死霊観

平凡ノ助

死霊観

「これは、知人から聞いた話なんですがね。」


 表通りで乗り込んだタクシーの運転手は、快活そうな初老の男性だった。歳を感じさせないその明るい声音は、心身ともに疲弊した私には少々持て余すようだった。行き先を告げたらうたたねでもしてしまおうかと意気込んでいたので、私が寝入るだけの暇を与えず、早々に話をふってきた運転手は正直、鬱陶しいことこの上なかった。そんな私の心中など意に介す素振りもなく、運転手は続けた。


「そいつはね、見えるらしいんですよ。」


「見えるって、何がです?」


「そりゃ、そういう輩ですよ。およそこの世の者ではないような。常人には見えない、無形の輩がね。」


 私は「はあ。」と、いかにも感興無さげに小さく返した。いきなり怪談の類でも始めるつもりなのだろうか。確かに、夏も盛りのこの時節には打ってつけだ。今時はとっくに日が沈んでいるが、体にへばりつくような蒸し暑さが漂っている。冷房のよくきいた車内であるのに、タクシーを探し歩いた際にかいた汗は一向に引く気配がない。私は手で胸元を忙しなく扇ぎながら、後部座席の背もたれに体を預けた。


 


 


 そいつがね、「見える」ようになったのは、何も生まれつきって訳ではないそうなんです。きっかけがあるそうで。ああ、そいつ呼びも面倒ですね。では仮に、そいつをAとしましょう。


 Aは幼い頃に母を亡くしましてね。なんでも、まだ小学に上がったばかりの頃だったそうで。ちょうど今みたいに茹だるような盛夏でした。悲しみに暮れたのは言うまでもないですよ。しばらく学校にも行かず、泣いて泣いての繰り返しで大変だったって、後にAは父から聞いたそうです。A自身も幼い頃の記憶ながらよく覚えていたらしく、泣きすぎてある時から涙が出なくなって、ただ嗚咽を漏らすだけになったと言っていました。涙が枯れるだなんて、本当にあるものなんですねえ。ああ、いや勿論、Aが大げさに言っているだけかもしれませんけれどね。本当かどうかなんてわかりません。まあ、それこそこの話だって、本当である確証なんてどこにもありませんけれどね。


 



 「ははは。」と、運転手は朗らかに笑った。疲労した心身には些か彼の活力が恨めしく、思わず眉をひそめてしまったのを、ルームミラー越しに見られてはいないだろうか。


 タクシーは人通りの少ない裏通りに差し掛かろうとしていた。平生なら車窓に映る夜の街でも堪能しようかというところだが、生憎そうするだけの気力すら私には残っておらず、双眸はルームミラーのあるやや上方へ向けて、その実、虚空を見ていた。


 


 


 まあ、それだけ泣けば、目の周りなんて眼病にでもかかったんじゃないかってくらい腫れるわけで。ある夜、父に指摘されたそうです。鏡を見てこいって。それで、洗面所に行って鏡を見たら、いたんですって。背後に半透明な人型の何かが。その時は慌てて駆け出して、布団にくるまったんだとか。


 恐怖で震えたまま寝てしまったらしく、気付けば朝になっていました。Aは恐る恐るちっぽけな勇気を振り絞って、洗面所に向かいました。鏡を見ると、やっぱりいました。昨夜は錯乱してよく確認できませんでしたが、見覚えのない顔だったそうです。ひげもじゃで腰の曲がったおじいさんでした。所謂幽霊であるからか、脚はなく、白装束を着ていました。それだけのことを観察できるくらいには、Aは落ち着きを取り戻していたということでしょうね。


 どうやら、自分は霊に憑かれてしまったんだと、Aは理解しました。けれども、どうして母を亡くしたこのタイミングで憑かれてしまったのか、まるでわかりませんでした。そうこうしているうちに、父が欠伸をしながら二階から降りてきました。父の姿を確認すると、Aは唖然としました。その背後に、今は亡き母の姿が見えたからです。先の霊のように、半透明で白装束に包まれていましたが、間違いなくその顔は在りし日の母でした。この時、自分も憑かれるならせめて母が良かったと、おかしな嫉妬心を覚えたそうです。


