第34話 わたしは美紀ちゃんが

 ――先輩は、どうして気づかないのだろう。

 先輩と帰る放課後。

 

 隣を歩く横顔を見つめながら、暗く沈んだ思いを抱き続ける。

 バスを降りたあたしたちは並んで朝倉家に向かっていた。

 先輩の家は反対方向だけれど、『道も暗くて危ないから送っていくよ』という紳士的な申し出をあたしは慎ましく受けたのだ。


 あたりはもうすっかり夜で、夕陽はひとかけらも残っていなくて、どんよりした空は、地上の光を受けて赤茶けた色に染まっていた。


 もう一度、先輩の横顔を覗き見る。あたしの好きな先輩の横顔。でも、一度だけ高鳴った鼓動は、すぐに疑問と後ろめたさに飲み込まれてしまう。

 

 何もかもが単純だったあのころが懐かしかった。

 こうして隣を歩いているだけで幸せだった、つい数日前のことが……。


 視線を元に戻して、小さくうつむきがちに息を漏らす。自分でも気づかないくらい微かだったけれど、それはため息なのかもしれなかった。


「優紀ちゃん、」

「はい?」


ゆるやかに顔を上げ微笑む。

半ば反射的な反応だったけれど、少し心配だった。


あたしは、うまく笑えているだろうか。


そう、いつものお姉ちゃんのように……。

「大丈夫? 何か、今日は元気ないみたいだけど」


立ち止まる。

分からなかった。


どうして、先輩はこんなにも鋭いのに、あたしに気がついてくれないのだろうか。

けれど、そんな思考を表に出すわけにもいかず、


「大丈夫です。ちょっと、考え事をしていて……」


わたしは笑顔でそれに答えた。ただ、話は終わらなかった。


「……もしかして、キスしたこと?」

「ち、違います!」


全力できっぱりと否定した。


多少お姉ちゃんぽくなくてもかまわなかった。

あれからずっとうやむやになっていたけれど、きっと先輩も聞きたくて聞けないでいたのだと思う。


でも、あたしが後悔しているだなんて思われたくなかった。

確かに後悔してはいるけれど、悪いのは先輩ではないのだから。


「……そっか。良かった。優紀ちゃんが本当はイヤだったんじゃないかってちょっと心配だったから」

「心配しないでください……。そんなこと、絶対にありませんから」


暗くて顔はよく見えなかったけれど、先輩の声は心底ほっとしたようだった。


喜びを噛みしめるような間があって、それから、


「……じゃあ、やっぱり美紀ちゃんのこと?」

「えっ?」


話の飛躍に思考がストップする。

どうしてここであたしが関係あるのか。

いや、この場合の『美紀』とはつまりお姉ちゃんだ。


先輩は、少し迷うようなそぶりをしてから口を開いた。


「なんだか、優紀ちゃんと美紀ちゃんの様子が何か変な気がして。いつもよりよそよそしいって言うか、そうかと思って見ると仲良さそうに笑ってるけど、何か美紀ちゃんもいつもより子供っぽく甘えてて少しわざとらしいし……。違ってたら悪いけど、もしかして、美紀ちゃんとケンカでもしてるの?」


