第6章 国境街(一)
イルミッツェ王都より北の地 国境街にて
広大な平原の上に一際物々しい存在感を醸す国境街。北の帝国との境を監視する一方で、国同士の交易を行うために、この街は大規模ながらも分厚く高い防壁に囲まれている。主にヴァルロリア国内からの入街者を受け入れる南の門の前には現在、常時よりも厳重に敷かれた検問によって、旅人から商人までの幅広い大勢の人達が列を成していた。その入街の順番待ちをしているある人は列の中々進まない事に不平や不満を零し、またある人はミリアリーノル公爵の国税横領の件について様々な憶測を口にしている。
街の検問とその列を前にして、リュシールはどのように街へ入り込もうかと悩んでいた。
抜け道を探そうにも堅牢に造り込まれた防壁には小さな穴すらなく、その防壁上の通路には見張りの騎士兵が数多く配置されている。もし、街の出入り口である門の前以外の場所で不審な動きを見せれば、己が指名手配されている事情など関係なく、怪しい人物としてすぐに捕まってしまうだろう。
街に入る方法を探っていたリュシールの視線は自然と、門前で行われている検問へと向けられる。やはりあそこを通過する以外に道はない、と。
胸の内に湧き上がる不安と恐怖は大きかったが、こうしている間にも愛する姉が苦しんでいるのだと思い、リュシールは己を奮い立たせる。乗ってきた馬を手で引きながら歩き、緩慢ながらも着実に進んでいる検問の列に加わった。
最後尾付近の位置にいた時には漠然とした落ち着きのなさを自覚していたものの、自分の番が近づくにつれて、彼女は心臓の鼓動が速まるのを確かに感じ、そこに生じる一種の高揚感によってかえって体を強張らせ、あと二、三人を前に残すばかりの位置にまで来てしまうと、不必要なほど肩に力が入って意識の遠くなるような感覚に陥っていた。
「おい、そこ! 早く前に出ろ!」
検問兵の声ではっと我に返ったリュシールはいつの間にか自分の番が来ていた事に気づき、目の合った一人の兵の前へ進み出た。その検問兵はリュシールに羽織っているマントの内側を見せるよう指示する。
「名は? どこから来た? この街での目的は?」
矢継ぎ早に質問されたリュシールは戸惑いつつも正体を隠す事を忘れず、咄嗟の思いつきを答える。
「えっと、私はシーナと言います。ここから遠い南の小さな村から来ました。この街に来たのは、その、幼い頃に生き別れとなった妹が、この街にいると聞いたので」
その返答を耳に入れながら、検問兵はリュシールの頭から爪先までをじっくり観察していた。
彼が気に留めたのはまず、彼女の腰に帯びた剣であった。上質な剣を扱う割には華奢な体にしなやかな腕をしているなと思ったのだ。それにあどけなくも目鼻の整った顔には隠し切れない品性を窺わせるのに、その身につけている衣服やマントはぼろく、美しい顔に似合わないほど平凡的だった。このご時世、戦争や貧困によって親兄弟と生き別れる事も珍しくなく、彼女もそうした身の上で頼る宛もなく、一人でここまでやってきたのだろうか、と彼は考える。
「妹さん、見つかると良いな。ほら、通れ」
検問兵の口から発せられた言葉に、リュシールは「えっ?」と呆気に取られた。しかし、すぐさま気を取り直して、「ありがとうございます」と言いながら足を進めたのだった。
そう、検問兵はリュシールをミリアリーノル公爵の妹だと見抜いていなかったのだ。オルシャンツァ家当主でありミリアリーノル公爵でもあるベルティーナの顔を知る者はいても、ほとんど館の外に出た事のないリュシールの顔は、オルシャンツァ家との交流のある上流階級を除いて、国内にさほど広く知られているわけではなかった。そのため、検問兵である彼は、ベルティーナと行動を共にしている残り二人がその妹と従者だとしか認識していない。
