【2章終了まであと1話】第30話 ホント、あたしって、バカ……

凍りついた。


あたしは、何をしているのだろう。

先輩を騙して、先輩の気持ちを踏みにじって、先輩のためだって言い訳して……。


 息苦しさに耐えられなくて、海底から空気を求めるみたいに、唇を離す。


 胸の鼓動は今は鉄杭を打ち込まれたみたいに苦しくて、うつむいたまま、あたしは顔を上げられなくなってしまった。

 あっという間に世界が遠ざかって、暗転した思考の中で耳鳴りのように罪悪感が鳴り響いていた。


「優紀ちゃん?」


 先輩が呼ぶのはお姉ちゃんの名前。

 先輩が好きなお姉ちゃんの名前。


 あたしじゃない。

 あたしじゃないのに、あたしじゃダメだったはずなのに。


 ……先輩がかわいそうだ、とあたしは言った。


 それなのに、あたしは先輩の隣にいる。先輩に寄り添って、手を握りあって、そして…


 ……先輩をバカにしているのか、とあたしは言った。

でも、先輩を一番馬鹿にしているのは、先輩のためだとか、先輩は幸せだと言って、一番先輩の気持ちを踏みにじっているのは……


 「優紀ちゃんっ」


 世界が揺れて、我に返る。

 先輩の手があたしの肩を優しく揺すぶっていた。


 「どうしたの優紀ちゃん? どこか痛むとか、苦しいとか?」

 

 ゆっくりと、先輩の顔を見上げる。『大丈夫です』と笑ったつもりだけど、それは失敗して力無い笑みに変わった。いま、


 あたしはどんな顔をしているのだろう。


 先輩……。思わずそう呼びそうになって口を紡ぎ、


 「鹿島さん……」


 この期に及んでも、正体を隠し通そうとする自分がイヤだった。


 「優紀ちゃん……」

 

 唇を離した後と同じ至近距離で、呆然となった焦点を合わせて先輩を見つめる。


 先輩は、悲しそうな顔をしていた。


 あたしは、その顔を見ているのがつらくて堪らなくて、


 だから、観覧車のドアが開くのがあと一秒でも遅かったら、観覧車からあたしが飛び出すのが一歩でも遅れていたら、あたしは観念して何もかも先輩に打ち明けていたのかもしれない。


 でも、


 地上について、ドアが開いて、あたしは先輩の手を振り払って外へ飛び出す。


 前も見ず、後ろも振り返らず、ただ夢中で足を動かす。降りてすぐのところでカップルとぶつかったけど、顔も上げずごめんなさいとだけ言って2人の横をすり抜けた。


 あとで思い返してみれば、それは健吾とお姉ちゃんだったのかもしれなかった。

 でも、その時のあたしにはそんなことに気がつく余裕さえなかった。

 

 走り続けた。

 懸命に足を動かし続けた。


 遊園地は閑散としていた。


 まるで、砂漠で一人走っているような孤独感。長いスカートが邪魔くさくて、疾走の逆風は冷たくて、責め立てられた心臓は苦しくて、夢の中で走っているような浮遊感の中、景色は人ごとみたいに通り過ぎてゆき、やがて………。


          @



そこは、『鏡の街』の一角だった。


キラキラ光る鏡のタイルが不規則な幾何学模様を描いてそこら中に敷き詰められた奇妙なバルコニー。


路地裏を通って目立たない階段を上って、鏡ばりの家の二階に上がってようやくたどり着ける、ひっそりとした秘密の場所。


 前に優子おばさんに教えてもらってから、あたしの一番のお気に入りの場所。 

 でも、ここに来る時は、いつも泣いている気もした。


 あたしはその場にうずくまって、嗚咽をかみ殺す。

 

 泣きたかった。

 でも、あたしが泣いてはいけないのだと言うことは分かった。

 だって、かわいそうなのは先輩で、ひどいことをしているのはあたしなのだから。


 加害者には泣く権利なんてないのだから。


 「……お姉ちゃん」

 

 鏡を指でなぞる。

 鏡に映ったのは、青いリボンをつけたお姉ちゃんの顔。


 大好きだったお姉ちゃんの顔。


 「あたしに、どうしろっていうのよ……」


 先輩は、入れ替わったお姉ちゃんに気づかないで、今日のあたしを好きだと言ってくれて、キスまでしてくれた。


 その言葉にも気持ちにも嘘はないと思う。

 だけど、それでも、あたしが先輩を騙していることに変わりはない。

 それなのに、あたしは、自分のひどさに少しも気づかずに、善人づらして恋人役を続けていたのだ。


 なにもかも全部、お姉ちゃんのせいにして。


 本当にやりたくないのであれば、やらない道だってあったはずなのに……。


 全部バラしてお姉ちゃんと一緒に停学にでもなんでもなる覚悟があれば。


 あるいは一秒で健吾をフッて、みんなから白い目で見られる覚悟があれば。


 もちろん、そうなれば先輩に好きになってもらうのもダメになるけど……。


 ……ああ、そうか、と思う。


 結局、あたしが一番恐れていたのは、それなのかもしれなかった。

 先輩のためだとか、お姉ちゃんが悪いから仕方がないとか言い訳しても、つまるところ、あたしは先輩に振り向いてもらいたいだけだったのかもしれなかった。


 「あたしって、バカだなぁ……」


 よく考えもしないで行動して、自分が何をしたいのかも分かってなくて、行き当たりばったりの立ち回りの末、結局後になって後悔する。

 こんなだから、みんなにはからかわれるし、お姉ちゃんにだって見事に嵌められてしまうのだ。


「ホント、あたしって、バカ……」


ため息のような独り言は鏡に吸い込まれ、しかし、反射するかのように返事が返ってきた。


「……よく分かってんじゃねぇか。バカ美紀」


 盛大なため息をついて、やっぱり、神様はいじわるだ、と再確認する。

 

 こんな時はいつも、一番会いたくない奴に限って一番最初に現れるのだから。


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