名もなき被害者の顛末
その男の名を知る者は、おそらくこの島にはいないだろう。
いつまで経っても戻らないと、郷里で心配する者くらいはあるだろうけれど。移動手段と言えば馬車と船だけ、都市と都市を結ぶ道ですらも戦火の名残を残したままの状況だ。消息を辿って気軽に旅ができるような時世ではない。
そうして数多の行方不明者の一人となった名もなき男は、これと言って特筆すべき点もない無名の画家であった。
ヴィエルジェの美しき花祭りを一目見ようと集まった、芸術家崩れの内のひとり。有象無象と一絡げにされるような、箸にも棒にも掛からない、特別上手くも下手でもない水彩画家。背丈は然程高くなくずんぐりとしていて、長年画板に向かって丸めていたせいで、背中は猫背に曲がってしまっている。淡く繊細な妖精画を描いていたが、絵柄とはまるで正反対の、ごつごつとした太く短い手足をしていた。貧しい暮らしでは頻繁に画材を新調するわけにもいかず、柄が剥げて筆先も擦り切れるほどに使い続けた愛用の筆同様、利き手の左中指に瘤のような胼胝がある。
それが、このたび唯一の『男の死体』の正体であった。
では、実際に手を下したのが何者であるか?
答えは明白だが、シンプルではない。
男の死と共に行方をくらましたもう一人の『画家』は、目的を見失って無差別に手を下すほど愚かではなかった。彼が求めるのは「ヴィエルジェ・ブルー」ただ一つ。最後にそれさえ手に入れられれば、誰がなんと言ったって、彼の勝利は確定しているのだから。
かくして、哀れな「ポーン」は身勝手にも切り捨てられた。
いずれ事の動機と顛末が明らかになれば、恋とは実に勝手なものであると、後の世の詩人たちも語るのだろう。
犯人たちの唯一の誤算は、妙に記憶力の良い戦場帰りの男と、犬より鼻の利く島の娘が手を組んで、「彼ら」の敵に回ったということだ。悪魔の依怙贔屓というおまけ付きで。
「テレビン油の臭いがしなかった」
悪魔の真っ赤な瞳をじっと見つめ返し、ジョゼは呆然と呟いた。
そう、あの日あの時、普段と違うとジョゼの鼻が拾ったのは、「夕飯の残り香」と「ヒトの体液が混ざった血の臭い」、「焦げた皮膚の臭い」の三つだけ。遺体が男であったなら、少女めいた何らかの香りがなかったのは当然だけれど、本来あるべきにおいが残っていないのは明らかに不自然だ。
キャンバスや部屋に染みついているものとは明らかに違う、トマのにおいと混じり合ったテレビン油が、「トマの遺体」から滲まない理由がない。
「……帰るわ!」
ガタンと大きく音を立て、椅子を蹴倒す勢いでジョゼは立ち上がった。真っ青になって両手足は震え、けれども急がねばと走り出す。するりと鏡を抜けて現実へ戻っていく彼女を見送り、今日のところは無駄になったティーポットを手持無沙汰に遊ばせていた悪魔は、こんな状況にふさわしくない緩やかな笑みを浮かべて呟いた。
「さて。カウンターは間に合うかな? あなたはどう思う? 【賢人】さん」
「ふむ? それはさっきも言ったろう。調香師殿の性格は、この手のゲームには不利であると」
「そうだね。きっと彼女が戻る頃には、ジョゼたちの『キング』は持ち去られてしまっているだろう。ああ、可哀想に。もう勝ちの目はないのかなあ」
ふくふくと愛らしい少年の頬にカップケーキを詰め込んで、悪魔は他人事のように言う。
そうして、珍しく呆れたように溜息を吐いた【賢人】が言うには。
「まったく、意地が悪い。『私』という器が何者であるか、君は知っているだろうに。……ああ、私は君という悪魔ほど悪魔らしいものを知らないよ、この性悪め」
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