第30話 青年とお嫁さんと少年と

「ヒビキー、いつまで寝てるの? いい加減起きなさい」


 母が呼んでいる。

 緩やかなまどろみの中、ヒビキは母の呼び声にうっすらと目を開けた。


「やっと起きた。もう、神主さんもダナエも準備出来てるんだから、あんたもさっさと起きて顔洗って着替えなさい」


 ふぁい、と寝惚けた返事をしつつ、ヒビキは起き上がる。

 あれから、十年が経った。

 イスファが危惧した肉体の変化は、額から一本角が生える程度で収まった。

 自身の成長と共に大きくなる角はヒビキ本人からすれば結構邪魔で、服を着替えるにも部屋を移動するにもいちいち引っかけたりぶつけたりしていた。

 それは別に構わないのだが、特に女性クルーが角を見ながら頬を赤らめていた。その意味を最近理解したヒビキは、恥ずかしさに似た複雑な気分を味わった。

 その角も一週間前にイスファによる手術で除去され、その直後に飛びついてきたダナエに、「さっそく祝言をあげるのじゃ!」と宣言され、あれよあれよ準備は進み、今日に至る。

 無論、十年の間ヒビキはなにもしてこなかった筈もない。

 自分と同じ病に苦しむ人々へ治療方法があると啓蒙活動にいそしみ、副作用で肉体が変化した者たちへの心身のケアも忘れずに行う。

 また、魔素機関の開発も、ヴィルトガントたちと共同で行い、何世代か後には誰もが当たり前に魔素機関を使えるような土台作りにも励んでいた。

 寝惚け眼でドアを開けると、白無垢姿のダナエが佇んでいた。


「……遅いではないか。あまり待たせるでない」


 角隠しの下から僅かに見える赤鴇色の髪は、目にも眩しい白無垢に映え、普段とは打って変わったおしとやかな振る舞いが一層際立たせる。


「……きれいだ」


 ぽつりと呟く。

 百年の恋が千年の愛に変わる。そんな美しさだ。

 いつぞやの晩餐会で見たドレス姿もそうだが、やはりダナエにはこういう晴れ着がよく似合う。


「当然じゃ。わらわを誰と心得る」


 いたずらっぽく笑うさまは、出会った頃とまるで変わらないけれど。


「いま、顔洗ってくるから。窮屈かもしれないけど、もう少し待ってて」

「うむ。十年も待ったのじゃ。いまさらどうということは無い」

「ありがと」


 ヒビキが活動するその隣には、常にダナエがいた。

 求心力でも資金面でももちろん精神面でも、彼女の支えは本当に有り難いものだった。

 そういう風に言うと必ず母が拗ねるので少々困ってはいるのだが。

 ともあれ、今日は結婚式だ。

 大人になったら一番やりたいことだったのに、いざ本番となるとそれほど実感がないのは不思議だ。

 でも、この幸せでふわふわとした感覚は紛れもない事実だ。

 洗面台の前に立ち、角が無くなってすっかり寂しくなった額に指をやる。

 バケモノと誹りを受け、迫害されるかも知れないよ─イスファの声が過ぎる。幸いにして自分も含めてそういった報告は受けていない。報告が無いだけで実際にはあるのだろう。ヒトとはそういう生き物だ。

 そういうヒトの心をどうこうしようとかの大それたことは、ヒビキのやりたいことの中には無い。個人の問題は個人で解決するしか無いのだから。

 だから、いまは自分たちが幸せになる道を選び続けるしかない。

 ばしゃばしゃと顔を洗って、洗いざらしのタオルで拭く。

 もう一度鏡の中の自分と目を合わせる。

 瞬間、


「えっ」


 イスファに出会った頃の、まだ八歳の自分がそこに映っていた。

 大人にはなれないと分かっていたから、毎日懸命に生きていたあの頃の。

 大人になれたぞ、お前。

 鏡の中の自分にそう言うと、八年前の自分は一瞬驚き、そして満面の笑顔を浮かべた。


「あ」


 そしてまた唐突に消え、鏡の中には少し逞しくなった自分が映っていた。

 大人になれたんだ。

 やりたいことがいっぱい増えたんだ。

 ひとつずつ、全部やっていこう。

 これからも、ずっと。

 ダナエと、みんなと一緒に。



                                〈 終 〉

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魔恋希童 アンドレイア 月川 ふ黒ウ @kaerumk3

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