【ヒマワリ:過去編】ヒマワリとハヤブサ③
帰宅すると、当然誰もいなかった。玄関で私についた藁や泥を落としながら、ハヤトが台所の方を見た。いい匂いがする、きっと鍋物だ。ハヤトは凝った料理なんてできない。
「もう九時を回ってるな、風呂入ってからメシにしよう、沸かしてあるから先に入って来いよ」
ハヤトが言った。もう九時……まだ、九時。あと一時間は二人きりだ。今なら、ワガママを言っても許されるかもしれない。
「ねー、お風呂一緒に入りたい!」
私はハヤトの腕を引いて、強引に脱衣所へ引っ張り込んだ。ソウジのことを頭から吹き飛ばして欲しかった。ハヤトは呆れた顔をしながら、それでも抵抗せずについてきた。
「ヒマ助、俺が男だって忘れてないか?」
忘れてない、忘れるわけがない。ハヤトは私にとって、世界で一番大好きな男の子だ。いっそ勢いでも気の迷いでも、ただの性欲の捌け口でもいいから、最後までしてくれたらいいのにとすら思う。ハヤトがそんなこと、絶対にするわけがないけど。
「ハヤトだったら平気だもん。背中流しっこしようよー」
引き下がらない私を見て、ハヤトは眉間に皺を寄せたけれど、その表情はすぐに解かれた。
「わかった、下着をつけたままならいいぞ。あと、伯父さんたちが帰って来るまでには出ような……でないと、俺が殺される」
「ほんと!」
本気で受け入れられるとは思っていなかった私が喜ぶと、ハヤトは可笑しそうにクックッと笑った。
「まぁ、ヒマ助と俺の仲だからな。アヒル人形、まだあったよな」
昔よく遊んでいたアヒルを探して、ハヤトが脱衣所の戸棚を片っ端から開け始めた。
うっかり「そーゆーことじゃねーよ」と言い掛けたけど、これはハヤトの精一杯の譲歩なんだ。
子供の頃と同じだよって、ハヤトは私に示してる。
私との関係を、壊さないために。
「アヒルは洗面台の下だよー、隊長もらっていい?」
「お前、昔からそれ言うけど、いったいどれが隊長なんだ」
「クチバシが可愛いやつ!」
「わかんねー! どれも一緒じゃねーか!」
ハヤトが笑いながらトランクス姿になり、私も制服を脱ぎ捨てて、スポーツブラとショーツだけになった。
高校生にもなって、こんなことはきっと許されない。それはわかっているけれど……どうか、どうか今日だけは特別に許して欲しいと、信じてもいない神様へ祈った。
下着を身に着けたままで、バケツ一杯のアヒルを抱えて浴室へ突撃した。揃って湯船に浸かるのはギリギリだったけど、どうにか水面にアヒルを全部浮かべることにも成功した。
「うりゃー、いけーアヒル隊長ー!」
「待て! 隊長ってどれだよ!」
「クチバシが――」
「だからわかんねーって!」
子供の頃みたいに、ぎゃあぎゃあと声を出して遊んだ。どうせ家の回りは田畑で、隣の家にだって声なんか届かない。
こんなにも楽しげなハヤトを見るのは、本当に久しぶりだった。
時間差で浴室を出て、服を着た。ハヤトが髪を乾かしてくれるというので、茶の間に座ってテレビを見つつ、後ろからドライヤーを当ててもらう。
「やあやあ、お姫様みたいだねん、にししし」
私がふざけて笑うと、ハヤトが私の頭をぺしんと叩いた。結構痛い。私が苦情を言う前に、ドライヤーがテーブルに置かれて、ハヤトの両腕が私を包み込んだ。
「なぁ、ヒマ助……ソウジのこと、好きなのか?」
急にハヤトの口調が真面目になって、私の胸は、どくんと鳴った。
「もしかして、俺、邪魔したのか」
「違うよ、好きじゃないよ……でも、ソウジに好きだって言われて、つい……」
「つい、であんなことしちゃダメだろ。どうせ後悔してるんだろ?」
アホだな、とハヤトが呆れた声を出した。それでも両腕は、私を包み込んだままだ。
「そういうの、一人で抱え込むなよ。俺でいいなら、何でも言っていいんだぞ」
「ほんと……?」
違う意味だとわかっているのに、それでもハヤトの言った「何でも」という言葉は、ものすごく魅力的だった。
ねえ、好きだって言ってもいいよね。
私を好きじゃないかもしれないけど、伝えたからって嫌いになったりしないよね。
ハヤトだって、私のこと、少しくらいは好きでしょう?
