僕と彼〜僕は君に伝えたいことがあるんだ〜

大畑うに

そして友情が芽生える

 

世界は美しいものでできている。

 そう信じていたときは、なにが起きても幸せだった気がする。

 たとえば、転んだ先の道路が痛くても道端の花は可愛かったし、どんなに怒られても怒鳴っていても最後には頭を撫でてくれる両親もいた。

 ただ光り輝いている日々。

 世界にも、未来にも、希望しかないと思っていた。

 そして、それがもろく崩れても、僕は信じることをやめたくなかった。

 美しいものなど何一つ存在しない世界が正しいと思っても、きらきらした日々を嘘にはしたくなかった。


 だから、彼に興味をもったのかもしれない。


 僕の中学校に転入した彼は、浮いていた。

 田舎の公立中学は、その地区のいくつかの小学校出身の生徒が寄せ集まったような形で、ほぼ全員が顔見知りの状態だ。そんな中に、都会の人間がやってきた。それだけで大きなニュースになる。


 なにより、彼は大人びていた。身長はすらりと高く、顔も上品に整っているのだ。それだけでなく、同級生の中学二年生とは思えないほど落ち着いた雰囲気を持ち、どうやら頭も運動神経も良いようだった。


 それが気に食わない人間は多い。


 明らかに名指しで陰口を言う同級生や、直接ふざけているつもりで足を引っかけたりしている光景を目にしたこともある。


 転入初日から学校中の人気を手に入れた彼は、それでも何食わぬ顔で凛としていたためか、それらの行為は助長されていったように感じる。


 僕は、彼を知りたいと純粋に思っていた。

 都会の生活から離れて不自由はしていないか、都会と教科書や学校の雰囲気は違うのか、彼女はいるのか。

 興味は尽きなかったが、隣のクラスだったため、聞こえるのは嫉妬のような噂話だけだった。



 彼が来て数日。それは起きた。


 部活に行こうと急いでいたため、近道である校舎裏を走っていた。

 ふと、校舎に目をやると、あまり使われない理科の準備室に彼がいた。

 不思議に思い立ち止まったところで、彼が怪我をしていることに気付いた。左腕をおさえ、口には血がにじんでいた。

 思わず、窓を叩く。


「ねえ、どうしたの?」


 僕に気付いた彼は、ゆっくりと近づいてきて窓を開けてくれた。

 やっぱり、その口からは血が垂れてきている。

 よくよく見てみると、顔が少し赤い。誰かから殴られたのだろうか。

 想像は容易にできた。

 怪訝そうな顔をする彼に、僕は詰め寄る。


「それ、殴られたの? 腕も……大丈夫?」

「たいしたことじゃない」


 彼は、先ほどからの無表情をそのままに、それこそ他人事のように言った。けれど、僕はその言葉で確信した。

 これは殴られたんだ。気に食わないという理由で誰かが彼を殴ったに違いない。

 それで話は終わりかと言いたげな視線に、僕はむっとした。


 僕は怒っていた。

 なぜか、怒っていた。


 彼はそんな僕を見下ろし、表情を緩めた。笑っているように見えたが、そうではない。

 呆れているのだ。子供っぽく彼を心配する自分を嘲笑したのだ。


「それが、たいしたことじゃないっていうなら、何がたいしたことなんだよ!」


 僕がつい頭にきて大きな声でそう叫ぶと、彼は一瞬だけ悲しそうな顔をしたように見えた。 

 それからすぐ、いつも見かけている無表情を取り繕ったような顔に戻る。


「生きること」

「え……」


 小さな声で呟かれる。表情のない顔に影がかかって、どことなく泣き出しそうに見えて、僕は戸惑った。

 そんな言葉を失った僕に、彼は明るい声で聞いてきた。


「部活、行くんだろ? 野球部」

「え……え? う、うん」

「じゃあスパイク持ってる?」

「そりゃ」

「じゃあ、今履いてる靴貸して」

「は?」

「鍵を閉められた。窓からしか出られないから。シューズを汚したくない。分かってくれる?」


 僕は頷いていた。

 彼はわずかに口角を上げると、おずおずと履き替えた僕の靴を窓の下に誘導した。それから彼は、振り向いてカバンを肩にかけているようだった。どうやら、帰宅途中に理科準備室に入ったらしい。


