第3章 逃亡生活の始まり
イルミッツェ王都より北東の地 森の奥にて
木々の枝を覆う青々とした葉の隙間から、夜明け後の淡い太陽の光が漏れる。近くからあるいは遠くから動物の鳴く声が聞こえる。湖の水面には波紋一つなく、地上の景色を綺麗に映し出していた。
ベルティーナとリュシールは大木の幹に背を預け、休息を取っていた。乗ってきた馬には湖の水を与え、その疲れた脚を休ませている。
ベルティーナの心境は穏やかではなかった。何故、自分がこんな目に遭わなければならないのかという不幸さよりも、この身に屈辱を味わわせたアデラールが憎くて仕方がなかった。今すぐにでも王都からアデラールを引きずり出してその首を叩き斬ってやりたい、という感情が湧き上がるも、一つ冷静になって、まずはこれからどのような行動を取り、リュシールを守っていくかを考える必要がある。
ミリアリーノルの町にある公爵邸の家人や騎士団を頼ろうにも、それらは国に押さえられているために手がつけられない状態であろう。身内であるオルシャンツァの分家も、今が好機と本家に成り代わるつもりでいる派閥と、本家の無罪を主張し告発側であるドル・ア・ワード家に抗議する派閥に二分し、対立するに違いない。現状では頼れる当てがないベルティーナにとって、今は追手をやり過ごしながら時機を窺う他なかった。
厳しい表情で頭を悩ませる彼女の横顔を、リュシールはじっと黙って見つめる。リュシールにとって、姉のそうした表情は見慣れているようなものだった。
ベルティーナはいつも執務で忙しく、大抵は眉間に皺を寄せた顔か、口端をきつく締めた顔をしている。リュシールのために笑顔を作る事はあっても、ありふれた感情の起伏から自然に笑う事はほとんどない。
リュシールの目には凛々しくも物憂げな姉として映っていた。そんな姉に自分が何かしてあげられる事はないものか。そう考えてはみるものの、結局のところ秀でた才や徳もない自分には何も出来ないのだと塞ぎ込み、姉の傍でひたすら大人しくしているしかなかった。
森の草木がそよぐ中、どこからから馬の足音が流れ込んでくる。
ベルティーナはその音を聞き、咄嗟に剣の柄に手を当てる。リュシールを守るために彼女の前へと立ち、前方を警戒する。音のする方へ身構えていると、やがて木々の間から馬に乗ったリアの姿が現れた。追手ではなかった事にふと一安心し、ベルティーナは剣の柄から手を離す。
リアは一本の細い木に馬の手綱を括りつけ、ベルティーナの傍に寄った。片膝を地につけ、頭を下げる。
「ベルナお嬢様、ただいま戻りました」
「ご苦労。それで、様子はどうだ?」
「はい。どうやら、この先にある村にはまだ、触書などが一切出回っていないようです。村人らの話にさえ、この騒動の事は持ち上がっておりません。恐らく、王都ならびに付近の町を優先的に捜索しているためだと思われます」
ただ闇雲に逃亡するだけでは駄目だと判断して、リアは明朝から情報収集を行おうと近くの村まで馬を走らせていた。ベルティーナやリュシールを連れていると危険なため、出来る限りの行動はリア単独で行う事に決めていた。
「一晩限りであれば、そこで夜を明かせるかと思われます。いかがなさいますか?」
この先にある村で今夜を明かすかどうか、ベルティーナは迷っていた。
昨夜、ベルティーナ達はこの森で野宿をした。
ヴァルロリア国土は他国と比べ、寒く乾いた土地である。天候によっては昼間でも肌寒くなる季節が一年中続き、夜になると冷たい風も相まって急激に冷え込む。
夜風に晒され罪人服のみに身を包むベルティーナ達にとって、昨夜のような環境は辛いもであった。森に身を隠しているとはいえ、暖を取ろうと焚き火をしては追手に見つかる可能性がある。そのため火は焚かず、ベルティーナとリュシールは身を寄せ合い、リアは寝ずの番で昨夜を明かしたのだ。
ベルティーナは寒さに震えるリュシールの姿を思い出し、彼女を哀れんだ。何故、罪のない妹が私利私欲に塗れたあの男の悪意に苦しめられなければならないのか。従軍の経験もなく、野宿など一度もした事のないリュシールには、昨夜の風はさぞ辛かっただろう。
