第9章 潜伏そして始動



  国境街 アルヴェルト宅にて


 明朝、ベルティーナ達はアルヴェルトの用意した食事を済ましたところであった。

 彼は食卓の上を片付け、台所にて食器類を洗っていた。食卓の椅子に座っていたベルティーナは、隣の席で自分の背中を気にしているリュシールの様子に気づく。

「リュシィ、背中が痛むのかしら?」

「い、いいえ、大丈夫です」

 リュシールは姉に心配をかけまいと姿勢を正し、顔に不快感を出さないよう繕った。それがかえって、背中の傷の痛ましさをベルティーナに印象付けた。

「そう、まだ痛むのね。おい、アルヴェルト?」

 アルヴェルトは食器を洗う手を止め、彼女の傍に近寄って頭を低くする。

「なんでしょう、お嬢様」

「お前も見ていたのなら知っていると思うが、リュシィは棒打ちを受けた。昨夜、寝室でその傷跡を見たのだが、それは酷く腫れていた。何か痛みを和らげる妙薬はないか?」

「はい、塗り薬で良ければあります。この片付けが終わった後にでも、すぐにお作りしましょう。それにしても、あの棒打ちは本当に酷たらしい仕打ちでした。妹様のお綺麗なお体に傷をつけられたと思うと、私の心も抉られるような痛みを感じます」

 アルヴェルトが悲しむと、それに同調したベルティーナも憤りを湧き上がらせた。

「ええ、お前もそう思うであろう。我が妹の白く美しい肌に、火傷のように走った赤い跡をつけるなど、それも一つならず二つもだ! あやつはもはや公爵としての尊厳さえ忘れてしまったようだ、ろくな調教も受けられなかった出来損ないの駄犬だ、必ずや我が手で屠殺してくれようぞ!」

 ベルティーナは復讐心をたぎらせ、拳を固く握り締めた。

「お姉様も、お体の方は良くなられましたか?」

 リュシールは彼女をなだめる思いで話題を逸らした。

「ええ、問題ないわ。やはり、アルヴェルトの作った薬は出来が良い、今なら馬を全力で走らせ、存分に剣を振る事が出来る。貴女のその腫れ跡も彼の作った薬を塗れば、きっと良くなるわ」

 アルヴェルトはベルティーナに頭を下げる。

「お褒め頂き光栄です」

 片付けを済ませた後、アルヴェルトは情報収集も兼ねて、通常通りに店を営業し始めた。カウンター内の椅子に腰掛けて、読書をしながら客が来るのを待つ。時にいつもは手を付けない店前の掃除をするために外へ出て、作業の傍らで通りかかった街の人に話しかけ、昨日の騒動について情報交換を行った。

 その間、ベルティーナとリュシールは二人きりで会話をした。昨夜の事もあって、二人は積極的に話をしようと試みていた。その大半が単純な質問と答えの繰り返しであり、姉妹にしてはぎこちない会話であったが、お互いはそれで満足だった。互いが心の奥底で願っていた姉妹の交流を実現させ、それまで伝えられなかった気持ちを渡し合えたからである。

 その会話の最中、カウンターへ通じる扉からアルヴェルトが顔を出した。彼はオルシャンツァ姉妹の楽しそうな姿を見て、こう言う。

「お二方は、随分と仲睦まじいですね。以前、私がお嬢様のお館をお訪ねした際には、お二方の間にはなんとも言えない空気があるようにお見受けしましたが。……あ、いえ、私とした事が出過ぎた口を利いてしまいました」

 アルヴェルトは謝罪の意を込めて深く頭を下げる。ベルティーナは彼に微笑んで、「良い、気にするな」と言った。

「当時の私は執務に専念するあまり、姉としての責務を疎かにしていた。リュシィに中々構ってやれず、周囲の者達からすれば冷たい姉だと思われていただろう。それは事実でもあるのだから、お前から見た私達姉妹の外見的関係もあながち間違いではない」

 リュシールは先程のアルヴェルトの言葉が気になっていた。

「お姉様。アルヴェルトが以前、館を訪れたという話は本当なのですか? 私には彼の姿に見覚えがないのですが」

「それもそうよ。薬師が特定の貴族の元へ訪ねる時には、身分を偽り姿を隠すものよ? 複数の貴族や家と関係を持つ薬師だと、いざ争いが起こった際には命を狙われる危険があるの。貴女がアルヴェルトの顔を見ていなくても、アルヴェルトは貴女の顔を見ていたのよ」