検問の行われている門を通り過ぎたリュシールはマントの襟で口元を隠しながら、初めて入った国境街の様子を見て、感嘆の息を漏らした。
北の帝国とヴァルロリア王国の国境で交易を行う街であるために、往来は街の住民と外からの来訪者で溢れており、ミリアリーノルの町とは比べ物にならないほどの騒がしい活気で満ちていた。商業によって発展した街中には大きな建物も多く、道の端々に売り物を広げた露店も見られる。こうして明るいうちから交易品が頻繁に売り買いされるため、人の流れのみならず金銭や物のやり取りも盛んだ。
リュシールはあちこちに目移りしつつも、おずおずと大通りを歩き始める。ミリアリーノル公爵邸で生まれ育ち、館の外どころか世間にも疎い彼女にとって、立ち並ぶ建物と激しい人通りの組み合わせにはただただ圧倒されるばかりであった。
人を避けながら歩く中、リュシールはこの街に来た本当の目的を思い出す。病に苦しむ姉のために薬を手に入れなければならない。彼女は立ち止まって、薬を扱っているような店がないかと辺りを見回した。
しかし、辺りには見慣れない建物がこれでもかと林立している有様である。
リュシールにはどの建物が薬屋なのかが分からない。それどころか、どれが店でどれか住宅なのかも判別出来なかった。どうしたら良いか分からず、辺りを何度も見回していた。そうしていた時、リュシールに一人の男性がぶつかった。彼女は驚いてその男性の方へ振り向く。
「何ぼけっと突っ立ってんだ、この田舎者!」
いきなり罵声を浴びせられて、リュシールはたじろく。よく見ると、その男性は濃い顔に大きな体格をしていたので、彼女は尚の事怖くなった。
「ご、ごめんなさい」
「ったく、これだから田舎の女は困るぜ。何かとはしゃいでは、立場が悪ければ泣きときたもんだ! はあ、折角のいい気分が台無しじゃねえか、くそっ!」
その男性はリュシールを一度じろりと睨んで、舌打ちをしてから去っていった。
リュシールはひとまず安心したものの、周囲の人の視線が気になって、通りの脇にそそくさと避けていった。目の前で右へ左へ行き交う人々の流れを見ながら、リュシールは当惑する。薬屋を探そうにもこの街は広い。かといって、このまま何もせず立っていても仕様がない。
薬屋の場所を人に尋ねようとは思っていた。だが、リュシールの足はその場から中々動こうとはしない。先程の出来事のせいで、他人に対する恐れを覚え始めていたからであった。話しかけても相手にされないかもしれない、そういった思いまでもが彼女の足を竦ませる。
駄目だと諦めかけて、リュシールはベルティーナの事を思い浮かべる。病で苦しむ姉の姿を思い、足を踏み出す勇気がほんの少し湧いた。拳を握り締め、近くを通りかかる人に話しかけようと口を開く。
「あ、あの……」
リュシールの声は小さく、その通行人には届かなかった。そのままリュシールの前を取り過ぎていく。彼女は同じような事を三度四度繰り返した。再び心が折れそうになったところに、優しそうな女性の姿を一人認め、その人へ話しかける。
「あ、あの、すみません」
リュシールの小さな声を、その女性は聞き逃さなかった。リュシールの前でぴたりと立ち止まった。
「あら、何ですか?」
リュシールはやっと人に止まってもらえた事に安堵する。まだ僅かに残る不安で両肩を縮めながら、リュシールは話を続ける。
「えっと、お薬を売っているお店を知りませんか?」
聞いて、その女性はしばし考え込む。片腕に籠を提げていて、それとは逆の手の指を顎に添える。彼女は買い物に向かっていたところであり、籠の中にはまだ何も入っていない。
「そうね~、薬なんて滅多に買えないから、店もよく知らないわね。……あっ、でも、確かこの辺りだと、一つ思い当る店があるわ」
「本当ですか? その、申し訳ないのですが、そこまで私を案内してはくれませんか?」