硬貨や食料は微量ながら持っていた。王都からの去り際、脱獄に協力した男性らに持たされた分に加え、リアが用意していた分である。それらは馬の荷に積まれている。財や食に恵まれていた身分から一転し、明日の生活さえも知れない逃亡者となった今、この硬貨や食料はとても貴重な物であった。ベルティーナ達は十分にそれを理解している。そうなると、長く生き延びるためには出来るだけ手持ちの硬貨や食料の消費を抑える必要があった。
野宿をすれば硬貨を浮かせる事は出来るが、食料を消費する。逆に、町や村で宿をとれば食料を温存できるが、硬貨を消費する。この二つの方法をうまく使い分け、硬貨や食料をやりくりしなければならない。
ベルティーナは考えた。日を追うごとに追手の捜索は厳しさを増すであろう。次第にヴァルロリア国内の各地に手配が回り、国境付近の街は監視を強化する。ならば、国の手配が国内に回り切らない内は、宿をとって食料を温存しておいた方が良いかもしれない、と。
「多少危険ではあるが、今夜は村の宿に泊まる。冷え切った体も温めておかなければ、いざという時に動けなくなろう」
「御意」
リアはベルティーナの言葉を受け、自分の馬の荷から衣服を持ち出した。
「お嬢様、妹様。村へ向かわれる前に、お召し物をお替え致します」
リアの腕にかけられたその衣服は庶民の着る物であった。質素な布で作られた品位からかけ離れた衣服であり、貴族の身分であれば到底縁のないものであった。
今ベルティーナ達が着ている服は罪人服であり、ほぼ一枚の布に腕と首を通すための穴が繰り抜かれているだけのものである。裾はぼろぼろにくたびれ、あちこちが黄ばんでいたり虫に食われたりしていた。
そのような薄汚い罪人服に比べれば、庶民の衣服は清潔感で溢れていた。贅沢は言えぬが、外見はそれなりに整えておく必要がある。
ベルティーナは着替える事に決めた。着替えの前に、ベルティーナとリュシールは傍の湖で水浴びをし、体の汚れを洗い流した。その後、リアは二人の着替えを行ってから自分の身なりを整えた。
準備を終えると、ベルティーナ達はこれからの事を話し合う。
まず、身の上を偽るため、三人は旅人として振る舞いそれぞれ偽名を使う事にした。人前では本名を名乗るのを避け、偽名で呼び合うように取り決める。ベルティーナはニーナ、リュシールはシーナ、リアはアリル、どれもヴァルロリア国内の女性にはよく見られる、極めて庶民的な名前である。
旅人を装うために身なりにも工夫を施す。先程脱いだ罪人服を湖で洗い、胸元から裾までを剣で割いてマントに仕立てた。それを羽織り、腰には剣を、背には弓と矢をそれぞれ装備した。その姿を旅人と呼ぶには少しみすぼらしかったが、旅人らしい勇ましさは滲み出ていた。しかし、女という見た目までは偽る事が出来ない。
ベルティーナは自分の性別を忌々しく思った。女三人の旅人は物珍しく見られるかもしれないが、仕方ない事だと割り切る。
リュシールは慣れない恰好をさせられ、少々落ち着かなかった。自分の姿と、ベルティーナとリアの姿を交互に見やっては、新鮮なような不安なような気持ちを顔に出していた。そんなリュシールに、ベルティーナは「大丈夫よ」と声をかけた。
装いに不備がない事を再三確かめた後、ベルティーナ達はそろそろと出発し、馬を引いて森の中を進んでいった。森を抜けると馬に乗り、近くの村を目指す。
平野を馬で少し歩くと、村に着いた。村の入口で馬から降りて手綱を引き、村の中に入る。
その際、ベルティーナ達は羽織っているマントで口元を隠しておいた。辺鄙の村だからといって、リュシールやリアの顔ならともかく、ベルティーナの顔を知る者は少なからずいる可能性があった。
この村は王都から北東へ、馬を二~三日ほど走らせた距離に位置している。森に囲まれるようにして存在し、林業や農業で小さく栄えている。そのため、村の建造物は木製の物が多く、山のように積まれた木材や野菜の植えられた畑があちこちに点在していた。住宅以外には万屋が一つと宿が一つ、村の奥にある。