 アルヴェルトは過去を懐かしむように思い出し、リュシールに向かって言う。

「私が始めて妹様をお見かけしたのは、確か、あの時でした。門からお館の玄関へ続く道を歩いていて、ふと左側のお庭に目を向けると、一人の女性がおられました。ご庭園の色とりどりの花々を愛でておいでで、そのお顔は悲しげでありながら麗しくもあり、腰を屈めて一本の花にお手を添える佇まいは、まさに一枚の絵画そのものでした。改めて申すまでもなく、そのお方こそがリュシール妹様なのですが、あの時私は妹様のお姿に目を奪われ、思わず歩く足を止めてしまったほどです。今日の妹様に至っては、僅か数年でここまでお美しゅうなられて、私はただただ感嘆の溜め息を漏らすばかりです」

 アルヴェルトの賛辞を受けて、リュシールは嬉しさと気恥ずかしさで頬を赤らめた。ベルティーナは短く笑って、アルヴェルトに言ってやる。

「お前も妙な言い回しを覚えたな、どこぞの伯爵か侯爵が言いそうな口説き文句だ。大方、薬を売るために訪れた先々で覚えてきたものであろう」

「その通りです。おまけに、言葉遣いも多少は良くなり、生まれついての訛りも抑えられてきました。おっと、ついお喋りをしてしまいました。さ、お嬢様、これを、今朝に申し上げた塗り薬です」

 アルヴェルトは塗り薬の入った小さな容器を取り出し、ベルティーナに渡した。

「貴重な薬草をすり込んであります。少々臭いはきついですが、効き目は保証します」

「お前には色々と世話になるな」

「いえ、お力になれたのなら幸いです。では、私にはまだ店番がありますので、失礼します」

 アルヴェルトは先程出てきた扉を開け、カウンターへ戻っていった。

 早速、ベルティーナは塗り薬を使うためリュシールに背中を向けるよう促す。オルシャンツァ家の現当主でありミリアリーノル領の公爵でもある姉の身分を重んじるため、リュシールは身の世話をさせる訳にはいかないと遠慮したが、姉は引き下がらなかった。

「貴女、そんなに体は柔らかくないでしょう? それに愛しい妹の前では、私は当主でも公爵でもなく、一人の姉でしかないの。もし貴女が今、姉は妹の世話をしてはいけないしきたりがあると言い出したのなら、私はこの場で当主の座も公爵の位も捨ててやるわ」

 姉の訴えで身に余るほどの幸福を感じながら、リュシールはそれに折れて背を向けた。ベルティーナは彼女の上着を捲らせ、露わになった腫れ跡に薬を塗っていく。リュシールが痛みで体を震わせるたびに、ベルティーナは彼女の様子を気遣った。

「そう言えば、リュシィも、私と同じように体調を崩して寝込んでいた時があったわね。その時は大戦の最中で最前衛の戦地に赴いていた私が、館の使者からその報せを受けた瞬間、心の底から心配したのよ。父上が名誉ある戦死を遂げ、母上もその後を追ったというのに、その上妹までもを病で失う事になれば、私は生きる意味を失うも同然だと思ったもの。それでその使者には、家人を総動員しても構わないからアルヴェルトの駐在する軍営を探し出して、彼に薬を処方してもらうようにと頼んだ。あの時期の領内は治安も不安定で民の出入りも激しく、疫病の兆候が見られたから、もしやそれが原因ではないかとも不安になった。仕方のない事とはいえ、貴女に館の留守を一切任せ、無理をさせて悪かったわ」

「お姉様がお謝りになる必要はありません。私に、家内を仕切る知恵と領内をまとめる人望がなかっただけの事なのですから。それにしても、あの時に私の病を癒してくれた薬は彼の作った物だったのですか、これで私は二度も彼に助けられた事になるのですね」

 リュシールは不思議な気持ちになった。もとは病に倒れた姉を助けようと求めていた薬の作り手が、実は数年前に自分自身の病を治してくれていたのだから。

 時間が経って、夕暮れになる。

 アルヴェルトはいつもより早めに店を閉め、ベルティーナとリュシールのいる部屋に戻ってきた。食卓の席について、彼女達と向き合う。

「今日もお客さんが三人しか来ませんでした。ですので、店前の掃除を兼ねて通行人の会話に耳を傾けていましたところ、色んな情報が手に入りました。と言っても、そのほとんどは憶測の域を出ないため、あくまで一つの可能性としてお捉え下さい。まず、リア殿の事なのですが……」