 そうすると、屈んで上靴を脱ぎ窓枠に足をかける。身軽にジャンプして、置いてある僕の靴の上に上手く着地すると、無言で履き始めた。

 ちょっとした動作もイケメンは違うなぁ。なんて思いながら、僕は思い出したように部活のカバンを開いた。

 ごそごそと体操服の下を探りながら、ちらりと彼の左腕を盗み見る。

 体操服の半袖から覗く肘に、痛々しい赤い線が走っている。乾き始めてはいるが、未だに滲んでいる血に顔を顰めた。


 カバンから絆創膏とタオルを取り出す。乾いたタオルを肘に巻こうとすると、彼はびくりと体を揺らした。


「あ、ごめん。びっくりしたよね」

「いや別に……タオル汚れるよ?」


 一瞬で平静を取り戻した彼は、至極当たり前のように首を傾げた。

 自分の怪我の心配よりタオルが汚れることを気にかけている姿が、少しだけ幼く見えた。


「タオルは汚れるものだよ。濡れてなくてごめんね。こんなんじゃ意味ないから、保健室に行きなよ」

「その絆創膏くれるんじゃないの?」


 真顔で手の中を指をさされる。

 タオルと一緒に鞄から取り出していたくしゃくしゃの絆創膏を、どうやら見られていたらしい。僕はそれを後ろに隠しながら、へらへらと笑って見せた。


「だって、消毒もしていないし。せめて洗うかなんかしないと、いきなり絆創膏なんて貼れないよ」


 それに、たった一枚の絆創膏が役に立てるとは思わなかった。

 僕の訳の分からない言葉に、一瞬きょとんとした不思議そうな顔をした彼は、次いで声を出して笑った。


「はっ、お前、いいやつだなぁ」

「こんなの普通だよ」

「他人に普通に優しくできる人間は、いいやつなんだよ」


 彼は優しい目をしている。

 僕は、彼が難しいことを言っている気がして、しかめっ面をした。



 その日、僕は部活にはいかなかった。大人数な部活で、レギュラーでもない自分がいなくても支障がないと判断したからだ。もちろん、それよりもなによりも彼が傷ついているのを見ていられなかった。


「保健室が嫌なら、僕の家はどう?」


 学校から五百メートルの位置に僕の家はある。ちょっと寄るくらい、なんてことのない距離だと思った。


 しばし考えるようなそぶりを見せた彼は、クールに頷くと、静かに僕の後をついてきた。




「良い家だな」


 埃っぽい玄関を跨ぐや否や、辺りを見回して感想を言う彼の背中を押す。


「恥ずかしいからあんまり見ないで、ほら、こっち来て」


 梅雨入り前の生ぬるい空気が充満している浴室を開け、換気扇を回す。あまり友人を家に呼ばない為、妙な気恥しさもあり、僕はぞんざいに彼の腕を引いた。


「ケガ、腕だけだよね? それなら服脱がなくてもいいよね。とりあえずシャワーで綺麗にしなよ」


 早口でまくし立てるようにそう言い置き、浴室の扉を閉める。

 シャワーの音を背中に聞きながら、リビングに向かった。


 確か薬箱があったはず。と探し回り、本棚の上を開いてようやく見つけ出した。

 消毒液とガーゼや包帯を用意したところで、後ろから声がかかる。


「ずいぶんと大ごとだな」

「なんで他人事なの」


 振り仰いで頬を膨らませる僕。それを見下ろした彼が、目を細める。同じクラスでもないし、今日までほとんどしゃべったことがなかったが、その表情が笑顔だという事が分かってきて、なんとなく嬉しい。