周囲を警戒しているベルティーナに対して、リュシールは不謹慎だと思いながらも辺りを見回していた。それも仕方のない反応であった。
リュシールは生まれてから今日までの間、ほとんど館の外へ出た事がなかった。町の外はおろか、姉のベルティーナが治めるミリアリーノルの町の中ですら歩き回った事がない。妹のリュシールが外出する事を、姉であるベルティーナが許さなかったからだ。
リュシールが欲しい物があると言えば、そんな事は従事者に任せなさいと引き止められ、散歩がしたいと言えば、外は危険だから庭を散策しなさいと進められた。それらは強制されたものではなかったが、姉であるベルティーナを愛するが故に、リュシールは彼女の言葉に強く反発する事が出来なかった。
リュシールが見る館の外はいつも、世界の僅かな切れ端ばかり。館の二階にある自室の窓から見える空と町の一枚絵、それと庭の柵の間から覗く庶民の生活だけであった。現代の身分制度に疑問を持っている彼女にとって、庶民の住む世界は好奇心をそそられるものであった。
ベルティーナは、外への興味を抱いていたリュシールを館の中に閉じ込めていた事になる。これも父母亡き今唯一の肉親である妹を危ない目に遭わせたくないと思えばこそだった。が、皮肉な事に、リュシールに対する愛が逆に彼女を苦しめる結果となっていた。
リュシールはただ、ベルティーナと共に歩き、外の世界に触れる事が出来れば良かったのだ。
それが叶った今、リュシールは不謹慎だと思いながらも心を踊らせ、目の前に広がる新たな風景を見回さずにはいられなかった。傍にはあれほど恋しかったベルティーナがいて、自分と肩を並べて歩いている。それだけでも、彼女にとっては今までにない喜びを感じていた。
「シーナ、少し落ち着きなさい」
ベルティーナはリュシールを横目で見て注意を促す。
リュシールは一瞬、自分の名前が呼ばれた事に気づかなかった。その注意が自分に向けられていると知った途端、はたと自分の偽名がシーナであった事を思い出した。
「ご、ごめんなさい。お姉様」
そう謝ってすぐ、自分の発言に不備があった事を知った時には、すでに遅かった。
ベルティーナは溜め息を漏らすと共に、失望と呆れの眼差しをリュシールに向けていた。
「シーナ、私はニーナよ。貴女の姉ではないわ」
ベルティーナとリュシールは、自分達が姉妹である事実を隠す事にしていた。国は脱獄したベルティーナ達を二人の姉妹とその従事者一人として捉えている。勘の良い人間であれば、ベルティーナ達の顔を知らずとも、姉妹という情報から彼女達と手配されている逃亡者とを関連付けるであろう。
この村にはまだ国の手配が回り切っていない。だが、ベルティーナはここに自分達の足跡を残すような真似は避けたかった。つい最近、姉妹と一人の女性計三人の旅人がこの村の宿に泊まった。この情報が追手に知られるだけで、ベルティーナ達の居場所が絞られてしまう。
リュシールは自分の失言を悔いた。そして、ベルティーナの「貴女の姉ではないわ」と言った言葉に深く心を抉られた。自分達の安全のため、それは止むを得ない発言である事は承知していた。それでも、その発言はアデラールのあの言葉を想起させ、リュシールの心を締め付ける。
「ごめんなさい」
これ以上ベルティーナに失望されないよう、リュシールは身を小さくして歩いた。迷惑をかけてはいけない。そう思うと、リュシールの目線は徐々に下へと落ちていった。
そんな彼女の気持ちを、ベルティーナは察する事が出来なかった。周囲に気を張り巡らしているせいで、リュシールの気持ちを考える余裕などはない。
そうした二人を、リアはその後ろから眺める事しか出来なかった。
宿の前まで辿り着くと、ベルティーナ達は一度立ち止まる。ベルティーナがリュシールとリアに目配せをして、ちゃんと話を合わせるように目で伝えた。
