ヴィエルジェ・ブルー 4

 貴族の乗る馬車というのはこうも乗り心地が違うものなのかと、ルネが感心したように呟くのを聞いて、クロードは頷いた。本当なら「そうだね」と苦笑の一つでも零しているところなのだが、凝り固まった表情筋は相変わらず動かない。対面にいるのがルネでなければ「気分を害したのでは」と誤解され謝られてしまうところだが、ジョゼのスパルタの甲斐もあり早々にクロードのことを「そういう人」と割り切ったルネは、マイペースに欠伸などしながら「でしょお?」と呑気な声を上げる。


「ぼくもお姫様になろっかな。頑張ればいける気がしない?」

「それは無理があるんじゃないか」

「ちぇー。こんなに可愛いのになー」

「……いまだに思うんだけど、ルネ君、僕は君のこと『ルネ君』と呼んでいても失礼ではないのかな。いや、君が男でも女でも、だからって態度を変えようってつもりはないんだけど。それでもやっぱり、どちらで扱うべきか、こう、迷う時があって」


 初めに聞いた時からずっと気になってはいたことだ。あの時は、ルネが聞いているのかいないのかよく分からないまま、何やら必死に頷くものだから「そうか」と流してしまったのだけれど。遠慮がちにぽつぽつと告げれば、きょとんと目を丸くしたルネが、遅れて盛大に噴き出した。


「っふ、ふふ、……あははは!」

「え、え? そんなに笑うことだった……?」

「いや、だってクロードさん、うん、その時のことはぼくが悪かったんだけど……どっちで扱うべきかって、ジョゼと同じこと言うから……ふふ、んふふ……!」


 なぜそこまで笑うのかはよく分からない。が、幼馴染だったはずの彼女にまで同じことを言われているのなら、これはもう「どちらでもない」または「どちらでもいい」が正解ということなのか。難しい顔で大真面目に頷いたクロードを見てもう一つ噴き出すと、ルネは座席の背もたれにだらりと寄って、笑い過ぎて浮いた涙を丁寧に拭う。


「いいのいいの。ぼく、昔からこうなんだよ。別に女の子になりたいわけじゃないんだけど、可愛いものが好きだし、可愛い自分も好き。ヴィエルジェの人たちはみんな、こんなぼくのことを丸ごと好きだって言ってくれる。だけどね、島の外から来た人はそうじゃないでしょう?」

「ああ、まあ……」

「ね。だからね、ジョゼは心配して言うんだ。『ハッキリしなさい』って。あの子は『あんたじゃなくて、バカンスで遊びに来てあんたに誑かされる純粋な紳士諸君が哀れなのよ』って言うけど、そればっかりじゃないのは知ってるからさ」


 ふう、と呼吸を落ちつけて、ルネは曖昧に苦笑いを浮かべた。

 ジョゼとルネが年頃と呼べる年になったばかりの頃のことだ。色恋沙汰のあしらい方を知らなかったルネにしつこく言い寄って、ルネが男だと知ると逆上し殴りかかって来た男がいたのだという。その時はサン・ローラン街の人々が止めに入り、ルネも大きな怪我はせずに済んだのだけれど。それを気に病んだのはジョゼだった。その時ちょうどルネは、「まだ練習中だから」と渋るジョゼに頼み込んで作ってもらった、「ルール・ブルーの香水」を身につけていたからだ。

 摩訶不思議な効能なんてあるわけではない、けれども付けた本人の魅力を最大限に引き出してくれるはずの特別な香水は、花に寄る蝶だけでなく余計な虫まで呼び込んだ。人を笑顔にしたくて調香師の職に就いているジョゼにとって、それはあまりに悲しく、衝撃的なことだったのだろう。


「ああ、だからあんなこと……」


 以前、「失敗したことがある」と表情を曇らせていた様子を思い出し、クロードはそっと目を伏せた。気が強いようでいて案外繊細で、友達思いのジョゼのことだ。誰より大事な親友であるルネを傷つけてしまった、その一因になったかもしれないと思えば、気にするなと言われても納得できようはずもない。

 理解した様子のクロードに、ルネは少しだけ目を丸くして、それからまた笑った。


「聞いたんだ? 珍しいな」

「? 珍しいことなんだ……?」

「そうだよ。あの子あれで意外とプライド高いし、気にしいだから。ぼくに遠慮してるのもあるし、自分から話すことあんまりないんだ、その手の話題」


 気に入られたね、と笑われると、それはそれで気恥ずかしいものだ。こういう時ばかりは、常々ピクリとも動かない表情筋が逆にありがたい。無表情と沈黙を「疑っている」と捉えたのか、ルネは一つ首を傾げて「本当だよ」と続けた。


「見栄っ張りなんだ、昔から。努力してるところだって全然見せやしない。おかげでトマさんなんて、事あるごとにジョゼのこと『彼女は天才だから』って言ってさ、尊敬もしてるけど羨ましくもあるってよく話してたよ」

「……彼とは親しくしていたの?」


 同じ下宿で生活する、階下の隣人だったと聞いていた。もちろんジョゼにとってもルネにとっても、そこらの他人よりは余程親しい相手だったのだろう。だからこそ、あの無残な遺体を彼らに見せたくはなかった。結局、見ない方がいいと言い置いて行ったクロードの言葉に従って、ジョゼもルネも下宿の女将も「トマ」の死を直視しないまま、自警団をはじめとした有志の手により片付けられたトマの部屋は、彼の遺品を置いておくだけの物置と化しているという。