 薬箱から取り出した消毒液たちを、有無を言わさず差し出すと、観念したように肩をすくめた。


 彼が消毒液をティッシュに浸すのを眺めながら、僕は悩んでいた。

 なぜ、理科準備室なんて普段なら行かないところに行ったのか。

 なぜ、閉じ込められていたのか。

 なぜ、怪我をしているのか。

 気になって仕方がなかった。


 彼を傍観していただけの僕が、それを聞くことは正しいのだろうか。


「お前、お節介っていわれるだろ」

「へ? そんなこと、言われたことないなぁ」

「へぇ、じゃあお前はいつもそんなんなんだな」

「そんなんってなに」

「人の顔色窺って気持ち察して、一人でぐるぐる悩む」

「そんなんじゃないよ」

「あそこへは自分で行った」


 あらかじめ出しておいたガーゼや包帯を丁寧に薬箱に戻し、じっと僕を見る彼。


 僕は、自分の喉が渇いていることに、その時初めて気が付いた。


「理科準備室なんて、行くことないでしょ」

「集めたプリントを先生に渡しに行ったんだよ。理科係だから」


 僕の中学校には教科それぞれに係がいて、委員会に所属していない生徒が自然とその係に振り分けられる。


「準備室で、なにをしたら、腕から血が出るの」


 まただ。

 また僕は怒っている。

 目の前の飄々としたままの彼に、僕は怒っていた。

 それとも、彼がクラスメイトに影で悪口を言われていても放っておいた自分に、僕は怒っているのかもしれない。


「そんなに怒るなよ。間違ってフラスコ割っちゃったんだよ。それを掃除しようとしたら転んで、机に顔を打って、ガラスに肘ついた。それで痛みで呆然としていたら、準備室の鍵が閉められていたんだよ。今日はほとんどの理科の先生が研修とかで、午後いなかっただろ。それで使わないと判断されて閉められたんだと思う。あそこ外鍵で中から開けられないし、困ってたんだよ。お前には助かった」


 早口にそう言われ、僕は呆然とした。

 そして、悲しくなった。

 彼の言っていることが本当だと、どうしても信じられなかったからだ。

 少しも辛そうな顔をせず、事実かどうか分からないことをつらつらと話している彼が、どうしようもなく悲しく見えた。


「明日先生に謝るよ。フラスコって、弁償どのくらいするんだろうな」


「僕も、一緒に、謝る」


 いつの間にか、僕は泣いていた。なんだかよく分からない感情が渦巻いている。彼はぎょっとしたような、呆れたような、不可解な表情を見せながら、本当に困ったように低く呟いた。


「お前が、なにを謝るんだよ」


 それが少しも怒っているようじゃない響きで、僕は一層声を上げて涙を流した。


「なんだよ、お前」

 必死に涙を拭う僕に、彼の優しい声色が降ってくる。


 僕は、君に伝えたい。

 世の中は本当に綺麗なものでできているのだと。

 道路の街路樹が青々と茂り、太陽の光で一心に煌めいていることを。

 横断歩道の隅に置かれた黄色い旗が、笑顔で腕を上げる子供たちを見守っていることを。

 晴れの日の爽やかな空気を。雨の日の湿った匂いを。


 僕が、君を本当に心配していることを。

 ただ、知ってほしいんだ。

 綺麗ごとでも構わないんだ。

 君が、生きている世界は、辛くないんだと、僕が君に証明したい。


「お前、そんなんじゃ、変な奴に騙されるよ」


 彼の声が、少しだけ震えている気がした。

 僕は勢いよく顔を上げ、彼を見る。

 相変わらず無表情でなにを考えているか分からないけれど、微かに、口の端が上がっていた。


「ぼく、と、友達になれば、いいと思うよ」


 僕は鼻水をすすることも、涙を拭うこともやめて、びちゃびちゃの顔のまま、自分でも思いもよらないことを口走っていた。


 彼の目が優しく細められる。

 僕の必死な顔をひとしきり眺めて、ふいに大きな口を開けてゲラゲラと笑った。


「お前っ、それ! ぷっくく……鼻水、凄いって! やばすぎ!」

「ご、ごめんね」


 手を叩いて大笑いする彼に、僕は途端に恥ずかしくなった。

 しばらく笑っていた彼は、肩で息を整えると、酷く優しく囁いた。


「……それいいな」

「え?」

「友達、なってくれるんだろ?」


 彼がこれ以上ないほど爽やかに微笑んだから、僕はまた号泣してしまった。




おわり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕と彼〜僕は君に伝えたいことがあるんだ〜 大畑うに @uniohata

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