引いてきた馬を近くの柵に繋げて、ベルティーナは宿の扉を押す。木の軋む音を立てながら扉が開き、三人は中へと入る。
来客に気付いた宿主の男性は顔に笑みを浮かべながら、ベルティーナ達に近寄った。
「これはこれは、こんな古ぼけた宿までご足労頂きありがとうございます。さて、本日はどのようなご用件で?」
口髭を生やした膨よかな宿主は精一杯の笑顔をベルティーナ達に向ける。両手を揉み合わせ背中をやや丸めているのは、この商売を始めてから染み付いた癖であった。目尻の垂れた宿主の目を、ベルティーナは慎重に見返した。
「今日一晩、ここに泊めてもらいたい」
宿主は笑みを一層濃くした。今日の空き部屋が埋まりそうだと嬉しくなったのだ。折角の客を逃すまいと腰を低くする。
「ありがとうございます。お部屋の方はどうなさいますか? 二人部屋と一人部屋がございますが」
ベルティーナはリアに目をやる。
「私は外で寝ますので、二人部屋で構いません」
リアはそう言った。そもそも、リアは夜、正確にはベルティーナとリュシールが寝ている間に睡眠を取るつもりはなかった。もしもの時に二人を守る事が出来るよう、見張っておく必要があるからだ。
「そう、分かったわ」
ベルティーナは宿主に向き直る。
「二人部屋を用意して頂戴」
宿主としては儲けを出すため、二人部屋と一人部屋をそれぞれ一つずつ使って欲しかった。しかし、ここで欲を出しては客に帰られてしまうだろうと考える。
「かしこまりました。それでは早速、お部屋の方へ案内します。こちらへどうぞ」
宿主が廊下を歩き出し、ベルティーナ達はそれについていく。
「いや~、それにしても、よくこんな辺鄙な村に立ち寄られましたね。その身なりを見る限り、お客様は旅の者ですかな?」
「ええ」
宿主の馴れ馴れしい口調の質問に、ベルティーナは素っ気なく答えた。
「やはりそうですか! いやいや、女性だけの旅とは珍しい。その上、こんなに美しい顔立ちをしているから驚きましたよ。いや本当に、世の中とは分からないものですな。私も長い間この宿を営んでいますが、お客様のような美人には一度も会った事がありません。もしかしたら、この長寿な宿にもようやく、幸運が舞い込んできたのかもしれませんな」
宿主は機嫌が良い事も相まって、商売上の世辞をすらすらと並べていく。世辞とは言っても、ベルティーナ達が美しいという言葉に嘘偽りはなかった。特に、ベルティーナやリュシールがどのように変装しても、その生まれ持った美麗な容姿を誤魔化す事は出来ない。
宿主は揚々とお喋りを続ける。
「そうそう、よくよく見れば、そちらのお客様」
宿主の声がベルティーナ個人へと向けられた。それを感じて、ベルティーナは宿主の背中をきつく睨みつける。
「私の記憶のどこかに引っかかるのですよ。その綺麗な目に髪、どこかの貴族を思わせるような顔造り。……失礼、私も最近年をとってしまいましてね、忘れっぽくていけません。もしかしたら、私の思い違いかもしれませんので、中年男の戯言と聞き流して下さい。さあ、つきました。ここがお客様のお部屋になります」
宿主は一つの部屋の前に立ち、扉を開け放つ。
「どうぞ、部屋の中の物はご自由にお使い下さい。また、部屋の扉には鍵穴がついておりません。錠をかける際は扉の内側の、取っ手の上部にある金具を下ろして下さい」
先程の馴れ馴れしい口調とは打って変わって、宿主は丁寧に部屋の説明をする。商売をする者である以上、人一倍の金銭欲はある。だが、それに目が眩んで接客を疎かにするほど、腐った商売人ではなかった。
「外出の際や夜間にはくれぐれも、戸締まりを怠らぬようにお願いします。盗品や紛失物の保証は致しませんのでご了承下さい。ところで、ご昼食の方はどうなされますか? もちろん、朝食や夕食は代金無しでこちらが用意します。ですが、ご昼食は別代金で、お客様からのご要望があった場合にのみ用意させていただきます」
「あら、そうなの? それなら、昼食の用意もお願いするわ」