 


 


 私は特段反応こそ示さなかったが、気付けば運転手の話に聞き入っていた。どうやらどんなに倦怠に苛まれていようと、こういった与太話は娯楽に事欠かないようで。しかしこうして聞いてみると、どうやらよくある怪談の類というわけではなさそうである。私は少々拍子抜けするとともに、続きを聞こうと逸る気持ちを抑えられずにいた。


 


 



 道行く人の中にも、ぽつぽつと、自分と同じように憑かれた人々が見受けられました。彼らは皆、どこか生気がありませんでした。元来なかったのか、霊に吸われてしまったのかは定かではありませんが、見る者は不気味さに顔をしかめる、そんな容貌をしていました。


 Aは不安を拭えませんでした。いつか自分も父も彼らのようになってしまうのではないか、いやもうそうなりかけているのではないかと気が気でなりません。父に相談しようとも思いましたが、父はどうやら霊が見えていないようなので、ただえさえ傷心している父に、自分たちに霊が憑いているなどと荒唐無稽なことを言って困惑させたくないという気持ちが勝りました。そこでAは、馴染みの神社の神主を頼ろうと考えつきました。その神社は小学でできた友人Bの家のもので、他の子も交えてよく境内で鬼ごっこをして遊んでいたのでした。


 Bは大人しく温厚な奴でした。小学に上がったばかりにしては落ち着きがあり、有体に言って手のかからない子でした。それ故かガキ大将のいじりの標的になっていたところを、Aが仲裁したことで打ち解けたのでした。気付けば、BはAにとって一番の親友になっていたのです。


 ところが、AはBの父に対しては苦手意識を持っていました。ある日、皆でBの家で遊んでいたら少々騒ぎすぎてしまって、勢いよく部屋の戸が開かれ怒号を飛ばされたことがきっかけでした。その時の彼には、筆舌に尽くしがたい怖さがありました。元来帯びていた厳格さには拍車がかかり、顔は紅潮し、怒気で周囲の温度が上昇しているようでした。それに、容赦なくBにげんこつを見舞っていました。頭をさするBを見て、Aは自分の頭上にも拳が降ってくるんじゃないかと思い、咄嗟に頭を押さえました。幸いげんこつの餌食になったのはBだけでしたが、Aは場の雰囲気にやられて泣きそうでした。彼を例えるなら――そう、鬼神でした。神主を鬼と謗るとはなんとも滑稽な話ですが、当時Aは彼にそれだけの畏怖を抱いていたということなのです。また、そんな彼を頼ろうと思い至るくらいには、Aは現状に参っていたということでもありました。


 憑かれていることに気づいてから実に一週間後、Aは決心をし、Bの家の神社へ赴きました。Bの案内で普段は閉まっている本殿へ入り、障子で仕切られた薄暗い和室へ通されました。近隣の山々が描かれた掛け軸と、年季の入った藍色の花瓶に活けられた紅色の花が床の間に飾られている他には何もない、質素な部屋でした。訊くと、仕事の会談では決まってこの部屋を使うそうです。自分を息子のたかが一友人としてではなく、一依頼人として扱ってくれていることに気づき、彼の誠実さが窺えましたが、より一層緊張に苛まれることになるのでした。慣れない正座をし、握りこぶしを膝の上に据え、Bが父を呼んでくるのを静寂の中待ちました。漂う古い畳の匂いなどは、全く気になりませんでした。


 数分の後、ゆっくりと障子を開け、Bの父が入ってきました。装束に身を包み、手には茶の入った湯呑を二つ乗せた盆を持って、Aから半畳ほど空けて腰を下ろし、盆を二人の間に置きました。素人目にもよくわかる、凛として整った所作でした。Bの父との二人きりでは気まずいので居てくれたらいいのに、Bは入れ違いに退室していきました。数秒の沈黙を経て、話を切り出したのはAからでした。