リュシールがそう頼むと、女性は首を傾げながらも承諾する。
「別にいいわよ。見たところ、貴女、外から来た人でしょうし、きっとここも初めてなのでしょう?」
「あ、ありがとうございます」
リュシールはお礼を言う。その女性がにこりと笑って歩き出したので、リュシールはその隣をついていった。女性は通行人の流れの中を慣れた足取りで通っていく。それに遅れないよう、リュシールは女性の隣をしっかりと歩く。
女性は表情を柔らかくしてリュシールに声を掛ける。
「貴女、どこから来たの?」
「え、その、遠くの村からです」
本当の事を言えず、リュシールは慌てながら嘘を吐いた。女性は彼女の答えを一切疑う事なく、「そうなの」と声を漏らした。
「だったら、この街を見た時は驚いたでしょう? 私もずっと前に、辺境の村からこの街へ移り住んできたんだけど、人があまりにも多くて落ち着かなかったわ」
「そうですか」
「ええ、最初は慣れるのに苦労したもの。でも、貴女、村から来たと言う割には全然訛ってないわね、まるで貴族みたいな言葉遣いだわ」
リュシールは焦った。自分の身分がばれてはいけないと言い訳を考える。
「そ、そうですか? 私は自分の言葉遣いなど気にした事がないのですが、そんなに訛りがありませんか、それは多分、周りがそういった環境だったせいだと思います」
急に喋りが速くなったリュシールを、女性は怪訝に思った。様々な考えを巡らせているとふとその原因に思い当たって、女性は言う。
「もしかして、貴女」
「い、いえ、違います、その、私は……」
自分の正体がばれそうだと考え、リュシールはこの場から逃げ出そうかと思った。ほんの一瞬だけ迷って、リュシールが走り出そうとすると、女性はリュシールの腕を掴んでそれを引き止めた。
「ちょっと、待って、私はまだ何も言ってないわよ」
腕を掴まれたリュシールはもう駄目だと覚悟する。
「お願いします、どうか、私の事をお国へお告げになるのを少し待っては頂けませんか? せめて、私がお薬を買い、それをお姉様に届けるまでの間だけでも……」
女性は顔をしかめる。
「ごめんなさい、貴女の言っている事はよく分からないけど、さっきの言葉が貴女を傷つけたのなら謝るわ」
「え?」
「さっき、私が『貴族みたいな言葉遣い』って言ったじゃない。あれは別に、貴女を馬鹿にしたんじゃないのよ? ただ、あまりにも訛りのない綺麗な言葉遣いだったから、ついそう言ってしまったの」
リュシールは何拍かおいて、女性の言っている事の意味を理解した。自分の勘違いに気づき、つい口走らせてしまった先程の言葉を思い返す。リュシールが女性の目を恐々と見ると、女性彼女は小首を傾げる。
「それにしても、どうしたの、貴女? お国がどうとか、お姉様がどうとか……、何の話をしているのかさっぱりだわ」
リュシールは女性の様子を見て、自分の身の上が露見していないものだと踏んだ。なるべく平静を装い、リュシールは首を横に振る。
「いいえ、なんでもないのです」
女性はリュシールの答えに納得がいかず、思った事を口にする。
「そうなの? でも、さっきの口振りからすると、薬を買う理由は貴女の姉にあるのね?」
「えっと、お薬を買う理由はそうなのですが。その、私の姉というよりも、まるで自分の姉であるかのように尊敬し愛している人、その人を私がお姉様とお呼びしているのです」
「そう、その人は、貴女にとってとても大事な人なのね」
女性とリュシールはまた歩き、そして一つの店の前で止まった。そこの看板には、小瓶から一筋の煙が立っている絵が描かれていた。世間的な薬の印象を絵にしたものだろうか、とリュシールは思った。
「ここが薬を売っている店だと思うわ」
「ありがとうございます」