ベルティーナがそう答えると、宿主はすっかり気分が良くなってしまった。
「ありがとうございます。では、お昼頃には食事をお持ちしますので、その時間帯はお部屋で待機していただきますようにお願いします。では、ごゆっくりおくつろぎ下さい」
宿主は笑顔のまま、軽快な足取りで元来た廊下を歩いていった。
それを少し見送ってから、ベルティーナ達は部屋の中に入る。ベルティーナは扉を閉めて取っ手の上部を見てみる。宿主が言った通り、そこには錠代わりの金具があった。ベルティーナは金具を下ろし、部屋の中を見回した。
部屋の天井や壁、家具のほとんどは木製である。部屋の中央には小さな円卓と二つの椅子がある。それらを挟むように、部屋の奥の二隅には寝台が一つずつ置かれていた。奥の壁に大きな窓があり、そこにカーテンが取り付けられている。
ベルティーナ達はこの部屋を狭いと感じていた。
それも当然だった。彼女達の住んでいた館にはこのような部屋が一つとして存在せず、使わない部屋ですら倉庫として利用できるほどの広さを持っていた。家具も余裕を持って配置され、人が横に五六人並んでも大丈夫なように通り道が確保されていた。
この部屋はどうだろうか。一つの部屋に複数の用途を持たせ、家具同士の間隔は必要最低限にしか取られていない。まさに庶民の感覚で作られた部屋であった。
しかし、ベルティーナ達は贅沢を言える状況ではない。この部屋を狭いとは感じるものの、それ以上の不満は慎んだ。
ベルティーナは小さな円卓に近寄っていく。すると、リアはベルティーナより先に円卓の所まで歩いていき、片方の椅子を引く。その引かれた椅子の前まで来ると、ベルティーナはそこに腰掛けた。
「貴女も座りなさい」
ベルティーナは向かいの椅子を手の平で示す。
「は、はい」
リュシールの返事で、リアは向かいの椅子に回った。
「どうぞ、足元にお気をつけ下さい」
リュシールはリアの引いた椅子に座り、ベルティーナの顔をちらりと見た。ベルティーナの機嫌を窺い、自分は何かを話すべきだろうかと迷っていた。折角、ベルティーナと同じ卓を囲っているのだ。こんな状況でなければ、リュシールは思うままに口を滑らせ、ベルティーナに話しかけていただろう。先程の注意を受けた事もあって、リュシールは自分の口が重くなったように感じていた。
ベルティーナはリュシールの視線に気付き、彼女を見る。
「どうしたの?」
「い、いえ。何でもありません」
リュシールは視線を卓上に落とした。
リュシールの心の中では様々な思いが複雑に混ざり合っていた。姉であるベルティーナと話をしたいと思う反面、この状況下で何を話せばいいのかという気まずさ。そもそも、自分が口を開いて良いものか。先程のように失言をしてしまい、姉に迷惑をかけたくない。そんな思いと考えとを巡らせていた。
一方、ベルティーナはやはり、そんなリュシールの事を察してあげられず、これからの事に気を向けていた。
明日の早朝にはすぐこの村を発たなければならない。追手の有無にかかわらず、同じ場所に二日以上留まるのは危険だとベルティーナは考えていた。彼女の予定では、明日はここから西北西へ馬を二日ほど走らせ、次の村を目指すつもりだ。
王城からの脱獄及び逃亡となれば、ベルティーナのみならずリュシールやリアの死刑も免れぬ事となっていた。国からの逃亡はベルティーナ達の罪を確定させたのだ。捕まれば弁明の余地なく処刑され、その首は国賊の成れの果てとして民に晒される。
もしもの時はどうリュシールを守るべきか。それも、これからの逃亡生活に関して重要な事だった。いざという時は、ベルティーナは一人、追手の気を引いてリュシールを守ろうと考える。せめて、あの憎きアデラールの薄汚れた手にはリュシールを触れさせたくない。そうなるくらいなら、刺し違えてでもアデラールだけは殺してやる、そう覚悟していた。
締め切った窓を通して、外から木を切ったり打ったりする音が入ってくる。その音はベルティーナとリュシールのいずれの耳にも届いておらず、リアだけがそれに耳を傾けていた。リアにとって馴染み難い静寂が、彼女の前にある円卓の上に転がっていた。