「今日はお忙しいところありがとうございます。」


 Aは父から教わったはじめの挨拶を告げました。それを受け、心なしかBの父は僅かに微笑んだように見えました。


「構わないよ。お茶を入れてきたから、よければどうぞ。――ああ、それとも、ジュースの方がよかったかな。気が利かなくてすまないね。」


「いえ、お茶も好きなので、大丈夫です。」


「そうかい、ならよかった。」


 Aは家では茶なんて全く飲みませんでした。勿論、茶が好きだなんて、でまかせでした。幸か不幸か、この時、Aは幼くして方便を覚えてしまったのでした。


 それからAは、学校でのBの様子などを訊かれました。自分がBと懇意にしていること、それを受けて皆が徐々にBと仲良くなりつつあることを告げると、今度は間違いなく、Bの父の顔が綻びました。Aの父も、Aが学校での話をすると決まって笑いました。Aの中で、二人が父親という像の下で重なりました。この人も自分の父のように、本当は優しいんだと思いました。この時点で、Aが当初抱いていた彼に対する畏怖の念は薄れつつありました。故に本題を切り出す気負いは、Bの父が適当な頃合いで促してくれたこともあり、少々で済んだのでした。


 一通りのあらましを話し終えると、Bの父は「ううむ。」と唸り、考え込む素振りをしばらく見せました。心なしか、重苦しい空気が漂うようでした。


「A君。」


「はい。」


「君はどうやらね、弱っているらしい。」


「弱って?」


「そう。お母さんのことを受けてだろうね。自覚はあるかい?」


「ええ、まあ。」


「それでね、弱った精神を持った肉体は、憑かれやすいんだよ。霊に憑かれるという現象は風邪と同じなんだ。君の精神が参っているから、そこに付け込まれてしまう。霊が見えるようになったのも、お母さんのことがきっかけではあるだろうが、きっと君には生まれつき霊感があったのだろうね。どうやらお父さんにはないようだが。それに恐らくだが、君に憑いている霊は、君に関係のある人だよ。」


「え。でも、見覚えなんてありませんよ。」


「だとしてもだ。まあ、断言はできないがね。普通霊ってのは、ある程度自分に関係のある人に憑くんだ。程度はどうあれ、生前親交のあった人だとか、あるいは、血縁関係にある人だとかね。」


「なるほど。それで、どうすれば除霊できるんですか?」


「この点が酷なんだけどね。君自身が立ち直るしかないんだ。」


「立ち直る?」


「そう。お母さんのことを乗り越えて、健常な精神を取り戻すしかない。それまでは、その霊と付き合っていくしかないね。生憎、私には見えないが。」


 幼いAにとって、この試練は相当に厳しいものでした。母の死は、Aの精神に深い傷を刻み付けたのでした。その傷は今もなお塞がる兆しはなく、日に日に膿みゆくばかり。決して決して癒えることはないと、A自身、思っていたのでした。


 


 


 

 


 静まり返ったシャッター街に運転手の語りが響く。閉め切った車内から溢れ出るほどの声量ではないのに、活きのいい彼の声音は閑散とした外路にまで聞こえているようだった。


 控えめな街灯を標とし、タクシーは進む。このシャッター街も、昼間は多少の賑わいがあるのだろう。今程通り過ぎた精肉店やその向かいの八百屋にも、きっと人々の営みがあって、変哲のない日常が謳歌されているのだ。たったそれだけの事実が、今の私には眩しくて、目を背けたくて、羨んでやまないものであった。


 ざあざあと、通り雨が降り始めた。雨がもたらす陰気な気配は、今の私にはよく馴染むようで、心地よさすら覚えた。運転手の語りは、五月蠅い雨音の中でもなおはっきりと聞こえてきた。


 


 


 

 


