なかったことになる世界

 俺は東京近郊のベッドタウンに、妻と高校2年生の娘と家族3人で暮らしていた。毎朝、満員電車に揺られて通勤している。俺は文房具メーカーでボールペンを販売する部の営業課長をしていた。まあ、仕事は嫌いではなかったが、しょせん生活のために働くごくありふれたサラリーマンだった。そんな平凡な暮らしを続ける俺のまわりで、おかしなことがおこりはじめた。毎朝、目が覚めると何かが一つずつ消えていくのだ。なくなるとかそういうことではなくて、最初からなかったことになるのだ。


 はじめに気がついたのは「ネクタイ」だった。いつものように目覚めて、いつものように家族と朝食を食べ、スーツに着替えている時のことだった。ネクタイを選ぼうとクローゼットに手を伸ばすと、ネクタイ掛けごと消えてなくなっていた。一応、営業課長をしている手前、身だしなみには気を付けている。部下への示しもある。俺は妻に向かって少し声を荒げた。


「おい。ネクタイはどこにやった」


妻は不思議そうな顔を向けた。


「どうしたの。ネクタイってなに」


俺は妻のもとまで歩み寄った。


「なにをバカなこと。ネクタイはネクタイだ」


「あなた。落ち着いて。なにを言っているかわからないわ。ネクタイってなに」


ちょうどその時、テレビの朝の情報番組が若年性痴ほう症について語っていた。妻がボケたのかとドキッとした。


「首に回すひものようなやつだよ」


妻は娘に向かって尋ねた。


「ねえ、真由。ネクタイってなに。首に回すひもって言っているけど」


「知らないわよ。犬の首輪じゃない。パパは会社の犬だから」


俺は頭に血がのぼるのを押さえて、


「もういい。今日はこのまま出かける」


と告げるとマンションを出た。


 駅前のコンビニでネクタイを探したが見つからず、店員に尋ねると彼も妻と同じようにキョトンとして尋ねてくる。


「どんなものですか」


俺は怒りを抑えながら妻に話したのと同じ答えを返した。


「ネクタイだよ。首に巻くひもみたいなやつだよ」


店員は考え込んでから言った。


「何の目的で首にまくのですか」


 俺は説明に困った。ネクタイの意味なんて考えたこともない。これ以上、店員とやり取りしている時間もなかったので、急いで電車にかけのった。電車にすしづめになりながらも、あたりを見回した。スーツ姿の男たちは、誰一人としてネクタイをしていなかった。クールビスにはまだ早い。若手社員ふうの男はもとより、それなりの役職がありそうな紳士まで、ネクタイをしていなかった。どういうことだ。俺は狼狽しながらも、スマートフォンで「ネクタイ」を検索した。該当数0件。


 俺は、その日の日中を奇妙な気分で過ごした。夕方になって帰宅する頃には気持ちを切り替えた。どおってことない。世の中からネクタイが消えた、いやなかったことになっただけだ。そもそもネクタイなんてなんの意味があるかわからない。邪魔なだけだ。手間が一つ省けたのだからむしろ良かったじゃないか。ここでネクタイに固執したら、逆に俺がおかしな人間に思われる。こうして、俺は俺自身の記憶からもネクタイをなかったことにした。


 次の朝、目覚めるともちろんネクタイはなかった。夢でないことを確かめて、俺は妻と娘が座るダイニングテーブルについた。ご飯に味噌汁。焼鮭に納豆。ネクタイはなかったが平和な家庭がそこにあった。妻が尋ねてきた。


「ねえ。あなた。昨日、騒いでいたネクタイってなに」


横にいる娘が気まずそうな顔をして、昨日、言ったことを詫びた。


「昨日はごめんなさい。変なこと言って」


俺は二人の心配そうな顔をみた。


「いや。なんでもない。気にしないでくれ。さあ食べよう」


テーブルの上を見回すと「はし」がなかった。


「はしをくれないか」


妻と娘が顔を見合わせて言った。


「はしってなに」


今度は「はし」か。


「いや。なんでもない」


俺はそう答えて、妻と娘の様子を見ることにした。二人はフォークとスプーンを器用に使って茶碗に盛られたご飯とお椀に入った味噌汁を食べていた。小さな容器に入った納豆をこぼさないようにホークでかき混ぜる姿を見た時は、うまいものだと感心すらした。丸底の器にナイフとフォークがこんなに使いにくいものとは知らなかった。俺ははしの代わりになるものを探しまた。竹串は細すぎるし、ストローでは弱すぎる。なかなか手ごろな木の棒を見つけられずにいたが、サイドボードの中にガラスのマドラーを二本みつけた。俺はそれをとってきて、妻と娘に言った。


