【ヒマワリ:大学編】ジンブンのオノミチさん①
大学に入学して、半月ほどが経ったある日の夕方、私はハヤトの住むアパートで、一緒にたこ焼きをつついていた。
「なぁ、ヒマ助……お前さ、
慣れない手付きでたこ焼きをひっくり返しながら、ハヤトが小さな声で、私に聞いた。
オノミチさんというのは、数日前に実習室で話題になった、人文学部の一年生だ。
話題に出したチガヤちゃんの言葉を借りれば「ちょっと可愛いからって調子に乗って、コスプレでオタクを釣って食いまくってる男癖の悪い姫ちゃん」ということだったのだけど……私はつい、その話をするチガヤちゃんを叱ってしまった。人の悪い噂を広めるという行動が、実家のある集落のお年寄りと被って、とても腹立たしかったのだ。
だけどオノミチさんとは別に知り合いでも何でもないし、正直に言えば顔も知らない。
「実は知らないんだよね、でも何か、いない人のことを悪く言うのが腹立っちゃって」
「ああ、なるほどな……俺さ、昨日、オノミチを見たんだ。確かに男を何人か引き連れてたけど……あれは、チガヤが言ってたようなことじゃないと思う」
「ふむ?」
ハヤトは耳まで赤くなりながら、たどたどしくその時のことを語り出した。
海岸で見かけた、撮影中のオノミチさんが、どれだけ美しかったのか。
被写体としての誇りの片鱗が、どれだけ輝かしかったのか。
きっと私じゃなくても、誰の目から見てもわかるくらいに、ハヤトは彼女を好きになっていた。もしかするとオノミチさんは、本当に魔性の女性なのかもしれない……それが、本人の意思かどうかはともかく。
「いつか、アイツを描いてみたいなって……アホだよな、俺」
蕩けそうな顔で笑うハヤトを見た瞬間、私は勝ち目がないと悟った。焦りも嫉妬も湧かなかった。どのみち「家族」である私には、どうすることもできないのだから。
「仲良くなれるといいね。ハヤトを信頼してもらえれば、もしかしたらお願いできるかもよ?」
「そんな機会ないだろ、常に親衛隊みたいなのがくっついてるしな」
だけど、とハヤトが無意味に、たこ焼きをくるくると回転させる。続く言葉は聞きたくなかったけれど、無情にも甘い言葉が続いた。
「笑ってるオノミチが……本当に、綺麗だったんだ」
それはきっと、恋だ。ハヤトにとっての初恋だ。だけどハヤトは気付いていない、気付いているのは私だけだ。胸が潰れてしまいそうだった。
お願いハヤト、気付かないで。その気持ちに、ずっと気付かないままでいて。恋愛なんて興味ない、私だけのハヤトでいて――そんなことを考えてしまう自分が醜くて、ますます悲しくなってしまった。
どうした、と聞きたげな視線を向けられ、慌てて笑う。
「もー、本当にハヤトは絵のことばっかりだねぇ! 頭の中、絵の具が詰まってるんじゃないのー?」
「はは、そうかもしれないな。ああ、そういや来週から、画材屋のギャラリーでスガさんたちが展示やるらしいけど……」
「へー、そうなんだー!」
別の話題になり、私はそっと安堵の溜息を吐いた。そしてその日はそれっきり、ハヤトがオノミチさんの話を蒸し返すことはなかった。
それからしばらくして、梅雨に入った頃、偶然オノミチさんと話をする機会があった。
二限を終えてすぐ画材屋「
芸術学部棟は裏門側でキャンパスの反対端だし、知り合いもいない学部の校舎へ入るのも気がひけるし、ひとまず中央棟まで走ってから考えようかな――カフェでの雨宿りを諦めてお店を出ようとした時、入口横の席から「すみません」と、おっとりとした声が聞こえた。
反射的にそちらを見ると、二人掛けの席に一人で座って書き物をしていた女の子が、じっと私の方を見ていた。お嬢様みたいな服を着て、芸能人みたいな顔をして……バッグやネイル、ゆるふわ髪のスタイリングに至るまで、どこを取っても完璧だ。隙がない。
「雨宿りのように見えたんですけど、相席でよろしければ、こちらへいかがですか?」
その微笑みの可愛さに、言葉が出てこなかった。すごい、どこかのモデルさんか何かだろうか。黙る私が困惑していると思ったのか、彼女は慌てたように「怪しいものじゃないんですっ」と言いながら、握っていたシャープペンごと両手を左右に振った。
「私、人文学部一年のオノミチと言います。ちゃんと学生証もあります」
あっ、と声をあげそうになるのを必死で抑えた。これが噂のオノミチさんか、何か珍しい動物に遭遇した気分だ。彼女の目撃談は時々耳にするけど、女子学生と喋っていたなんて話は聞いたことがなかった。
「あの、本当に他意はないんです。その袋、福芸堂のものですよね? 中身が紙類なら、濡らしたら困るんじゃないかと思ったんですけど……」
バッグから取り出した学生証をこちらへ見せながら、彼女は頬を真っ赤に染めていた。そんな仕草まで女の子らしくて、ひたすらに可愛い。ああ、これは確かにすごいなぁ……と、心の奥で拍手をしてしまう。
すると、どこかモジモジしながら、オノミチさんが私をじっと見つめた。
「なんだか余計なことを言ったみたいで……ごめんなさい」
「あっ、いえ! ちょっと驚いただけなんです! 相席、ぜひお願いします!」
思いもよらない申し出に面食らいはしたけど、オノミチさんは厚意で言ってくれているんだ。空いている椅子に荷物を置くと、彼女は心の底から安心したように、柔らかな笑顔を見せた。
「注文はあちらからですよ、お荷物は見ておきますね。甘いものがお好きでしたら、はちみつカフェラテが人気みたいです。ワッフルもおいしいですよ?」
初めて入るお店で戸惑っている私に一瞬で気付いた彼女は、すかさず注文カウンターの位置とお勧めメニューを教えてくれた。
チガヤちゃんから聞いてた印象とは、ずいぶん違った。
はちみつカフェラテを買って戻ると、彼女は手書きで何かのレポートを書いていた。英文だけど、綺麗な字だと思った。内容はもちろん理解できない。
こんなに見た目が良くて頭も良くて気が利いて、そりゃ男の子が放っておかないよね……ハヤトの蕩けそうな表情を思い出して、胸の奥が苦しくなった。
「傘、忘れたんですか」
レポート用紙から視線を上げないまま、オノミチさんが聞いてくる。集中すればいいのに……たぶん、気を遣ってくれているんだろう。
「校舎入口の傘立てに、置きっぱなしにしてきちゃって。二限が終わった時は晴れてたから、つい忘れちゃったんですよね」
「あ、同じですね。私も部室に置いて来ちゃったんです……三限が終わったら、友達に持って来てもらうことになってて」
「いいなぁ、私は小降りになったら走ろうかな」
「さっきみたいに、晴れるといいですね……うん、完成」
レポートを書き終えたらしいオノミチさんは、ようやく視線を上げた。しかし今度はスマホを弄り始めたので、これ以上邪魔するのも悪いなと、私も自分のスマホを手に取った。
いつのまにか、メッセンジャーの通知が一件。開いてみると、ハヤトからの「実習棟に傘置きっぱなし、回収済み」というメッセージだった。持ってきてよと言おうかとも思ったけど、ハヤトとオノミチさんに面識ができることが怖くて、後でアパートへ取りに行くよと返事をした。
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