衰、
通りかかった役人が振り返るほどの大声で言い放つと、彼は両手を合わせて数珠をかけ、一転穏やかな口調で語り始めた。
「――かつて
「何の話ですか?」
「ためになる法話だ。布施はいらんから聞いていけ。――唐ではその頃には仏道は廃れていて入唐した皆さまが師と仰げるような名僧はいなかったが、
「む、無茶苦茶ですね。親や仏を殺せって」
「文字通りに殺生を勧めているのではない。たとえ話だ」
「たとえ」
「お前のように〝殺せ〟という言い回しに過剰反応して忌んだり喜んだりクソリプする仏教エアプ勢は多いが、もっと奥深い教えだ。天上天下唯我独尊と言うが
珍しく宗教者らしいことを言い。
「立ち止まって考えた結果、拙僧にとって煩悩を克服するとはこういうことだった。あの女が無惨な死を迎えたと聞いたときに大笑いしてやる。播磨守どののおかげで
最後は一方的に述べて一礼し、そのまますたすた歩き去っていってしまった。靖晶は呆然として追いかけることができなかった。
なるほど、確かにためになる法話だった。一つ一つの言葉の意味を考え込んでいる間に怒って殴りかかるどころではなくなった。交感神経の作用で血圧が上がって血管が切れそうになっていたが副交感神経でまた下がっていた。
「……夢に見て苦しみのたうち回ったことがあるのかよ。今の、自爆ツンデレかよ。人を呪わば穴二つってあんたが勝手に呪われたんだろ。ツンデレの上に逆恨みがすごい。まだ捨てるべき煩悩、あるんじゃないのか? 臨済義玄を一番曲解してるのはあんたじゃないの?」
失うもののないツンデレはそれは凄まじいものだった。もはやツンデレと呼べるのかも疑わしかった。
つまり
「ざまあみろクソアマ地獄に落ちろ」とドS高笑いできるようになってしまったのだった――
それは果たして悟りだっただろうか。特殊性癖に目覚めただけじゃないんですか。宗教にはよくあることです。それで結局、反省はしていない。靖晶に誰も救われない地獄が見えただけだった。果たしてこんなにこじらせた人たちの間に自分如きが挟まっていいのか自信を失うほどだった。
「そうか……本気なんだな……本気で道を究めるからぼくと預流さまがどうなろうとどうでもいいんだな……むしろ嫉妬心とか起きた方が煩悩駆逐チャンス到来期間限定悟りガチャなんだな……覚悟完了なさってるんだな……」
それはそれでヘコむ結論で、発生した怒りの矛先を見失った。彼にとって陰陽道は全然、宗教ではなかった。
「殴ってないから、話し合ってわかり合って帰ってもらったから」
靖晶が無の表情で陰陽寮に戻ったとき。
憲孝が肩を叩いた。
「……おい、惣領。この大法会の予定表、ものすごくおかしなことが書いてあるぞ」
「え」
明空の持ってきた巻物だ。よくよく見れば、最後に思いがけない名前が――
〝左大臣
「律師さま、本当に心配なんじゃないか?」
さて時間は少し巻き戻って、靖晶が明空からありがたいZENの話を聞いている間、陰陽寮の中では。
「そうか惣領は尼御前さまとモメていたのか。ではこの良彰が謝ってやる。おれたち中途半端な小役人は手紙の代筆も仕事のうちだ。惣領に字を教えたのはおれだぞ。筆跡や文体は似ている」
良彰が悪い顔で新品の料紙を引っ張り出していた。
「何かすごく嫌な予感しますよー余計なことしない方がいいんじゃないですかープライベートを尊重するんでしょー」
「かえって馬に蹴られるぞ、良彰」
「平安人は下っ端が勝手に手紙とか書くのが普通なんだよ! 寝込んだのは市でモメたせいだったんだな。よし素直にそれを書こう、あいつがあれ以来びーびー泣き暮らしている風情を演出しよう。実際やせたんだし」
有恒や憲孝が止めるのも聞かず、謝罪文を捏造して。
それで陰陽寮を抜け出して自分で歩いて
「安倍の陰陽師、播磨守靖晶から尼御前さまにお手紙です! お取り次ぎを!」
と門番の武士に意気揚々と話しかけ。
「……はりまの……駄目です、帰ってください」
「何で!?」
「尼御前さまは冷却期間を置きたいとのことです」
むげに追い返されたりしていた。仕事しろ。
波瀾万丈の一日はこれで終わらず。靖晶が陰陽寮を辞して
「日が落ちるのが早くなったな」
「ぼくとお前でサボってたから帰りが遅くなったんだろう。今日もオーバーワークだ」
歩いて帰ってもいいのだが、播磨守を拝命して以来、良彰がせっつくので何かと牛車に乗る。いちいち牛をつなぐのに時間がかかるしそんな楽なものでもないが、何でもかんでもハッタリをかませというのがこの従兄弟の主義だった。で、この従兄弟本人は自分一人では牛車に乗らない。妙に真面目なところがあった。