「外国では木の棒を二本つかって食事をとるそうだ」


俺はマドラーをはし代わりにして朝食を食べ始めた。妻と娘は魔法でも見ているかのように驚いていた。


「ねえ、パパ。凄い。どうなっているの」


娘はポケットからスマートフォンを取り出して、動画撮影をはじめた。俺は調子に乗ってマドラーのはしを使って、皿の上の焼鮭の身から皮と骨を分けて見せた。


 俺はその日の昼食に部下とそば屋に行った。家から持ち出したマドラーを使ってそばを食べる姿を見せて部下たちを驚かせた。食べ終わるころには、俺のまわりに他の客たちが集まって人垣ができていた。


 次の朝目覚めると、今日はどんなものがなかったことになっているのかとあたりを見回した。朝の身支度も食事も特に問題なかった。今日はなにもおきないのかと思って安心した直後だった。トイレットペーパーがない。幸いシャワートイレだったので、それほど汚れていなかったがその日一日、落ち着かなかった。一度、なかったものになったものは二度ともとにはもどらなかった。文化的にも、歴史的にもなかったことになるようだ。


 ネクタイ、はし、トイレットペーパーに始まって財布、傘、タバコ、マニキュア、ペットボトル、網戸、電気掃除機、レトルトカレー、靴下、コンタクトレンズ、歯ブラシと毎日一つずつ、何かがなかったことになった。あることが当たり前の俺にとっては不便であるものも多かったが、妻も娘も会社の仲間も普通に暮らしていた。俺は、世の中になくても暮らせるものが案外、多いものだと思うようになっていった。


 俺の生活に関係のないものが、なかったことになった時は気づかないこともあった。その日の朝もそうだった。俺は目覚めると、周囲を見回して、なにかなかったことになったものがないか確認するのが日課になった。寝室でも、朝の身支度も、食事の時間も、通勤でも特に問題はなかった。会社にたどり着いて、いつものように個人認証カードを差し込んだ時だった。


ピー。ピー。ピー。


守衛室から警備員が飛び出してきた。


「おはようございます。ちょっとカードの調子でも悪いのですかね」


警備員は俺のカードを受け取って不思議そうな顔をして尋ねた。


「ボールペン販売部。そんな部署があったかな。ボールペンとはなんですか」


 俺の部署ごとなかったことになってしまった。俺は仕事を失って途方に暮れた。小学校、中学校、高校、大学とコツコツと勉強し、やっと入った会社だった。真面目に働き、時には上司にゴマをすったり、罵声を耐え忍んでようやく得た役職だった。積み重ねたものが一瞬にしてなかったことになって良いものか。不条理すぎて泣けてきた。


 仕事を失って数日がたった。その間も毎日、何かがなかったことになっていった。しかし、もうそんなことにかまっている暇はなかった。このままではローンで買ったマンションがなかったことになる。その内、妻と娘がなかったことになってしまうだろう。俺は再就職に向けて動き出した。


 ようやく面接のアポイントが取れた日の朝だった。数日前に電気シェーバーがなかったことになっていたので、カミソリで肌を切らないように慎重にひげをそった。歯ブラシはとっくになかったことになっていたので楊枝で丁寧に歯の手入れをした。朝の身支度に一時間もかかるようになったが身だしなみは肝心だ。スーツに着替えて、ネクタイがないのが不満だったが、気を引き締めて玄関に向かった。


「おい。俺の靴はどうした」


「なーに。あなた。靴ってなに」


リビングから妻のあくび交じりの声が聞こえてくる。とうとう、靴もなかったことになったか。


「いや。なんでもない。面接に行ってくる」


俺はリビングに向かって、そう告げてマンションを出た。裸足で外を歩くと案外、心地いい。歩道が整備されているので靴なんていらないのかもしれない。調子にのって歩いていると、


「あう」


なさけない言葉が口をついてでた。俺は小石を踏んでいた。痛みと一緒に一つのアイデアが浮かんできた。


「待てよ。なかったことになったなら、俺が作ればいい。だれも知らない便利なものを、俺だけが知っている。今なら、発明王にだってなれる」


俺は声を張り上げて笑った。





おしまい。

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