 ちょうど今のような盆のことです。毎年のごとく、Aは父と、母の実家へ行くことになりました。仏壇参りに加え、母のことで諸々話し合うためでした。


 車に揺られること二時間。Aは父の呼びかけで目を覚ましました。山沿いの悪路を進み、坂に差し掛かると村落が見えてきました。車窓に目をやると、陽光を一身に受け輝く緑がAを迎えます。家々は雄大な田畑に抱かれ、悠々と何十年もそびえ立っていることがわかりました。家というよりかは屋敷という様相でしょうか、その広い家屋たちは、それぞれが田畑を隔てて遠く陣取っています。Aはこの圧巻の景色が嫌いでした。Aが平生住んでいる市街からは、家々の広さも隔てる距離も想像のつかないもので、この景色を見るたびに、自分の家に対する愛着が薄れるからです。童心にとって大きい、広いという概念は、利便を排除して絶対であり、新居とはいえここらの屋敷に比べたら狭く小さく、隣の家とぎゅうぎゅうに詰められた我が家は、ちっぽけで陳腐なものに思えて仕方ないのでした。


 母の実家は、村落の中でも大きな部類でした。Aは確かに遠巻きに見た村落が嫌いでしたが、この屋敷は好きでした。童心をくすぐる広大な屋敷の中で、我が物顔で振る舞えるのが心地よかったからです。もう少し大きくなったらはしゃぐことの恥ずかしさを感じたり、人見知りに目覚めたりするのかもしれませんが、この時はまだ、年相応の気性なのでした。結局のところ、Aは毎年、この屋敷を走り回ることを楽しみに来ていたのでした。ところが、今年はそうも行きませんでした。


 父は真剣な表情で、祖父母たちと話しています。祖母の目尻に雫が光るのが見えました。見覚えのない親戚たちも一同に会し、居間の大きなテーブルを囲み、正座していました。Aもその中で、慣れない正座をして、痺れに苛まれていました。親戚に近い歳の子はおらず、自分だけ浮いているような気がしました。祖父もAを見かねてか、「いつものように走り回ってきなさい。」と促しましたが、Aは首を振って応じました。Aはこの重苦しい空気の中、好き勝手に振る舞えるだけの図太さも幼さも生憎持ち合わせていなかったのでした。足の痺れも限界に近付く中、もう一度、祖父から声がかかりました。


「Aや、暇じゃろう。先に仏壇にお参りでもしてきたらどうじゃ。」


 Aは足をもつれさせながら、ほっとした表情でよろよろと立ち上がりました。


 Aは居間の隣に位置する仏間が、どうにも苦手でした。部屋の片側に窓がついているのですが、位置する方位の問題か、はたまた他の要因かはわかりませんが、とにかく妙な薄暗さがあるのでした。Aは戸を開け、真っすぐに歩き仏壇前の座布団に腰を下ろしました。今年も例に漏れず、室内には不気味さが漂っているようでした。


 そそくさとお参りを済ませ、立ち上がろうとした節に、ふと天井近くの壁にかかった数枚の遺影が目に入りました。よくよく考えてみれば、まじまじと彼らの顔を見たことはなかったかもしれません。毎年、お参りを済ませるやいなや、気味悪さにやられて父を置いていち早く立ち去っていたためでした。


 Aは不思議な感覚に襲われました。遺影の顔に、見覚えがあったのです。まるで、会ったことがあるかのような。少なくとも、Aの記憶のうちには、彼らの影などありません。例え会ったことがあるにしても、Aが物心つかない幼少のうちでしょう。繰り返しますが、Aの頭には確かに彼らとの思い出など無かったのです。それなのに、あたかも身近に彼らがいたかのような。


 ここまで考えて、Aははっとし、後ろを振り向きました。そこには、壁にかけられた遺影の中の顔が、半透明ではありますが確かにありました。


 


 

 

 そそくさと居間に戻り、また父の隣に腰を下ろし、かしこまって正座をしました。Aは俯いて考えました。この霊のおじいさんについて。


 俯いていると、祖父母から「どうかしたのか。」と心配されました。気を紛らわすため、卓上のもなかに手を伸ばすも、口に運んだそれはやけに甘ったるく感じられたのでした。平生ならば喜んで食べるそれを、この時は渋い顔で咀嚼している自分の存在が信じられませんでした。