イルミッツェ王城 王の間にて
アデラールは王の座す玉座に向かい跪いていた。
「陛下、ご報告申し上げます。城下町、ドルチュードの町、ミリアリーノルの町を隈なく捜索いたしましたが、ミリアリーノル公らの姿を見つけ出す事は出来ませんでした。恐らく、ここより更なる遠方へと逃げ延びているのではないかと存じ上げます」
「ふむ」
ルファネ・アグパニーチェ=ヴァルロリア――ルファネは玉座の肘掛けに片肘を置き、もう一方の手で自分の顎を擦っていた。その目は、アデラールの垂れ下がった頭を見据えている。
「では、王都より全方角に捜索隊を出すとしよう。ブルジェ」
ルファネは傍に控える二老大臣の一人、ブルジェに声をかける。
「は、陛下」
「我が軍より騎士兵を三千ほど貸し与える。そこから数十の捜索隊を編成し、国内を隅々まで捜索させろ」
そこで、アデラールが勇ましい声を上げる。
「お待ちを! 陛下」
ルファネはその玉座からアデラールを見下ろした。
「なんだ、ドルチュード公」
「は、その捜索隊にこの私め、ひいては我らドル・ア・ワード家の軍をお加え頂きとうございます」
「ほう、何故?」
「此度のミリアリーノル公らの脱獄に関しまして、私が責任を感じているからでございます。元より、ミリアリーノル公の悪逆を告発したのはこの私、であれば、それに関連する事柄の全てに携わるのが筋というもの。脱獄の不手際の責は私にあります、どうか、この私めに汚名返上の機会をお与え下さい。必ずやミリアリーノル公らの身柄を確保し、陛下の御前に引き出してご覧に入れましょう」
「なるほど。それが公の言い分か」
ルファネは少し迷ったが、やがて何も問題はないと考えた。
「よかろう、おぬしに我が軍の騎士兵三千を貸し与える。ただし、その場で殺したりはするな、必ず生け捕りにしろ。後は好きにするが良い。おぬしの言葉を決して忘れぬからな、我は期待して朗報のみを待つとしよう」
「は、陛下のご期待に必ずや添えてみせましょう。それでは、早速準備に取り掛かります」
「ああ、そうするが良い。ブルジェ、おぬしもドルチュード公と共に軍備を整えてくるがよかろう」
「かしこまりました」
アデラールは立ち上がり、ブルジェを引き連れて王の間を後にした。
彼らが王の間を退出すると、ルファネは玉座に深く腰を沈め、低い溜め息を漏らした。
実のところ、ベルティーナらが国税を横領したというアデラールの告発を、ルファネは半信半疑であった。ブルジェが提出した証拠の書類を目の当たりにして半ば信じ、かの聡明な公爵であるベルティーナが国に背くはずがないという思いで半ば疑い、ルファネは裁判の様子をほとんど黙して眺め、最後の審判まで有罪無罪の天秤をそのどちらかに傾けるつもりはなかった。
はたして、ベルティーナをこのまま国賊として認めてよいものか、とルファネは考えた。
ルファネは少なからず、ベルティーナの人間性を知っていた。彼が聞いたベルティーナの、オルシャンツァ家の評判は非常に良く、その情報の大半は彼の父である前王から聞かされたものであった。その前王は大戦終結から一年後に没している。
当時、存命であった前王は崩御する少し前、ルファネにこう言った――オルシャンツァ家は、この時代では稀に見る上出来な良家である。あの家は代を重ねるごとにその天性ともいえる色とりどりの才能を花開かせ、その花々どれもが衰える事なく、むしろ衰退に逆らいより美しく育っているほどだ。元は王族であったにもかかわらず忠義に厚く、我がアグパニーチェ王族そしてヴァルロリア王国によく尽くしてくれている。先の帝国との大戦においても、オルシャンツァ家前当主は国のために戦い、潔く果てた。その亡き父に代わった現当主ベルティーナも、あやつ(ベルティーナの父)の面影を良く引き継いでおる。雅やかで、武人としての才と文人としての才も兼ね備え、実に立派な芯を持つ貴人だ。大戦時の陣営では、ベルティーナを女の身だからと蔑む目を向ける者が多くおったが、あれは適切ではない。よいか、ルファネ。我がアグパニーチェ王族ひいてはヴァルロリア王国の繁栄に、オルシャンツァ家は必要不可欠だ。決してオルシャンツァ家を手放さぬよう、ましてや他国に渡すような愚行を犯してはならぬぞ――と。