牛車というのは面倒なもので必要なのは牛を動かす
それがこの日、思いがけず役に立ってしまった。疲れて壁にもたれ、うつらうつらしていたら突然、がくんと牛車が止まった。
「お、陰陽師さま!」
前駆の声が焦っている。
「道に綱が張られています! 何者かの待ち伏せです――」
石がこつんと牛車の屋形に当たった。
「安倍の陰陽師、痛い目を見てもらおうか」
大内裏のすぐ近くだというのに。道の端、小役人の家なのか小屋の陰からわらわらと人が現れた。男二人で御簾を上げて乗っているのでお互い、丸見えだ。良彰がちっと舌打ちした。
「――夜道で陰陽師を襲うとは罰当たりめ」
残念ながら京の治安は最悪だ。受領が路上強盗に出会ったくらいで驚いてはいられない。
しかし
「皆、惣領をお守りしろ! かかれ!」
良彰が怒鳴りつけ、それでこちらの護衛が前に出て、棒杖で打ち合い始めた。――明空は喧嘩が強いと言っていたがこういうのに勝てるのだろうか。自分は危なそうなら牛車を飛び降りて走って逃げなきゃなあ、邸と大内裏とどっちが近いだろう、などと靖晶はぼんやり見ていた。昼に明空の相手をして疲れたのか血圧が上がらない。
「向こうの方が人数が多いな」
良彰は人さし指を舐めた。やる気らしい。こちらはのんびり座ってはおらず中腰になる。
「仕方ない、
わざとらしく大声で言い放ち、両手で印を組む。
「
何人かびくっとこちらを見た。
「
左手で空中を指さし、右手が宙を掻く――
悲鳴が上がった。少し離れたところで黒装束が一人、顔を押さえて地面に倒れ、のたうち回る。
「目が!」
棒杖には怯まなかった者たちが、それで
「晴明公秘伝の式神だ!
――これは協力した方がいいのかな。
「やめろ、良彰! 術で人を傷つければ地獄に落ちるぞ!」
靖晶は精一杯それっぽく叫んだ。
「惣領を守るためであればやむなし。
従兄弟は実に楽しそうに狩衣の懐から呪符を出してかまえてみせる。
「お前たち、いくらで陰陽師を殺せと命じられた。式神に生きながら喰らわれると知っていたか。我らが晴明公より受け継ぎし式神は十二、残り十一いるぞ。試してみるか? それとも式神でなく、この狐の子・良彰の牙が見たいか?」
同じものを食べて生きているはずなのにどうしてこういう文句を思いつくのだろう――よくやるよ、と靖晶は呆れていたが、黒装束の方は打ち合ってもない仲間が倒れたのは相当にショックだったようだ。顔を見合わせ、目配せすると、まだ悲鳴を上げて動けない仲間を皆で抱えて
「夜道で陰陽師を襲うとは罰当たりめ」
良彰はほっとした様子も見せず、再び畳に腰を下ろした。
「お、陰陽師さま」
驚いたのは敵だけではない。こちらで雇っている護衛もだ。
「式神とは本当ですか。一体今のは、何が起きたのです。手も触れずに、あいつはどうなったのですか」
おずおずと声をかけてきた。
「おお、本当だとも。我が式神の鳥が敵の目をえぐったのが見えなかったか。霊能がなければわからんか。少し瘴気を出してしまった。車の向きを変えろ、戻って別の道を行くぞ。瘴気で牛が暴れたり倒れたりしてはかなわん。車を回せ」
良彰の凶悪な陰陽師ロールプレイは続いていた。話しかけてきた護衛は、彼が手にした呪符が揺れるたびにびくついた。
「惣領の術はこんなものではない、もっとすごいぞ。
それで牛車から牛を外して車の向きを変えることになった。Uターンは人力でやらなければならないので大変だ。牛飼童だけで何とかできるはずもなく、前駆、護衛、全員で
その間、靖晶は座ったままあくびをしていた。トリックを知っていたから。
――何のことはない。
風向きを見て敵の顔の真ん中にぶつけると涙と鼻水が止まらなくなってのたうち回る。あれを喰らったら何日か、よく顔を洗わなければならないだろう。大袈裟な身振りと、辺りが暗いのでものを投げたように見えなかっただけだ。やられた当人も何が起きたかわからなかったろう。味方や牛にぶつかったら大変なので離れたところにいる者を狙った。敵は黒い衣を着ているので味方と間違えることがなかった。当然、投げて的に当てるには鍛錬が必要だ。
もう少し後の時代なら唐辛子やら胡椒やらいろいろ使えるものが増えるがこの頃はまだ灰と山椒くらい。陰陽道って言うか、忍術。
「味方をあんまりビビらせるなよ、かわいそうだろ」
靖晶は小声でつぶやいたが。
「いつまでも味方とは限るまい。下人に半端な情けをかけるな」
良彰は短く正論を吐き捨てた。
――別に、良彰はいい歳こいて厨二病妄想に浸って赤の他人に痛々しい陰陽師設定を語って聞かせているわけではない。