 Aはもなかを呑み込むと、それとなく、先程仏間の遺影で見た、今もなお自分の背後に鎮座する老人について祖母に訊きました。


「ああ、その人はお前のひいおじいちゃんにあたる人じゃよ。お前は覚えていないだろうが、お前が赤ん坊の頃、大層かわいがっておったよ。」


それを知り、Aは背後の彼に対して、多少ながら恐怖の超克をなすことができました。


 


 


 


 そこで、運転手の語りは一度止まった。私はつい、続きを急かした。


「それで、結局Aはどうなったんですか?」


「Aが成人すると同時に、霊は消えたそうです。やはり、時の経過は確実にゆっくりと心傷を癒してくれます。長ければ長いだけ効果がある。誰かの死といった強烈な悲しみでさえも例外なく。しかし、それだけ長い年月の間、Aは母の死を克服できなかったということではないと思います。」


「というと?」


「Aは自身に憑いている霊が身内であることを知り、霊に対しての不気味さを払拭することができたようです。また、霊とはいえ身内に付け込まれる分にはいいかなって、思ったそうです。つまり、Aにとって除霊は急務ではなくなったということですな。おかしな話ですがね。まあ子供の感性のなせる妙でしょうな。」


「ははは。」と、運転手は再び快活に笑った。


「そうすると、あとはじっくり、母の死を乗り越えていけばいい。なんですが、Aは日々を過ごす中で、思ったそうです。自分が母のことで悲しみに暮れている限り、母は自分の中で生きているって。その限りであれば、母の記憶は褪せることなく、彩を持ったままであり続けるって。逆に、母の死を乗り越えてしまえば、記憶の中の母が色褪せたことになる。時の経過は確かに悲しみを癒してくれますが、それは往々にして対象の忘却という形をとることを、Aは幼いながらにどこかで理解していたのでしょう。皮肉な話ですけれどね。つまりAは、敢えて長らくの間母の死を超克しなかったのかもしれません。」


その話を聞いて私ははっとした。脳裏には、微笑している妻の姿が浮かんだ。


「Aが三十路になろうという頃、Aの父は難病を患ってしまいました。ベッドに伏す父には、未だに母の霊が憑いていました。父はAとは違い、本当に母のことを乗り越えられていなかったのでしょう。それでも父は、母のことを話す時、とても幸せそうに見えたそうです。やはり父の中では、母は生き続けていたのでしょう。彼の最期までね。」


 「というのも、程なくしてAの父は亡くなってしまったようなのですが。」と、運転手は続けた。気付けば、私の頬には涙が伝っていた。私は嗚咽を堪えきれず、数十秒ほどむせび泣いた。運転手は私の異状を予測していたかのように、平然としていた。私は努めて体裁を整え、しばらくぶりに口を開いた。


「実は私、最近妻を亡くしましてね。事故死で、突然のことでした。私より五歳も若いのにこんなに早く、逝ってしまって。惜しんでも惜しみきれません。寝ても起きても、ずっと悲嘆に暮れています。今日は葬祭の諸般で、妻の実家があるこっちに来てたんです。」


「それはそれは、お悔やみ申し上げます。お辛いでしょう。」


 運転手はまるで一連の字句を用意していたかのように言った。


「運転手さんのお話を聞いて、思いました。この悲しみは、妻そのものなんですね。この悲しみに浸っている限りは妻と共にいられるのなら、私はずっとこのまま生きていきます。一生、立ち直らなくていい。」


 運転手は、私の決意の独白を肯定も否定もしなかった。それから寡黙な数分を経て、タクシーは目的地に到着した。私は料金を渡しながら、礼を言った。


「ありがとうございました。お話、面白かったです。励ましになりました。」


そう告げると、運転手は得意気な顔をして、


「それは良かった。お客さん、どうもみたいだから。」


 そう言い、「ははは。」と、また明るく笑った。いつの間にか雨は止み、暗雲の隙間からは月光が差していた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

死霊観 平凡ノ助 @heibonnosuke

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