驚きに目を見開いて、先輩を見つめる。

本当に、どうして先輩はこうも鋭いのにあたしに気づいてくれないのだろうか。


「…………」


逡巡。

どう答えたら良いか分からずに、わずかな沈黙が生まれる。


ケンカなどしていない、そう答えようと意を決した視線は、けれど、狼狽するように泳いで先輩に焦点を合わせようとはしなかった。


「……だいじょうぶです」


ウソをつくのがどうしてもイヤで、あたしはかろうじてそう言葉を紡ぎ出す。


「……ほんの少し、言い争っていましたけど、すぐに、仲直りしますから。だって……」


先輩は、心配そうにあたしを覗き込み、『だって……?』と優しく先を促す。


あとに続く言葉は決まっていた。


――わたしは美紀ちゃんのこと、大好きよ。


お姉ちゃんの顔が浮かぶ。

いつだってお姉ちゃんは、そう言って微笑んでくれた。


お姉ちゃんは、いつだって優しかった。それなのに……。

先輩が、急に黙ってしまったあたしの顔を心配そうに覗き込んでいた。


その視線に促されて、わたしは何とか言葉をつなげる。

「だって、わたしは美紀ちゃんが……」


大好きですから。


そう言おうとして、不意に言葉が止まった。


ポツリ、と何かが頬を伝う。


涙……、だろうか? そう思ったらどうしてなのか急に悲しくなってきてしまって、それ以上言葉をつなげられなくてうつむいて……。


――わたしは美紀ちゃんのこと、大好きよ。


うん。あたしも、お姉ちゃんが大好きだった。


優しくて、あったかくて、いつでもあたしのことを守ってくれた、たった一人の大切な一つ子。


でも……。


ポツリ、と、もう一度水滴が頬を伝う。

ポツリ、ポツリ、ポツリ。水滴が地面に落ちる。ポツリポツリポツポツポツザザザザァァァ


――気がつけば、あたりは轟音に満ちていた。


「うわ、雨? ……、優…、ちゃん…、……、………、……、…………」


先輩の声はほとんど聞き取れなかった。


地面を打つ雨粒はうるさくて、制服はあっという間にびしょびしょで、それでも何だか人ごとみたいな気がして、あたしはぼんやりと空を見上げ、


呟いた。

……今日も、いい天気。


それくらい、雨に濡れたい気分だったのかも知れなかった。



避難場所は、近くの酒屋の軒先だった。

休業日なのか、つぶれかけているのか、まだ8時前なのにシャッターは閉まっていた。


上の空だったあたしは、先輩に手を引かれ、ここまで連れて来られた。


「あ~、もうびしょびしょだ、ね……」


先輩の声が尻つぼみに小さくなっていき、『ご、ごめん』という謝罪に変わる。


何事かと思っていると、先輩は、そっぽを向いたまま鞄から取り出したスポーツタオルをよこした。


あたしは、『ありがとうございます』とそれを受け取って、制服を拭こうとして気がつく。


―――あ


弾かれたように身体を隠す。


今は十月半ばで、それなりに暑かったからギリギリ夏服で、びしょびしょに濡れたブラウスには下着のラインがくっきり浮かび上がっていた。


「ごめんなさい……」


何でか分からないけど、こんな時、先輩が相手だとこっちが謝りたくなってしまう。相手が健吾だったら思いっきり怒鳴りつけてると思うけど。


「あ、え~と、優紀ちゃん、傘持ってる?」


あたしは、先輩に背中を向けて身を隠しながら、持っていません、と首を振る。


「僕も……。天気予報じゃ晴れだって言ってたし」

それで、しばらくこの場所で雨宿りをすることになった。


家までは5分も歩けばつくけれど、降り方からすると通り雨のようだったから、10分も待っていれば濡れずに帰れそうだった。


先輩のタオルで、髪とブラウスと鞄と、一通りの水滴を拭う。


そのタオルは使用済みではなかったけれど、何となく先輩の匂いがする気がして……


顔が赤くなってたかもしれない。

「優紀ちゃん……」

「……は、はいっ」


先輩のタオルに顔を埋めながら、裏返った声で返事をする。


「美紀ちゃんのこと、僕にできることがあれば協力するから……」

「………」


雨の音がノイズみたいに邪魔して、考えがまとまらなかった。


迷った末、あたしはさっきと同じセリフを繰り返していた。


『大丈夫です』

『すぐに仲直りしますから』

『わたしは美紀ちゃんが大好きですから』


それっきり、会話が途絶える。


本当は、少しも大丈夫じゃなかった。


仲直りなんて、できる気もしなかった。


第一、何を話せばいいのか少しも分からない。姉ちゃんは何を考えているのか。お姉ちゃんがこんなことをしたのは、本当にあたしのためなのか。


――わたしは みきちゃんが だいすきですから

――ワタシハ ミキチャンガ ダイスキデスカラ。


怖かった。


あたしの知っているお姉ちゃんは、おしとやかで優しくて、いつでもあたしのことを大切にしてくれた。

守ってくれた。


本当は、あたしがお姉ちゃんを守ってあげるつもりだったのに……。


思い出す。


あたしが合気道を始めたのは、お母さんが死んでからすぐで、お父さんも帰りが遅い日が多くて、『強くなってあたしがお姉ちゃんを守るんだ』って、そう思ったからだった。


でも、中学生くらいになってようやく気づいた。

守られているのは、ずっと、ずっと、ずっとあたしの方だった。

あたしが泣いている時に慰めてくれるのはいつもお姉ちゃんだった。あたしがドジをやった時に助けてくれるのは、いつもお姉ちゃんだった。


あたしが道場に通っている間に、部活に出て友達と寄り道して帰っている間に、買い物と夕飯と洗濯とお風呂と、いつの間にか家事のほとんどはお姉ちゃんがこなすようになっていた。


――ワタシハ ミキチャンガ ダイスキデスカラ


本当に、そうなのだろうか。

先輩が同じことを聞いた時、本物のお姉ちゃんはそう答えてくれるだろうか。

あたしは、お姉ちゃんに数え切れないくらいたくさんのことをしてもらった。


でも、あたしがお姉ちゃんにしてあげられたことなんて、何かあるのだろうか。


――ワタシハ、

――お姉ちゃんなんて大ッ嫌い


身体が芯から冷えるように寒かった。

あんなこと、言わなければよかったと思う。


どんなに腹が立っても、どんなに許せなくても……。

雨は止まなかった。あたしは震えながら両腕で肩を抱く。すると、


ふわり、と何かが肩に覆い被さった。

「寒いでしょ? それ、使って。大丈夫、汚くないと思うから」


先輩のテニスウェアだった。


「……ありがとう、ございます」


先輩は、優しくて暖かかった。

でも、今はそれが辛かった。

どうして、あたしはいつもいつもいつも、何かをしてもらってばかりなのだろうか。


         @


家に帰ると、お姉ちゃんはもう帰宅していて、夕飯の支度もできていた。

あたしの委員会は、特権を行使して最終下校を過ぎても活動をしていたから、お姉ちゃんは健吾と一緒に先に帰ったはずだった。


「おかえり美紀ちゃん。雨は大丈夫だった? 濡れたなら、お風呂はもう沸いてるから」

「…………」


返事はしない。

無言のまま玄関をくぐり、階段を上って自分の部屋に入ってカーテンを閉め、濡れた洋服を着替えた。


(つづく)

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