「じゃあ、甘えちゃおっかな……どんなことでも、いい?」
「遠慮するなよ。俺とヒマ助の仲だろ」
ダメ押しのようなその言葉に、私はもう、我慢ができなかった。
「あのね、私ね……ハヤトのことが、ずっと大好きなんだよ」
「……ん? ああ、ありがとう」
普段通りの口調、普段通りの空気。私の言った「大好き」の意味は、きっとハヤトには欠片も伝わっていない。
「俺だって、ヒマ助が好きだぞ。だって俺たちは」
「家族だもんね!」
ハヤトの言葉を自分で引き取った。私たちは家族だ、兄妹も同然に育ってきた。だからこそ、一緒にお風呂だなんてワガママも受け入れてくれたわけで……絶対に、ハヤトは私を異性として見たりしない。
わかってたよ、私の告白には、可能性すらないんだって。
「家族だし、親友だとも思ってる。誰より信頼してるんだ」
ハヤトは後ろから回していた腕を解き、私の前に回って座り込むと、そのまま私の手を取った。
「俺は、ヒマ助と家族でいられて嬉しいんだ。親父のいる東京で暮らすより、ここに住めて良かったと思う……それは、ヒマ助と一緒にいるからなんだ」
知ってるよ、と口から漏れた。そんなこと、言われなくてもわかってるんだ。泣きそうになった私の手を、ハヤトの手が優しく擦ってくれる。
「小さい頃、ヒマ助が俺を守ってくれた。だからこれからは、俺がヒマ助を守りたいんだよ」
「じゃあ、同じ大学、行こうよ……守ってよ、ずっとそばで守ってよ」
私は、自分の人生の中で、一番ずるい言葉を口にした。このタイミングでそう言えば、ハヤトは決して断らないと、私はちゃんとわかっていた。
どうしても、一人で東京になんか行かせたくなかった。
そのままイシバシの家の人になってしまいそうで、私のところへは、二度と帰って来なくなりそうで――それがただ、怖かった。
「そうだな、わかった」
予想通り、嫌な顔一つせずに、ハヤトは私のワガママを受け入れた。
「それだと福海大か。受験まで勉強見てやるから、くれぐれもお前が落ちるなよ?」
ハヤトは笑っている。小さい頃からの夢を、平然と捨ててしまったのに。
「どうして、嫌だって言わないの?」
「え?」
「東京に行きたいって、ずっと言ってたじゃない!」
自分から言っておいて怒るとか、最悪だ。でも私は別に、ハヤトの夢を潰したかったわけじゃない。本当は一緒に付いて行きたかった。それなのに、私の力じゃ、とてもハヤトに追いつけないから……諦めることも、できないから。
「俺が美大に行きたかったのは、
優しい声でそう言うけれど、本当はそうじゃないって知ってる。
ハヤトはずっと、自分の両親がいた場所へ行きたかったんだ。
「決心がついたよ。元々、母さんはいい顔してなかったんだ……東京に行けば、どうしたって親父に会わなきゃいけないだろうし」
「それは、会ったっていいんじゃないの……」
「どうなんだろうな、母さんにも思うところはあるだろうしな。浪人するだけの余裕もないし、確実に現役で合格できる選択だってアリだ」
ハヤトの口からは、スラスラと言い訳が出てくる。目の前のイトコ殿は、いつだってこうなんだ。一度こうだと決めちゃったことは曲げないし、そうなると人の話も聞き入れないし、本音も平気で隠してしまう。
いつだって、自分以外の誰かの為に、自分の気持ちを殺しちゃうんだ。
「ワガママ言って、ごめんなさい……」
「いくらでも言えよ、俺たちは家族なんだから。ほら、髪乾かしてメシ食うぞ」
ハヤトは私の頭を撫でて、テーブルの上のドライヤーを手に取った。
「……自分は言わないくせに」
そんな私の呟きは、ドライヤーの音でかき消された。
大人たちが帰って来て、五人で遅い夕飯を食べていると、ハヤトは私と同じ大学を受けると宣言した。お父さんだけでなく、オリエちゃんの安堵するような表情を見てしまうと、もう「ハヤトを東京に行かせてあげて」とは言えなかった。
結局その後もずっと、ハヤトの決意は変わらなかった。
私たちは二人揃って、福海大に進学した。
――そうして私は、ハヤトの夢を潰してしまったのだ。
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