 リアの名を聞いて、ベルティーナは身構えた。アルヴェルトは続ける。

「リア殿につきましては、これに確か情報はなく、良くも悪くも彼女の最後を見届けた者はいないようなのです。生き延びてどこかに隠れているのか、はたまたあの時に命を落とし死体は処分されたか、そのように囁かれています」

 リアが生きているという確証を得られず、ベルティーナは気を落とした。姿勢を元のように正し、椅子に深くもたれかかる。二人に落胆の色を悟られまいと、ベルティーナは努めて無表情を装った。

「他は?」

「はい、街の出入りが厳しく制限され、門の監視には警戒体制が敷かれたそうです。実際に門の様子を見たという人によると、配置された兵の数が明らかに増えて検問を強化しており、街より出ていく物はどんな些細な物であっても中身を改められ、新たに入街する者に対してはお嬢様に与する者かどうかの質疑が行われているとか。まるで内戦が起こる前触れのような緊迫した空気に、街の民は不安を覚えているようです」

「それも当然であろうな。ドルチュード公の動向については、何かないのか?」

「あるにはあります。ですが、公爵ご自身が公表した情報ではないため、信憑性に欠けます」

「それでも良い、話せ」

「はい、分かりました。まず、お二方を探し出すため、ドルチュード公爵は捜索網を広げているようです。実際のところ、街内を巡回する兵の量も目立って増え、そのうち民家までも家探しするのではないかと、人々は危惧していました。そして、公爵は王都へ増援を要請するらしいとも噂されていました。これについては、昨日の夜、ドルチュード公爵軍下の騎士兵と思われる数人の人影が南門を出て行くのを見た、そう申す者がいました。なんにせよ、お二方の身に危険が迫っている事には間違いありません」

 ベルティーナはこれからどう動くべきかを考える。しかし、この状況下では何をするにしても無理があった。アルヴェルトに匿い続けてもらったとしても、いずれは捜索の手がここにまで及ぶだろう。この街から脱出しようにも、門の厳重な監視をそう簡単に潜り抜ける事は出来ない。仮に抜けられたとしても、今まで頼りになっていたリアの手助けもなく、国からの逃亡を続けながら自然に身を置いて生活しなければならなかった。

「アルヴェルト、お前に何か、この状況を打開する良い手立てはないか?」

 アルヴェルトは顎に手を当てて、しばし考え込む。

「私のような凡人には、このような大事を処理する方法は到底思いつきません。私自身は、お二方をお国からお匿いするつもりですけど、それもいつまで続くか分かりません。無礼な事を申し上げますが、隣国あるいは北の帝国に亡命されてはどうでしょう?」

「それは、出来ないわ」

 ベルティーナが首を横に振ったので、アルヴェルトはその理由を尋ねる。

「何故でしょうか、お二方はご容姿も麗しく、お家も他家に劣らずご立派であります。オルシャンツァ家の亡命とあれば、どこの国でも快くお受け入れになるでしょう、その後の地位も蔑ろにされる事はないでしょう。確かに、北の帝国とは“先の正戦”における敵対意識があるかもしれませんが、今現在では友好的な貿易国です。帝国がお嫌と仰るのであれば、“先の正戦”で連合なされた諸国でもよろしいのですよ?」

「私が亡命をしない理由は一つ、ヴァルロリア王国と陛下への忠誠だ。どんな状況であれ、一度仕えた君主に背くような真似は出来ない、この忠誠は我が生涯を以て貫き通すべきもの。もし、亡命をするしか助かる手立てがないとあっても、私はこの王国に留まり続け、一人でリュシィを守り切ってみせるわ」

 それに納得したアルヴェルトは頷く。

「なるほど、祖国を重んじ、お家を尊び、妹様をお思いになられる、なんとどこまでも気高いお方なのでしょうか。感銘を受けました、たかが薬師如きの私ですが、その私に出来る事があれば、何なりと仰って下さい」