リュシールがお礼を言って店に入ろうとすると、女性はそれを引き留める。
「あっ、そうそう。貴女、折角綺麗な顔をしているのだから、後でその服を着替えた方がいいわ、もったいないもの。それじゃ」
女性は笑顔で上品に手を振り、目の前の通行人の波に消えていった。
リュシールは疑問に思う事があった。何故、隠していたはずの私の顔をあの女性は綺麗だと言ったのだろうか、と。自分の顔周りを触ってみる。すると、いつの間にか鼻から下を覆っていたマントが外れている事に気がついた。少し前に、気の荒い男性とぶつかった事が原因だった。
リュシールは急いでマントで口周りを隠す。自分の正体が通行人の誰かに気づかれていないか不安になりつつも、過ぎてしまった事はどうしようもないと思い、近くの柵に馬の手綱を留めて店の中へと入った。
店内は薄暗くこじんまりとしており、奇妙な臭いと生温かさが漂っていた。商品棚には薬そのものではなく、薬を作るための材料が種類別に詰まった瓶が置いてある。奥のカウンターにはこの店の店主がおり、来客に気づいて出入り口の方へ目を向けていた。
「どうも、何か御用で?」
薬屋の店主はカウンターから出ず、椅子に座ったままで挨拶をした。読書をしている最中だったため、手に一冊の厚い本を持っていた。リュシールは彼の所まで行って、用件を話し始める。
「あの、お薬を買いたいのですが」
「ん? 薬を買いたい?」
薬屋の店主はリュシールの顔を見て、ゆったりと立ち上がる。
「こんなご時世に、貴族や金持ち以外で薬を買おうとする人がいるとはね、しかも、あんたは女かい? なんで顔を隠しているんだい?」
「え、それは……」
リュシールが口籠ると、薬屋の店主はほのかに笑った。
「いや、すまない、お客様にそんな事を聞くのは野暮だな。それで、どういった薬が欲しいんだい?」
「どういった? 薬には種類があるのですか?」
「そりゃそうだ、人の怪我の状態あるいは病気の症状によって、そこに施す薬は変わってくる。どうやら、あんたは薬を買うのが初めてらしいな。それなら、質問を変えよう。薬を必要としている人は病気か怪我か、そしてどういった状態にあるんだ?」
聞かれて、リュシールはベルティーナの様子を思い出してみる。
「えっと、恐らく病気で、高い熱が出て、汗が止まらず、息苦しそうにしています」
「その原因に心当たりは?」
「確か、ある人が言うには、度重なる不幸と日々の仕事を詰め過ぎた疲労ではないか、との事でした」
「そうかい、ちょっと待っててくれ」
薬屋の店主はカウンター内にある扉の奥に入っていた。リュシールは言われた通りにじっと待つ。が、いくら待っても薬屋の店主は戻ってこず、本当に彼が戻ってくるのか心配になり始める。それでも待ち続けてようやく、カウンターの扉が開いて、薬屋の店主が出てきた。
「お待たせしました、と」
薬屋の店主はカウンターの上に拳ほどの大きさをした小袋を置いた。
「この中の薬を飲ませれば大丈夫だろう。では、お代の方を」
リュシールは持ってきた硬貨の入った袋の中を見た。そこではたと、借りた馬の事を思い出した。
「あの、お薬の方はいくらほど必要なのですか?」
「そうだな、この手の薬だと、金貨三十枚ってところかな」
リュシールは値段を確認して、再度手元の袋の中を見た。中には、金貨十枚と銀貨十五枚しか入っていなかった。銀貨を当てても金貨七枚ほどにしかならず、全部で金貨十七枚。そこから馬代をいくらか残さなければならない。これでは足りなかった。
「あの、手元の銀貨を合わせて金貨十五枚ほどの持ち合わせしかないのですが」
「あ~、それじゃ薬は売れないな」
「待って下さい、なんとか金貨十五枚でお薬を譲ってはくれませんか? 私の大事な人が苦しんでいるのです、どうしても助けてあげたいのです」