 気づかわしげな声色を感じ取ってか、ルネは少しだけ眉を垂れると、曖昧に首を振った。否定でも肯定でもない、けれど、気にすることはないのだとでも言うように。


「険悪ではなかったよ。ぼくは、仲はそこそこ良かったつもり。母さんが夕飯作り過ぎた時とか一緒にご飯食べたり、力仕事を手伝ってくれる時もあったりしてさ」

「……そうか」

「うん。トマさん、『良い人』だったんだよ。ほとんど部屋に引きこもって、ぼくたちの他に知り合いなんかいたか分かんないけど。それに絵に関してだけは、ちょっとびっくりするほどストイックだったけど……芸術家ってそういうものでしょう? ヴィエルジェの海を描くためのヴィエルジェ・ブルーがどうしても欲しくって、食事代まで絵具につぎ込んじゃうとかね。ジョゼは、そういうのはちょっとだけ気持ちが分かるって言ってたけどさ」


 ぼくは健康の方が大事だと思う、と至って真っ当なことを言うルネに、クロードは小さく頷き、ぽつりと呟いた。


「ものづくりをする人にしか、分からないことなのかもしれないね。そういう気持ちを分かってあげられるというのは、少し、羨ましいかもしれない」

「まあねえ。でもさ、分からないから止めてやれることもあると思うんだ、ぼくは」

「うん、もちろんそれも一理ある。君はこの先も、彼女の傍にいるんだろうし。だけど、僕はアンナ姫の身の安全が確認できたら、王都へ帰らないといけないから……」


 手紙を出そうにも、ただでさえ話し上手な方ではないのだ。ルネ宛に送れば、きっと彼が面白おかしく近況を伝えるついで、ジョゼも返事をくれるのかもしれない。けれど、やはりそうまでして連絡を取り合うような距離感かと言えば、どうだか分からないというのが正直なところで。別れを寂しいと思うことだって久しぶりで、何とも言えない感情を持て余している。

 せめて、共通の話題で理解し合えるようなことがあれば良かったのだけれど。用もないのに声を掛けるということがクロードは苦手だったし、多分ジョゼも井戸端会議が好きなタイプの女の子ではない。互いにそのうち記憶の中の人となって、すっかり忘れてしまうのだろう。彼女の傷になりたいわけではないけれど、死んでしまったトマとは違い、自分は一瞬だけ彼女の人生に顔を出して、何事もなく去っていくのだから。


 ぽつぽつとそんな話をしていれば、ルネは何だか愉快そうに口の両端をにゅっと持ち上げて、馬車が揺れると同時にぐっと身を乗り出した。


「あのね、クロードさん。良いこと教えてあげようか」

「うん? 良いこと?」

「そう、良いこと。ジョゼってねぇ、ぼくのことミーハーだとか何とかよく言うけど、実際ぼくよりよっぽど面食いなんだよ」

「……? そうなんだ……?」


 それが一体どうしたというのだろう。微かに寄った眉間の皺は、怒っているわけでは全くないのだけれど、毎度おなじみ冷たい鉄面皮のせいで怒りの形相に見えなくもない。そんな、気の弱い少女なら卒倒しかねない表情に、陽気な少年であるルネはびくともせず、「クロードさんって意外と天然だよねえ」なんて笑っている。

 こてり、顔に似合わず幼げな仕草で首を傾げれば、ルネは肩を竦めた。


「ジョゼが男の人とここまで親しくなったところ、ぼく、クロードさんの他に見たことないからさ。ぼくのことは男だと思ってないだろうし、トマさんとだって仲は良かったけど、お隣のおじさんだとかパン屋のおやじさんだとか、その辺と同じようなものだよ。大体、熊みたいな大男は趣味じゃないはずだもん」

「……あ。ああ、いや、そういうことじゃ。なくて。僕は、その……」


 ルネの言わんとすることをようやく察して首を振りかけたクロードの言葉は、しかしそこで尻すぼみに消えていく。

 というのも、聞き捨てならない単語が聞こえたからだ。


「……待って、ルネ君。誰が『大男』だったって?」

「トマさんだよ? ……あ、そうか。会ったことはなかったんだっけ」

「うん、そう。ご遺体は酷い状態だったから。……けど」


 島での記憶が巻き戻りながら脳内を駆け巡る。

 初めの事件、狙われたのは花冠の乙女。アンナによく似た黒髪碧眼の少女・マリーだった。遺体は両手足と頭部を切断され、瞳はくり抜かれていた。

 二つ目の事件、犠牲者はまた別の花冠の乙女と、そこに居合わせた金髪碧眼の少女。こちらもやはり遺体の状況は惨たらしく、『乙女』役だったコレット嬢は両耳を、巻き込まれた観光客の少女は目を、それぞれ失った姿で発見されたらしい。

 そうして三つ目。犠牲者は唯一の成人男性である、トマ・コーヘンと思しき人物。彼の遺体が一番損傷が激しかった。顔は焼け爛れ、両手足も根本から切断された上で、頭陀袋の中に入れられた状態でアトリエ兼自室へと放り込まれていた。


 正確な体の大きさは分からない。

 けれど、肩からざっくりと切り落とされた左腕はいかにも短く、少なくともクロードよりはずいぶんと小柄な人物であったに違いない。


 遺体の確認を、ルネたち親子も、ジョゼも、しなかった。

 そして自警団の面々は、引きこもりがちだった「トマ・コーヘン」という人物を知らなかったのではないだろうか? ――画家らしき手の形とアトリエを見て、遺体が彼であると信じてしまったクロードと同じように。


 ぞくり、悪寒が走った。

 変わらぬ表情のまま、けれど僅かに青ざめたクロードに気が付いたのか、ルネが笑みを引っ込めて何事かと問う。

 がたんと一度大きく揺れて、馬車が止まる。眩い陽射しに照らされた花祭りの舞台へと、『女王』を送り出す時だ。けれども、クロードには一つ確認せねばならないことがあった。


「……『トマ・コーヘン』は左利きだった?」

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