「ありがとう、アルヴェルト。しかし、今の私にはその申し付ける言葉が一つも浮かばない、何でも良いから、お前も良い手立てがないか考えて頂戴」

ベルティーナとアルヴェルトが頭を悩ませていると、そこへリュシールが一言口を挟む。

「私に考えが、いいえ、賭けがあります」

「どんな賭けかしら」

 ベルティーナはリュシールに説明を促した。リュシールは自分の思いついた賭けの内容を話し始める。全てを話し終えると、それに耳を傾けていたベルティーナが意見をあげる。

「リュシィ、貴女がそんな、自らの運命と生死を天に任せるような、下衆の賭博めいた真似事をする必要はないわ。それなら一層の事、私があの憎きドルチュード公の暗殺を試みる方が、まだ勝機があるのではなくて?」

「お嬢様の仰る通りです、妹様」

 ベルティーナの意見に、アルヴェルトも同意した。だが、リュシールは二人の意見を良しとはせず、首を振って否定する。

「いいえ、お姉様、それでは駄目なのです。例え、私達がドルチュード公爵を殺め、真実である正義を強引に勝ち得たとしても、少なからず民からの不信感を買う事になるでしょう。お姉様は領地の民のみならず、王国内の人民からも信頼を得ています、きっと、多くの民は私達の無実を信じてくれているはずです。ですから、ここは尽くして誠実に、何より情を以て、私達の無実を証明して然るべきなのです」

 リュシールは普段の頼りない面持ちではなく、確固たる考えを持った表情であった。

 リュシールの饒舌に、ベルティーナは唖然としていた。提案された賭けに、これほどの考えが至っているとは思っていなかったからである。彼女は気を取り直すと、リュシールに言葉を返す。

「貴女の言う事にも一理あるわ。だが、貴女の考えはあくまでも人道の理想像、そこに現実との差異がある事実を忘れてはいけない。貴女が行おうとしている賭けには、貴女が想像する以上の危険性、つまり、現実から非情な裏切りを受ける可能性が含んでいるのよ。もし、その賭けが失敗に終わってしまったのなら、ここまでの逃亡は全て無駄になるわ。それだけの覚悟があると言うの?」

「はい。お姉様は私をお想いになって、リアと共に私を守って下さいました。今度は、私がお姉様のためにお国へ働きかけて参ります」

 リュシールの意志が固い事を知り、ベルティーナは控えめに溜め息を吐く。

「分かったわ、貴女がそれほどに覚悟を決めているのなら、私もそれに賭けてみましょう。まずは、この街から抜け出さないといけないわね。アルヴェルト、早速になるけれど、お前はその手伝いをして頂戴」

「かしこまりました」

 ベルティーナ達は、リュシールの賭けを実行するために必要な段取りを練り始める。アルヴェルトが街からの脱出方法を考えた結果、一人だけであれば街の外へ出せる可能性も高いと見て、ベルティーナはここに留まる事となった。リュシールのみが街を抜け出し、昼夜を問わず馬を走らせて王都を目指す。姉にかかった国税横領の嫌疑が改められるかどうかは、リュシールの行動に託された。

 夜になると、ベルティーナ達は明日のために備えて眠りについた。

 今夜は何の変哲もない夜である。夜空には星が瞬き、月には薄っすらと灰色の雲がかかっていた。



  イルミッツェ王都 城内の王の間にて


 ルファネは玉座に座り、彼に向かって跪いている一人の民を眺めていた。ルファネの傍にはブルジェともう一人の老大臣が控えている。王の間にいる数人の騎士はルファネの身辺に注意を払い、一人の民に気を向けていた。

 その民は数十枚の紙を両手で持ち、下げた自分の頭よりも高い位置に上げている。

「陛下。これは、私を含むミリアリーノル領民による五百十三名の署名でございます。どうか、ミリアリーノル公爵の罪を今一度ご改になられますよう、謹んでお願い申し上げます」