リュシールは必死で願いを乞うた。薬屋の店主は手の平を天井に向けて、肩を竦める。
「そんな事を言われてもな。俺だって病気の人は助けてあげたいさ。でも、これも商売でね、あんたの大事な人がこの薬にかかっているのなら、この薬には俺の生活がかかっているんだ」
「お願いします、どうか、ご慈悲を」
「悪いね、お嬢ちゃん」
リュシールはその場で項垂れた。これからどうやって薬を手に入れればいいのか。全く見当もつかず、そのまま途方に暮れてしまう。苦しむ姉の姿を思えば、胸がきつく締め上げられる気持ちになった。
眼前で顔を伏せたリュシールを見て、薬屋の店主は一つ溜め息をついた。
「お嬢ちゃん、薬は上げられないが、せめてものお手伝いをしよう。そこの表通りを左に真っ直ぐ進んで、二つ目の四つ辻を右に曲がって、少し進んだ辺りにもう一つ薬屋がある、そこを訪ねてみな。もしかしたら、俺の所より安く売ってくれるかもしれない」
リュシールは顔を上げる。
「本当ですか?」
「涙を見せるお嬢ちゃんに嘘は吐かない、そんな事は外道がやる所業だ。ただし、ここより絶対安いって保証はできないがな」
「教えて下さり、ありがとうございます」
リュシールは出入口の扉に向かって歩き出す。
「お嬢ちゃん、ちょっと、いいかい?」
薬屋の店主がリュシールを呼び止め、彼女は後ろを振り返った。
「なんでしょう?」
「失礼な事を聞くが、あんた、姉妹がいたりしないか?」
驚いて、リュシールは微妙に目を見開いた。動揺を顔色に出さぬように冷静さを演じる。
「いいえ、私に姉妹はありません。ただ、大事な人が一人、それだけです」
「そうかい、悪い事を聞いたな」
リュシールは扉を開ける。
薬屋の店主は彼女が外へ出た後も、出入口の扉をずっと眺めていた。リュシールの目と髪、それと声を思い返して、自分の過去の記憶を辿るように漁っていた。「あのお嬢ちゃん、どこかで見た事があるような」そう独り言を呟いて、薬屋の店主はある公爵を連想した。「まさかな」彼は椅子に座り、のんびりと読書を再開した。
外へ出たリュシールは、薬屋の店主に教えられた場所を目指す。行き交う通行人を大きく避けながら、なるべく通りの端へ寄って歩いていた。リュシールは思う。お姉様は無事でいるだろうか、自分の事を心配しているだろうか、と。
しばらく歩いていると、一つ目の四つ辻が見えた。リュシールは薬屋の店主の言葉を頭の中で再確認し、そこを真っ直ぐに通り過ぎる。
前場に同じ 同時刻にて
アデラールは数人の騎士兵を引き連れ、大通りを歩いていた。数日前にこの街へ到着し、すでに拠点を構え、多くの捜索隊を招集し終えていたのだ。今から街の外へ出て、国境周辺の捜索を行うところであった。アデラールらは門へ向かおうと、少し先に見える四つ辻を右へ曲がるつもりでいた。すると、アデラールはあっと声を上げる。
「おい、あれは憎きミリアリーノ公の妹、リュシールではないか?」
アデラールは先の方へ指を差す。数人の騎士兵は指し示された方を見やる。
「どれでございましょう。私の目は研ぎ澄まされていない故、皆同じ通行人にしか見えません」
「貴様らの目は節穴か、あれだ、あの薄汚い布切れを纏っておる女だ。私はあやつらの憎き顔を見間違えはせん、口元を深く隠しておるのが何よりの証拠だ。何をしている、早く引っ捕らえて来い! 待て、一人は馬を持て、今すぐにだ!」
「は!」
騎士兵一人は元来た道を引き返し、残りの騎士兵達は先へ走り出し、通行人を押し退けながら前へ進んでいった。
前場に同じ 同時刻にて
リュシールは歩いていると、背後が騒がしくなっている事に気づいた。振り向くと、通行人が通りの両脇に避け、その間から数人の騎士兵がこちらに走ってくるのが見える。リュシールは自分が狙われているのだと咄嗟に判断した。地を強く蹴り、走り出す。
