第5話 ラストゲーム
「ジョゼ! アンナ姫!」
鋭く叫ぶように二人の名を呼んだクロードは、蹴破る勢いで戸を叩き、「ルール・ブルー」の店内へと駆け込んだ。扉はあっさりと開き、店内にも変わった様子はない。けれど、ジョゼが外出しただけであれば、店の入り口が開けっ放しになっているはずがないのだ。彼女は自分のこととなるとものぐさなところもあるそうだが、少なくともクロードの知る限り、こんな状況下でアンナを残していく家の鍵を閉め忘れるような粗忽者ではない。
馬車でのんびりと進んだ道を、降りるや否や真っ直ぐに引き返してきた。借りた馬は手近な柵に手綱を括りつけ、クロード本人は息を整える間もなく応接間へ走る。荒らされた様子はない。けれど、やはり誰もいない。アンナが飲んでいたはずのハーブティーはすっかり冷めきって何の香りもせず、添えられていた焼き菓子も手を付けられないまま、机の上に放置されていた。
店へと押し入った何者かに連れ去られたという風ではなく、少なくともこの場で負傷させられているわけでもなさそうだけれど。だからと言って、あれほど周りへの迷惑に気を遣っていたアンナが、勝手にこの店を出ていくとも考えづらい。であれば、答えは一つだ。
「……やはり護衛が買収でもされていたか」
以前よくアンナと共にいた侍女は、「そうでなければ不自然だから」と説き伏せられ、偽アンナであるルネの傍にいるよう指示を受けたらしい。アンナ自身からの提案だと告げたのは、このところよくアンナと一緒にいる護衛であった。荒事になれば自分の出る幕はないと認めていた侍女は、アンナ自身に確認を取らないまま、そうかと納得してしまったそうだが。それも全て、偽の指示だったのだろう。
もちろん、侍女がこの場にいたとして、何ができたわけでもない。現状は何も変わらず、最悪ここに死体が一つ残されているだけになった可能性すらあるのだから、侍女にとっては不幸中の幸いと言っていいのかもしれない。けれど、それはそれだ。アンナは連れ去られ、この場で命を奪われたわけではなさそうだとはいえ、今この瞬間も無事でいるかどうか分からないのだから。
出かけると言っていたジョゼは、もう戻って来たのだろうか。もぬけの殻になった応接間を見たとしたら、彼女はどう行動するだろう? ……何しろ、見知らぬ強面の男を夜の路地裏で追い回す、鉄砲玉のような少女だ。じっと誰かの助けを待つばかりとも思えない。
せめて、まだ外出先から帰って来ていないだけであってほしい。何か状況を知る手掛かりはないかと、クロードは辺りを見回した。来客用のティーカップが置かれた食器棚にも、ジョゼが「カウンセリング」に使っていた小瓶も、何もかもが以前の記憶のまま。店先のショーウィンドウだって、普段どおりに香水が並べられている。
「……駄目だ……」
手がかりがなさすぎる。クロードは絶望の溜息を零し、藁にも縋る思いで階段を上がった。この先はジョゼの作業部屋だと聞いている。誤って客が入らないよう、常に鍵がかかっているのだと聞いているそんなところに、何があるとも思えない。けれど、もう調べる場所など後はここしかないのだ。
ひやりとしたドアノブに手を掛ける。くるり、回せばガチャンと拒絶の音がした。溜息をもう一つ、かくなる上は足で探すしかないのかと、踵を返そうとした時だ。
「お困りかい? 手を貸してあげようか?」
軽やかなボーイ・ソプラノが、不意にそう言った。
ぎょっとして振り向けば、今さっき開かなかったはずの部屋の扉が、木材の軋むような音と共に薄く開いている。
「……何者だ」
正真正銘の警戒に眉を顰めたクロードが、低く唸った。並みの少年であれば恐れで震えあがるような声色にも動じず、音ばかりの少年はくつくつと笑う。
そろりと手を伸ばし、作業部屋の戸を開けた。中にあるのはジョゼの机と、レシピや試行錯誤の書き留められたメモやノートの数々。そうして、異様な存在感を放つ姿見が一つ。部屋の中央、僅かに宙に浮いていた。
室内に少年らしき姿はない。けれど、姿見の正面に立ったクロードを見つめ返していたのは、幼き日の自分自身の姿だ。頭の形に添って切られた黒い髪に、肉の薄い頬。尖った顎と、薄い唇。嫌というほど見覚えのある懐かしい姿だが、瞳の色だけが苺のように赤い。
笑えないはずのクロードの顔を模して、ふぅふぅと勝手に笑うこの鏡像が、きっと声の主なのだろう。こんなことがあってたまるかと思う気持ちは山ほどあるが、白昼夢だ何だと現実逃避をしている場合でもない。
鏡に映った何者かに視線を据えて睨み返せば、意外そうに――少しだけつまらなそうな顔で、「それ」は言う。
「あれ。覚えてないと思ってたけど、そうでもなかった?」
「……? 何の話だ?」
「ああ。いや、こちらの話さ。僕を見ても驚かないんだなって」
「戦場育ちなものでね。起きたことにいちいち目を疑っていたら、命がいくつあっても足りないんだ。おかしなことには慣れてる。……もう一度聞く。何者だ?」
「そう聞かれると答えに困るな。君たちに分かる言葉で言うなら、そうだねえ。『悪魔』というやつだけど。……ああ、待って待って、そう身構えないでよ」
だから言いたくなかったんだ、と拗ねたように言う「悪魔」は、クロードの姿を模しているせいか、まるきり人間の子供にしか見えない。けれど、「それなら適当に答えておけばいいのに」と、眉一つ動かすことなく思ったクロードの思考を覗き見たかのように肩を竦めた。
「悪魔は嘘が吐けないのさ。本当のことも言わないけどね。『祈れば救われる』なんて何の保証もないこと言ってる天使や神様なんかより、よっぽど誠実でしょう?」
「……その『誠実』な悪魔が、わざわざ僕に何の用だ?」
「さっき言ったじゃないか。困っているなら手を貸そうかって」
「無償で人助けしようなんてつもりじゃないんだろう?」
「それはね。でも、今回は特別だ。対価は『結果』でいい。実は僕にもちょっと事情があってね、直接彼女を助けることはできないんだけど……ちょうど君もいることだし、まだあの子をヒトとして死なせてしまうには惜しいものだからさ」
「……『彼女』?」
さっと顔色を変えたクロードに、分かるでしょう、と悪魔は笑う。ジョゼの作業部屋にあった、魔性の鏡。その中に憑りついているらしき悪魔と、彼の申し出が示すもの。そして、以前ジョゼが呟いていた「ズル」――他人の力を借りている、そう彼女は表現していたか。それら全てが示すものといえば、一つしかない。
唇を引き結んだクロードに、悪魔はにんまりと目を細めて囁いた。
「僕、きれいなものが大好きなんだよ」
「な……」
頭の中で反響するそのフレーズが、ぐにゃりとクロードの視界を歪める。何故だろうか。そう言った「何か」を、クロードは知っていた。顔も、声も、何も覚えていないけれど、確かに一度聞いたのだ。……けれど、一体どこで?
ふらつき、たたらを踏んだクロードに、悪魔はまたくすりと笑う。
「断れないはずだ。君は彼女を見殺しにできない」
「……お前、僕の何を」
知っている?
問いたかった言葉は、声にならないまま。
ふわり。季節外れの雪解け水と土埃のにおいが、クロードの鼻先を掠めていった。
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