 ブルジェがその数枚の紙を受け取り、ルファネに手渡した。ルファネは一枚一枚の紙面に連なる人名にざっと目を通す。

「お前達ミリアリーノルの民の意思は分かった、私自らが十分に熟考して、後日に答えを出す事にする。用が済んだのであれば、下がるが良い」

「ありがとうございます」

 その民は「失礼致します」と言って深く礼をし、王の間から退場した。

 ルファネは鈍い溜め息を吐きながら背もたれに寄りかかる。ブルジェをちらりと見やり、もう一度手元の紙面を見るともなく見た。

「これで何度目になったか、ブルジェ?」

「は、陛下。ミリアリーノルの民からだけで総計致しますと、六度目になると思われます。また、これと似たような嘆願が王都の民からも上がっております」

「ふむ、これは如何に、これほどまでに民の声が上がるとはな。やはり、ミリアリーノル公の罪は冤罪であるのか?」

 ルファネの言葉に、ブルジェはすかさずに意見を浴びせる。

「陛下、何故そのようにお思いになるのでしょうか? すでに、陛下は御決意なされていたのでは?」

「それもそうだが、こうして公の信頼の具合を大勢の民から示されたとあっては、我も考えを改めようとせざるを得ない。我が思うに、臣下に対する民の信頼は、そのまま君主に対する臣下の忠誠心となっているのだ。果たして、これほどまでに我が王国の人民から支持を得ている公が、愚昧且つ矮小な横領などをするのであろうか? もし、かの公のような人間が罪を犯すとすれば、それは国の王があまりにも愚かで、国の存続が危ぶまれた時に犯す、正しき謀反の罪ぐらいであろう」

 ブルジェは多少の苛立ちを覚えた。ルファネの若さゆえの優柔にもどかしさを感じ、自分の立場に迫る危険をなんとか回避しなければと考えていた。

「陛下、お言葉ですが、民の信頼と臣下の忠誠心は同等ではございません。例え、臣下が民から信頼されていたとしても、君主に対する忠誠心を持っているとは限りません。むしろ、君主に対する反骨の意を抱いている可能性もございます、己が才能に自惚れるあまり、己が納まるだけの器の大きさを君主に見出せず、その独断による行動を取る者もあるはずでしょう。そして、まさに、その行動を取ったと申す真実がすでに姿を現しているのでございます。どうか、目の前の真実からお目を背けになりませぬように、僭越ながらこの私が申し上げ致します」

 ブルジェはルファネに向かって深々と頭を下げる。ブルジェの必死な様子に、ルファネは少し疑問を感じた。

「おぬし、やけに公の罪云々に執着しておるようだが」

「と、とんでもございません」

 ブルジェは焦る心持ちで、ルファネの言葉を途中で遮った。それに対して、ルファネが不快な気持ちを露わにする。ブルジェは礼を失してしまった事にはたと気づき、急いでお詫びを入れる。

「申し訳ございません、陛下。しかし、私はこれといって公に執着しているのではございません。ただ、公が罪を有している事は明白でありますから、それには当然の如く罰を与えるべきだと申し上げているのでございます」

 ブルジェは高鳴る心臓の鼓動を懸命に抑えながら、慎重に言葉を選んだ。自分の声が震えていないか、慌てている様子が露骨ではないか、そんな事を気にしていた。

「そうか」

 依然として、ルファネはブルジェの様子を不審に思っていた。ベルティーナの話題になると、途端に口数が増えるブルジェの姿を思い返して、こう思う。こやつは公に何か思い入れでもあるのだろうか、と。

 そこへ、一人の騎士兵が王の間に走り入り、ルファネの前で跪く。

「失礼致します、陛下」

 その兵に対して、もう一人の老大臣が厳しい目つきを向ける。

「不躾な奴だ、一体何事だ?」

「は、たった先程、王城の門前にミリアリーノル公爵の妹君リュシール様がお見えになりました。その場で取り押さえましたが、如何致しましょう?」

「何、それは誠か?」

「はい、お顔はしっかりと確認致しました、またご本人も自分はリュシールであると名乗られましたので、間違いないかと」

 老大臣はルファネを見やった。ルファネはしばし考えて、こう命令を下す。

「では、我の目の前に連れて来い、我がこの目で確かめたい」

「御意」

 騎士兵は足早に王の間から出ていった。それから少しして、二人の騎士兵に両腕を押さえられた状態で、リュシールはルファネの前に姿を現した。ルファネは信じられないという表情で彼女を見つめる。