騎士兵達は急いでリュシールの後を追う。
「あの女、逃げ出したぞ! ドルチュード公爵が仰った通りだ、ミリアリーノル公の妹だ、捕まえろ!」
リュシールは息を切らせながら走る。
「すみません、通して下さい!」
リュシールは通行人にぶつかりつつも、前へ前へと走る。左右からは通行人の野次を、背後からは騎士兵達の「待ってい!」との声を聞きながら、逃げ延びる一心で走り続ける。表通りには、リュシールの小さな足音と、騎士兵達の大きな足音がある。通行人の多くは足を止め、道の端へ寄り、目前を走り過ぎていく彼女達を目で追った。
リュシールの走る先に、応援に来た騎士兵達がいた。リュシールはそれを見て、一本道のこの通りから外れ、路地裏へと逃げ込んだ。二つの騎士兵達は合流し、彼女の後を追って路地裏へと入り込む。
大勢の走る足音が路地裏に反響する。
リュシールはただ闇雲に走り回り、建物と建物の間を抜けていく。
リュシールが走り疲れて立ち止まった時には、もう騎士兵達の足音はなかった。荒れた呼吸と心臓の音だけが自分の耳に入ってくる。地べたに座り込んで、背後を振り返った。そこに騎士兵の姿はなく、リュシールは振り切れたものだと安心する。
上空を見上げると、日が落ちかけていた。もうすぐ夜が訪れる。
リュシールはこれからどうするかを悩んだ末、ここで夜を明かす事に決めた。騎士兵に見つかった今、夜は見回りが強化され危険だからである。リュシールは傍の建物に背中を預け、両膝を抱え込んだ。
日が完全に落ちると、街中は冷え込んでくる。路地裏は一層寒さを増し、リュシールの体が触れている地と壁はひんやりと冷たい。表通りにある松明の光はここまで届くはずもなく、夜の闇に近い薄暗さが路地裏を支配していた。
街が全くの夜に覆われ、街中の建物から光が漏れ出してくる。リュシールの背中を預かる壁、そこにある一つの窓からも明かりが漏れていた。明かりと同じく、その建物から漏れ出た住民の声がリュシールの耳に届いてくる。
「姉ちゃん、僕も何か手伝おうか?」
「あんたはじっとしてていいの。それより、あんたは早く寝なさい」
「別に起きてていいじゃん。姉ちゃんが大変そうだから、折角僕が手伝うって言ってるのに」
「あんたはまだ子供なんだから、そんな事気にしなくていいの」
「子供って、僕はもう十二だよ? 後二三もすれば、立派な大人なのに」
「私にしてみれば、あんたはいつまで経っても子供なのよ」
リュシールはその会話を全て聞き取れなかった。だが、その二人が姉弟の間柄である事は聞き取れていた内容の一部から理解出来た。
リュシールは思う。私も、出来る事なら庶民の姉妹として、お姉様と生まれたかった。身分も関係なく、執務なんてものは一切なく、戦争に駆り出されて命を捧げる必要もない。ただ平和で、お姉様と他愛のない会話をして、静かに笑っていられるのならばそれでいい、と。
そう叶わぬ願いを思い浮かべる一方で、リュシールはこうも疑問に思う。でも、お姉様は私を愛してくれているのだろうか。必要最低限の会話しかしてくれず、外にも出してくれず、けれど私には何かと厳しい事もある。そもそも、私はオルシャンツァ家の恥なのだ。歴々と連なる血筋で唯一、私は何の才能にも恵まれなかった。そんな私を、お姉様は本当に愛してくれているのか、と。
リュシールはアデラールのあの言葉を思い出し、怖くなる。夜の闇と寒さがそれを更に増長させる。リュシールは実体のない不安から身を守るように体を固く縮めた。同じような野宿はこれまでに経験してきたはずなのに、今夜はいつもより寒く感じられる。
ふと彼女の頭に浮かんだのは館での生活。食堂には、独り寂しく食事をする人影があった。
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