お家に対する忠誠心とかない時代なので、護衛の皆さんは他に条件のいい職場が見つかったらさっさと転職してしまう。護衛と言うが、要は腕っぷしが強いと吹聴しているその辺のヤカラだ。「何だこいつら、つまんないな」と思ったら平然と仕事をサボる。大臣くらい偉いならともかくこんな中途半端な役人は、手持ちのカリスマスキルで手下を統率しなければ命令なんて聞いてもらえない。平安京はナメられたら死ぬ世界だ。
当然、守秘義務なんかないので聞かれたらべらべらとどこででも職場の内情を喋るだろう――「陰陽師って言うけど大したことないぜ」とよそで吹聴されたら、都中の人間にナメられて最悪死ぬ。
ハッタリでも何でも「陰陽師はすごい、手を触れずに不思議な術で人を倒した、逆らったら何をされるかわからない」と思ってもらわなければ。ヤカラでも使えないわけではない、使いようだ。
護衛には命を預けるのだ。「逃げたら自分も呪い殺されるかも」くらい思ってもらわなければ。
「陰陽師が太刀を抜いて刺客と切り結んだら皆、がっかりするだろうが。夢を持たせてやれ。陰陽師が使うなら
と良彰は狩衣の懐に呪符をしまい直している。
山椒の匂いのする夢か。従兄弟の懐には他にも夢がたくさん詰まっている。下人向け、貴族向け、いろいろなものが。
大変なお務めをしているような、大したものではないような。
牛をつなぎ直して、一本横の道を通ることになった。都は碁盤の目なので迂回が簡単だ。
「しかしわざわざ闇討ちされるようになったとは偉くなったものだな? 心当たりは?」
「あんまり言いたくないけど、多分
靖晶が答えた途端。
刺客には怯まなかった良彰が畳を叩いて嘆き始めた。
「……どうして摂関家の恨みを買うようなことをした! 政治なんてできないくせに! 華麗に撃退してしまった! 命に別状ない程度に手足の一本くらい折られておけばよかった!」
――そのオーバーリアクションでまた護衛が怯えてちらちら見ている。良彰は嘘つきのくせに正直者だ。思ったことを言ってしまう。
「そんなにまでして巫女を庇う必要があったのか!」
「良彰は言うと思った。……
「何?」
あまり言いたくなかったが、刺客に襲われたのでは。
「有由さんの筆跡だった。生きてたんだ」
「庇う必要なんかないじゃないか、五百回でも斬首されて
「良彰は言うと思った。有恒の前でも言える?」
「言えるとも。あいつ十歳かそこらだったんだから出来の悪い兄貴のことなんか
良彰は即答した。気持ちがいいくらい。
「九九も最後まで言えない馬鹿が血筋だけで官職を得て居座っていたら陰陽寮だけでなく皆の迷惑だろうが。社会貢献だ。朝廷のために尽くした結果だ。あいつは出家
靖晶はまだ胃の
「ぼくが九九できなかったら出家させてたわけ?」
「人知れず鴨川に沈めて太郎
「うわ、ありそう」
取り立てて驚きもしなかった。
この従兄弟は「世の中の役に立たないなら死んでしまえ」と堂々と言う。悪びれもしない。
きっと目の前に泣いている少女がいても容赦しない。
だが彼をそのように育てたのは、靖晶の父なのだろう。
伯母は彼を産んですぐ、夫を
従兄弟が九九のできない子だったら父は育てていなかったし姉と結婚させたのも才を評価したからなのだろう。陰陽道の才がなければ彼は今頃、どうなっていたかわからない。才がなくても何とかなるような下官の仕事をしていたのか、どこかの貴族の家で下人でもしていたのか。
あるいは棒杖を持って牛車の護衛をする方だったか。
安倍良彰が賀茂有由の才能のないのを憎んだのは当然の成り行きと言える。
誰よりも「世の中の役に立たないなら死んでしまえ」と言われて育ったのはこの従兄弟だからだ。
言われて家のために卵の殻を割らないように中身を飲んで山椒をすり潰す男になった。
定清は姉が生んだ長男、女系になるが姉も従兄弟も晴明公の子孫、血が濃い。もう十八歳。――計算能力は、人並み。
陰陽寮を追われるほどひどくはないが、靖晶を暗殺して惣領の座に据えるほど優秀でもない。
中くらいの役人は惨い。漢文が読めるか、計算ができるか、向いているかどうかがすぐわかる。もっと下の方や上の方はそういうものではないのに。
〝そうするものと教わっているから何も考えずに従うのでは立派とは言えん。大事なものが本当に大事か立ち止まって考えたことはあるか?〟
明空が問いかけても、良彰は「知るか」とはねつけるだろう。
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