「驚いた、よもや自らの足でここへ戻ってくるとは。しかし、おぬしの姉上である公が見当たらぬが、おぬしは一人か?」

「はい、そうでございます、陛下」

 リュシールはルファネの顔をちらりと見て、それから頭を下げた。

「良い、面を上げよ」

 聞いて、リュシールは頭を上げてルファネに目を向けた。彼は低く唸りながら、自分の顎を指先で撫でる。

「では、聞こう。何故、おぬしはたった一人でここに戻ってきたのだ?」

「はい、私は陛下に、お願いを申し上げに参りました。それは、恐らく陛下も何度かお耳にしておられるであろう嘆願でごさいます」

 ルファネはリュシールの胸中を察し、顔を歪めた。

「ほう、それは、公の罪をもう一度改めるようにとの嘆願か?」

「左様でございます」

「それだけのために、一人でここへ戻ってきたと言うのか?」

「左様でございます」

 ルファネは落ち着き払った笑い声を出し、ひじ掛けに頬杖をついた。

「冗談を申すのではない、それは愚行であるぞ? 自分を殺そうとしている人間に自らのこのこと近づき、わざわざその命をかけてまで命乞いをしに行くようなものだ。かの聡明な公の妹であるおぬしが、そのような愚かしい事をするとは到底思えない。おぬしのその腹の中では、何か他の企みが蠢いているのであろう?」

 リュシールは表情を一切変える事なく答える。

「いいえ、陛下、私にそのような腹積りは少しもございません。最初に申し上げました通り、私はただ、私の姉上であるミリアリーノル公爵の罪をご改め頂きますようにと、そうお願い申し上げに参ったのです」

「解せぬ、それに何の意味があると言うのだ? おぬしはこうして捕まり、その嘆願を私が聞き入れるのかも分からんのだぞ?」

「いいえ、陛下。きっと、陛下は私の嘆願をお聞き入れになられるでしょう」

 リュシールはそう断言した。彼女の瞳はしかとルファネを認め、彼の脇にいる老大臣や騎士兵などを見てはいない。その瞳を、ルファネはきつく見返す。

「これは本当に、かの聡明な公の妹か? 拙いながらも言葉遣いは立派だが、余程に生意気だと見える。して、何故、おぬしはそう言えるのだ?」

「はい、陛下。陛下は、今は亡き前陛下のご叡智をお引き継がれになられております。そして、王国を愛し、人民を思い、情を知り、天命にご忠実であられます。そのように全知全能たる陛下が、我が姉上である公爵に着せられた濡れ衣に、まさかお気付きになられぬ事はないであろう。そう、存じているからでございます」

 ルファネはリュシールを無言で見下していた。ブルジェは彼女の態度に腹を立てて怒鳴りつける。

「いくら公の妹君であっても、陛下に対する侮辱は極刑に相当しますぞ? 公の妹君よ、その命が惜しければ、今すぐにでも陛下へ謝罪の言葉を申し上げるが良かろう」

 リュシールはそれに臆する事もなく、平然とした態度で言い返す。

「何故、私が陛下にお謝りにならなければいけないのでしょうか? 私は陛下を信じているのです、陛下を信じる事が、果たして侮辱なのでしょうか? もし、それが侮辱の罪に当たるのであれば、王国内全ての人民が侮辱罪で裁かれてしまいます」

「何、貴様……!」

 ブルジェはどうしても言葉を返す事が出来ず、一切閉口してしまった。リュシールはルファネの権威を立てる事で自分の正当性を主張したのだ。それに反論する事は、間接的にルファネの権威を貶める結果になってしまうため、何も言えないブルジェは悔しさで肩を震わせていた。

「もう良い」

 それを見かねて、ルファネが口を開いた。

「とにかく、これ以上は、この話に時間を割く事は出来ぬ。おい、牢獄へ入れておけ。……そうであった、折角だ、あれと同じ牢に入れてやれ」

 リュシールは騎士兵二人に両脇を押さえられたまま、王の間から連れて出された。その間の彼女は、決して無駄な喚きもせず、静かに黙したままそれに従っていた。

 ルファネはゆっくりと息を吐きながら、自分の額を片手で押さえる。ベルティーナの罪にリュシールと民の嘆願、それらにどう対処すべきか、彼の内には再び迷いが生じていた。どれが偽りで、どれが真実なのか。その判断を誤れば、一瞬の内にして人心は彼の下を離れ、一夜にして国の存亡が決してしまう。彼は王座に就いて以来、国を持つ王としての苦悩を初めて味わっていた。

 王の間に、ルファネの重苦しい溜め息が響き渡る。

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