実際、オルシャンツァ家の信頼も相まってベルティーナの世間的な評判も良かった。戦争での活躍は元より、国内の民からの尊敬はもちろん、そのあまりにも麗しい姿に他国の者ですらそれを聞き及ぶほどである。
加えて、ルファネはベルティーナに対して贔屓的な感情を抱いていた。それが微々たるものであれ、彼に半信半疑の念を抱かせるのに影響しているのは言うまでもない。ベルティーナの容姿は本当に美しかったのだから、それは仕方のない事であろう。
先程、ルファネがアデラールに騎士兵を貸し与えるのを迷ったのには訳があった。オルシャンツァ家とドル・ア・ワード家の不仲はルファネも十分承知している。だからこそ、もしアデラールが捜索中にベルティーナを見つけた場合、その場で斬り殺してしまう可能性が考えられた。それだけは、なんとしても避けなければならない事だった。
ルファネは、前王から聞いた話とベルティーナの姿を思い浮かべながら、この状況にどう対応するべきか悩んでいた。彼は王としてはまだ若く、前王に比べて国の大事を推し量る能力が未熟である。しばらくじっと考えたが、直にぼやけた頭痛に襲われ、
「我は奥で休む。皆も下がれ」
と、ルファネは王の間にいる騎士や家臣達にそう告げ、王の間より退出した。
イルミッツェ王城 城内のある一室にて
アデラールとブルジェは人目を避け、普段あまり人の立ち入らない部屋でひっそりと会話を交わしていた。
「ブルジェ老大臣。いつもながら、その手腕は恐ろしいものだ。しかし、これは私から頼んでおいて心配するのも可笑しな話だが、陛下が捏造に気付かれる可能性はないと?」
「ええ、その通りです。陛下が即位されてから年月はまだ浅い。大戦に勝利した幸いの中に生じた不幸、急な病によってお隠れになった前陛下の跡を急ぎ足で継いだせいか、陛下はまだまだ政務に不慣れなご様子。それを、私含む二老大臣が補佐しております。あの老大臣めの事に関してはご安心を。あやつは何も知り得はしません。私が用意した書類に目を通すが否や、わっと驚いて目の前の捏造された内容を信じて疑っていないのですから」
「それを聞いて安心した。後は、あのミリアリーノル公を捕らえるだけだ。所詮、王族から落ちぶれた家の成り下がり貴族。それに比べ、我がドル・ア・ワード家は、アグパニーチェ王族に認められし名家の貴族であるに。ええい、比べる事すら穢らわしい。身の程をわきまえず、よくも我が家を蔑ましておって。ええい、おのれ! あの生意気な目つきを思い出すだけで腹立たしい!」
アデラールが怒りのあまり声を荒らげ始めたので、それをブルジェは慌ててなだめようとする。
「ドルチュード公、落ち着いて下さい。あまり声が大きいですと、誰かに気付かれてしまいます。とにかく、後はミリアリーノル公を捕らえる、ただそれだけです。そうすれば、その怒りも自然と収まりましょう」
「それもそうだ。ふう、取り乱してすまぬ。私はミリアリーノル公を死刑に処すつもりだが、それだけでは足りぬ気がするのだ。どれ、死刑の前にどれだけ嬲ってやろうか、おぬしも共に考えてくれ」
「はい、喜んで。しかし、そろそろここを出て、ドルチュード公に貸し与える騎士兵の用意をせねば。その事に関する話し合いは、また後程」
「そうであったな。では、そろそろ行くとしよう」
アデラールとブルジェは何気ない顔で部屋を出て、人通りのない廊下を歩き出す。人気のある廊下まで来ると、形ばかりの会話をしつつ、見回り中の騎士や忙しく動き回る侍女とすれ違っていった。
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