第44話 来なくていいよ

「……あのね健吾くん。わたし、本当に美紀ちゃんじゃないの」

「………へっ?」


 不思議な間があった。


 凍った時の静けさで、健吾くんの顔が蒼白になっていくのが分かって………。


「ゆ、ゆ、優紀さん? ご、ごめん、俺、てっきり美紀だと思って。だって、今日の試合に出たらもう入れ替わりはやめないといけないし、あいつがそう簡単に鹿島を諦めるわけないし、優紀さんだって、そう言って美紀を説得するだろうと思って、だから、その……」


 健吾くんの言い訳に被せるように、わたしも事情を説明する。


「……わたしもそうやって美紀ちゃんを説得したのだけど、朝起きたら美紀ちゃんがいなくて、勝手にキティを持って学校にいってしまっていて……」


 自分で言っておきながら、『勝手に持って』というのはおかしな言い方だと思った。

 元々キティは美紀ちゃんのものなのだから。

 それでもそんなおかしな言い方をしたくなるくらい美紀ちゃんの行動は唐突だった。

 もっとも、いつかのわたしに比べれば数段ましなのだけれど。


 健吾くんはわたしの説明を聞かずなおも言い訳を続けていた。


「……それに、息切らして膝に手をついてたし、あんなみっともない姿、……あわわ、別にみっともなくないけどあんな姿普段の優紀さんなら絶対見せないし、自分を美紀じゃないって言ったのは、最近、橘たちが捕まったばっかりだから今日は念入りに変装しようとしてるんだな、なんて思って、あの、その、」


 健吾くんは、見ているこっちが気の毒になるくらい狼狽していた。


 そんな健吾くんを見ているうちに、間違えられたことも胸を触られた憤りや困惑も、いつのまにか頭から溶けて消えていた。

 健吾くんの狼狽ぶりは昔、わたしがフライパンでぶん殴ってしまったせいだというのはわかっているけど、こんなに怖がられると少し悲しかった。


「ねえ健吾くん。もういいから顔を上げて。わたしは別に怒っていないし、それに、わたしが怒ったとしても今は健吾くんの方がずっと強いんだから少しも怖がることはないでしょう?」


「そうはいってもさ……」


 ただ、一点、気になったこともある。

 さっきの健吾くんは、わたしを美紀ちゃんだと間違えてハラスメントしていたのだ。それだけは確認しておかなければならなかった。


「……ただ、いまのを美紀ちゃんにやったらダメよ?」


「あわわわっ、いや、あれはほんの冗談のつもりで、なんというか、うわ、ごめんなさいっ!」


 やっぱりというかなんというか、美紀ちゃんにも同じことをしていたようだった。

 とはいえ、本当ならそれはわたしが怒ることではない。わたしはふっと表情を緩め、

 

「ふふっ、冗談よ。いくら一つ子だからってわたしが怒るのは筋違いだもの。だって、そのときは美紀ちゃんに思いっきりひっぱたかれたんでしょう?」


 健吾くんは、あうあうと頷きを返した。


「でも、ほどほどにしておいた方がいいと思うのはホント。あんまりイタズラしたらダメよ。美紀ちゃんそういうの本当に嫌いだから」


 もう一度、あうあうと頷いた健吾くんを見て、わたしは小さくため息をついた。


            @


 学校に着いたところで健吾くんと別れ、わたしは一路テニスコートを目指した。


 途中で走ろうかと思ったのだけれど、どうにも貧血の具合が思わしくなく、走るどころか校舎の壁に寄りかかって体調を整える羽目になった。


 少し、ムリをしすぎたのだろうか。

 こんな調子で試合に出るのはやはり無茶なのかもしれなかった。

 

 けれど、それでも入れ替わりをやめてしまうワケにはいかなかった。

 わたしは嫌がる身体を無理矢理奮い立たせると、寄りかかった壁から身を離し、ゆっくりとテニスコートに向かった。


「あ、優紀ちゃん!」

 最初にわたしに気がついたのは鹿島さんだった。

 ストレッチの最中だということも気にせず鹿島さんは金網のところまで駆け寄り、心配そうに声を掛けてきた。


「見に来てくれたんだ。でも体調は大丈夫なの? なんか今日も顔色悪そうだけど」


 それにわたしは「大丈夫です」と微笑みを返し、それよりも美紀ちゃんを、と言おうとしたとき元気な声がそれを遮る。


「あ、お姉ちゃんっ! 見に来てくれたの? あはっ、ありがとう」


 腕を十字に組んで肩のストレッチをしながら、美紀ちゃんがわたしのところへやってきた。

 意図が掴めず一瞬怯んでしまったけれど、向こうからこっちに来てくれるのは都合が良かった。だからわたしは


「ねえ美紀ちゃん、いまちょっといいかしら。美紀ちゃんに大事な話があるの」


 けれど美紀ちゃんは


「いまはダメ」


 ぴしゃりと断られた。

 しかも、意識しているのかしていないのか、それはわたしがいつかの昼休みに使った時間稼ぎと同じ言葉だった。

 それで気がつく。

――いまはダメ

 これは紛れもなく時間稼ぎなのだ。

 美紀ちゃんはこのまま試合が始まってしまうまで粘るつもりなのかもしれなかった。

「ホントにちょっとだけだから。ね、お願い」

「ダメだって。あたしはここにいなきゃいけないの!」


 とりつく島もなかった。

 強硬に拒絶を続ける美紀ちゃんに困り果てていると鹿島さんが

「少しくらいなら、抜けてもいいんじゃないかな。ほら、まだ試合までは1時間もあるし」


 そんな提案に、わたしは心の中で鹿島さんに感謝した。

 そして美紀ちゃんは口に出して「ありがとうございます先輩」と言う。

 けれど、美紀ちゃんは「でも」と先をつなげた。


「でも、そうじゃなくて、あたし、人を待ってるんです」


 人、というのは誰だろうと思った。

 美紀ちゃんが時間を稼いでいるのは、試合まで粘ろうとそういうことではないのだろうか、と訝しんでいると、


「悪りい、待ったか美紀?」

 息を切らして弾んだ声。健吾くんだった。

 けれどその格好は先ほど校門の前で別れたときとはまるで違っていた。


 健吾くんの身を包んでいるのは囚人服のようなしましま模様。

 しかも縞の2色は紫とピンク。顔にも同じ色のペイントを塗りたくっていた。

 前に遊園地で見た、それはツインテールチェシャキャットの衣装そのものだった。


「ぷっ、ぷふふっ」

 美紀ちゃんが吹き出したように笑う。


「何その格好」

「笑うなよ。仕方ねえだろそういう役なんだから。で、なんなんだよ一体。朝っぱらからいきなり、いますぐ来いだなんてメールよこしやがって。俺だってあんまりヒマじゃないんだぞ。本番まではこの格好してチラシ配んなきゃならねえんだから。試合にはちゃんと来てやるから、いまはだなぁ……」


「来なくていいよ」

「はぁ?」


 美紀ちゃんの話が掴めずに、健吾くんは口を半開きにして尋ね返す。

 

 わたしにも話がまったく見えなかった。

 美紀ちゃんは1人、当然というような顔をして話を続ける。


 (つづく)

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