第43話 おはよう健吾くん

 目が覚めると身体が重かった。


 窓からは水色のカーテンをすり抜けて朝日が差し込んで、今日もいい天気のようだった。


 いっそのこと雨が降ってしまえば、今日のテニスの試合もなくなってわたしは一日ゆっくり過ごせるのに、と思う。


 元々朝は得意ではないけれど、ここまで憂鬱なのも珍しかった。やっぱり、かなり疲れているのかな、と思う。


 昨日は美紀ちゃんに急かされて9時には床に入りそれからたっぷりと10時間は寝たはずなのに、それでも身体はだるくてしょうがなかった。

 それに……。

 

 嫌な夢を見たのだと思う。


 それが何の夢だったのかは思い出せないのだけれど、目を醒ました今になってもまだ胸が締め付けられるように苦しく、泣きたいような気分に苛まれている。


 どうしてこんなに泣きたくなるんだろう。

 こんなところで沈んでいる場合ではないのに。

 今日は文化祭で、わたしは美紀ちゃんの代わりにテニスの試合に出なければならないのに。


 美紀ちゃんだったらきっと、こんな風に沈んでたりしないのにな、と思う。


 そう。

 いまのわたしは美紀ちゃんなんだから、こんな風に沈んでたらダメだと思う。

 美紀ちゃんになった気分でえいっと気合いを入れて立ち上がり、勢いよく水色のカーテンを開けて空を仰いだ。


 大きく伸びをして晴れやかな笑顔を広げた。


「……うん。今日もいい天気」


 こうしていると、なんだか本当に美紀ちゃんになった気がした。

 顔も声も背格好も何もかも同じもうひとりのわたし。

 同じなのに全然違うもうひとりのわたし。

 けれど……。

 踵を返し枕元のキティを探す。


 それは、わたしを美紀ちゃんに生まれ変わらせてくれる魔法のリボン。


 キティは美紀ちゃんのトレードマークでごく普通の蝶々みたいな形をしていて、少しオレンジがかって赤というよりは朱に近い綺麗な色だ。

 

 わたしは手を伸ばしてその朱を、

 手が止まる。

 違和感があった。

 そこにあったのは美紀ちゃんのキティではなく、水色かかったブルーのリボン。


 わたしのダイナだった。


 ああ……,とわたしは思う。

 それはきっと、美紀ちゃんの仕業だった。

 

         @


 そのあと、慌てて家中を探しても結局美紀ちゃんは見つからず、靴もなかった。美紀ちゃんはもう学校に行ってしまったのだと思う。


 キティをつけて、美紀ちゃんの格好のままで。


 要するに本人の格好をしているわけだから校則的には何も問題はないのだけれど、わたしに対してはそれはハッキリと入れ替わりをやめたいという意志表示だった。


 それも、多分わたしの身体を心配して……。


 心配してくれるのはありがたいと思う。それでも、今、やめるわけには行かないとわたしは思う。今やめてしまったら、本当に、どうして入れ替わっていたのかわからなくなってしまうから。

 わたしは急いで着替えをすませると、朝ご飯もろくにとらずにミルクとラスクだけを口に放りこんで外へ飛び出した。

 一刻も早く、美紀ちゃんを捕まえて入れ替わり直さなければならなかった。

 なんとしても、試合が始まる前までに。

 そう、問題なのは試合なのだ。

 

 わたしと美紀ちゃんのテニスのフォームは、あまり似ていない。

 

 わたしは優子叔母さんに教えてもらったあとは独学だし、美紀ちゃんは高校に入ってから習った顧問の小菅先生式。

 

 あるいは少し鹿島さんを意識しているのかもしれない。


 今まではフォームを変えたといってごまかしていたのだけれど、二人がコロコロと入れ替わるようになるとフォームまでがらりと変わってしまってその不自然さは隠しきれない。


 多くの観客が見守る招待試合で美紀ちゃんがテニスをしてしまったら、もう一度わたしが入れ替わるのは限りなく困難だった。


 わたしは家を飛び出してバス停に向かって走ったのだけれど、すぐに息が切れて立ち止まってしまった。

 

 最近は部活動で鍛えていたのだけれど、やっぱり貧血もまだ回復していない。


 ぜいぜいと息を切らして膝に手をつく。なんだか、美紀ちゃんみたいだと思う。

 いつだって余裕を持って平静を装うとするわたしと違って、美紀ちゃんはいつだって全力疾走だから。

 

 膝に手をついて下を向いていると、血が登って頭がキーンとしてきた。


 それでもわたしは呼吸を整えようとしばらくそのまま立ち止まって


 足音

 ……誰?


「オッス美紀ぃ」

 健吾くんだった。

 わたしはホッと胸をなで下ろす。

 身体を起こし、呼吸を整え、


「あ、おはよう健吾くん。でも、……あのね、美紀ちゃんが自分のリボンを持って先にいっちゃったから、今日のわたしは『美紀』じゃなくて『優紀』よ」


 言葉は出てくるままに任せた。


 2週間も美紀ちゃんのフリをしているウチに自分の話し方なんてすっかり忘れてしまった気がしていたけれど、こうして話してみるとさほど不自然なところはなかった。

 身体が覚えている、という感触だろうか。

 

 それなのに、健吾くんはキョトンとして、

 「美紀……、だよな?」

 

 「ううん。その……、違うの。昨日帰ってそのあと美紀ちゃんと話しあって、わたしは入れ替わりを続けようってそういったんだけれど、昨日の夜までは美紀ちゃんも納得してくれてたんだけれど、朝起きたら枕元のキティがなくて、美紀ちゃんもいなくて、多分、美紀ちゃんは勝手に、……きゃっ」


 つんつん。


 嫌な感触を感じて、わたしは身体を隠すように横を向き、肩を抱いた。


 わたしは、もぞもぞと後ろを振り向き健吾くんの様子を伺う。


「な、何? やめて、健吾くん」

「……ほんっとに、うまくなったなぁ、優紀さんの演技。もう俺でもほとんど見分けつかねぇよ。やっぱクラスで演劇やってるのが効いたか? 水元の演技指導も捨てたもんじゃねえな」

「……、あの、ね? 健吾くん?」


 とぎれとぎれにわたしは言葉をつなげていく。


「健吾くん……」

「『健吾くん』って……、あのさぁ、悪かったよ。俺もちょっとふざけすぎた」

健吾くんは、困ったようなとまどったような顔をして、明後日の方向を向く。


「ほれ、何なら一発くらいなら殴ってもいいぞ。まったく、お前がそんなだと調子狂うぜ。……ああもう。とにかく今ぐらいは普通にしてろよ。誰も見てねえんだからさ。四六時中そんなんじゃ身が持たねえぞ」


「……あのね健吾くん。


(つづく)

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