ラストゲーム 2

 ジョゼが悪魔の茶会を中座し、鏡から抜けた先にあったのは、居住区から少し離れた場所にある林の中だった。突然野外に放り出された眩しさで顔を顰めていれば、聞き覚えのある――できれば、こんなところで聞きたくなかった男の声が言う。


「……ああ、ジョゼさん」

「トマさん……」

「意外と早かったですね。困ったな」


 のんびりとした、以前とまるで変わらない調子。大きな体をいつでも所在なさげに丸めていたトマは、相変わらず人畜無害な顔をして、後ろ手に縛られ転がされたアンナを見下ろしていた。刃物を突き付けられ、真っ青な顔をして震えていたアンナが、ジョゼの顔を見るなり驚いたように言う。


「! ジョゼ、一体どこから……いえ、駄目です、早く逃げて!」

「に、逃げてって、そんなことできるわけないでしょう!」


 この状況でアンナを捨てて行けと言うのか。ジョゼは首を振り、辺りを見回した。アンナの護衛だったはずの二人の男が、ジョゼを追い詰めようとじりじり近寄ってきている。そういうことかと短く息を吐き、ジョゼはトマへと視線を定めた。


「……ねえ、トマさんどうして? あなた政治になんか興味ないんじゃなかったの? 絵を描ければ……どんなに貧しくたって、なかなか認められなくたって、ヴィエルジェの絵を描ければ幸せだって……!」

「そうですよ。誰が王になろうと、王妃になろうと、私には関係ない」

「じゃあ何でこんなこと……!」


 説得を試みるジョゼを嘲笑うかのように口端を歪め、トマは口を開いた。


「絵具が欲しかったんですよ」


 たった一言、それだけ。

 いつだって眠そうだった瞳は、死を偽装してからの逃亡生活でやつれた顔の中、そこだけが爛々と輝いている。ぎらつく刃をアンナに向けたまま、生え放題の無精ひげを撫で、恍惚の溜息を吐く姿は「まるで悪魔にでも憑かれたかのよう」だ。

 ぞっと背筋に悪寒が走った。震える両足を叱咤し、ジョゼは声を絞り出す。


「お金のためなの……? アンナ様を殺せば、『花の獣』から、絵具を買うお金がもらえるから? じゃあ、今までの事件は……」

「……はは。まさか。そんなもののために何人も殺したりするもんか」


 長く細い息を吐きながら、トマは笑う。じりじりと身を捩って後退るアンナのスカートを乱暴に踏みつけ、しかし、異様にぎらつく視線は彼女の顔を熱っぽく見つめていた。まるで、恋をしているかのような眼差しで。


 そう、まさしく彼は恋をしたのだ。

 このヴィエルジェという島の美しさに、全てを捧げる恋をした。


「理想の青だったんだ」


 その「青」が欲しかった。何としてでも。

 を絵具にできるのだと、摩訶不思議な存在に告げられたのは、花祭りの準備が行われていた頃のこと。忙しさにかまけて留守がちだったジョゼの部屋の前を通った時のことだったという。


 初めは半信半疑だった。

 試しにサン・ローラン街の品物を――流行りのフルーツ飴を一つ買ってきて、「魔法の絵具」に変えてもらった。世にも奇妙な方法で生み出された「いちご飴の色」は、つやつやと透明な赤い絵具となって、見たこともないような色彩でキャンバスを彩った。ああ、その美しさといったら!


 もちろん、恐ろしい力だと恐怖する気持ちもなかったわけではない。

 けれど、トマは芸術家である。誰にも描けない、誰も手に入れたことのない「色」を、自分だけが扱える。自分だけが、この絵を描くことができる。その事実に興奮し、優越感に陶酔し、すぐに恐れなど消え去った。躊躇いが消えると同時、脳裏に過ったのは、フルーツ飴の屋台で見かけたふくよかな少女の、美しい碧眼だった。


「ですが、彼女がこの辺りに住んでいる娘だということも知っていたんです。彼女が苦しめば、私の知人にだって、悲しむ人がいるでしょう。ジョゼさんやルネ君もそう、ルネ君のお母さんだってそう」

「だったら……!」

「そう、だからまずは、いなくなっても分からない人間で試そうと。苦痛は少ない方がいい。それから、死体は誰だか分からないほどにしてしまえばいい。……そうして夜な夜な出かけては、幾つも練習したんですが……ジョゼさんには、においで分かってしまったんでしょうね。残念な偶然でした」

「ト、マさん、……なに、言ってるの……?」


 淡々と、あくまで淡々と、トマは言う。「深夜、男が何かを引きずるような音と声が聞こえる」という噂の正体も、彼だったということか。では一体、どれだけの人間を殺めてきたというのだろう?

 一人殺してしまえば、二人三人と犠牲者を増やしたところで、人数など最早関係ない。島の人間を手に掛けた時に再び生まれた躊躇も、ジョゼによって遺体の素性が明らかになった途端、どうでもよくなった。そうしていくうちに、歯止めが効かなくなってしまったのだ。

 トマは青い瞳の少女を狩った。お針子のコレットが死んだのは、もう一人の少女の「青」を手に入れる際に起きた不慮の事故だったという。そうして作られた「魔法の絵具」は、トマのキャンバスに生き生きとした「青」を与えてくれた。山のような失敗作を破り捨て、今度こそは最高のヴィエルジェを描けると、トマは狂喜した。


「だけど、足りなかったんです」


 麗しのマドモアゼル。美しき王国の娘。乙女のフリル、至高の青――「ヴィエルジェ・ブルー」。それを描き出すには、やはり、足りなかったのだ。少女たちの犠牲の上に描かれた海は、確かに美しかったのだけれど、それでも。


 そうして、思い出してしまった。

 あの日、あの時、道に迷って彷徨っていた「ヴィエルジェ・ブルー」の存在を。


「私は、この青が欲しかった」


 ただそれだけなんです、とトマは笑う。ぞっとするほど無邪気な顔だった。


 きっと、芸術家であれば誰もが望むことではあった。己の望むものを、理想のマドンナを、我が手でこの世に生み出したい。トマのそれは富や名声を求めてのことではなかった。ただただ純粋に、「描き出したい」という狂気だった。狂おしいまでの恋であった。完璧な一枚さえ描ければ、どうだってよかった。誰に認められずとも、金が手に入らずとも、たとえ「トマ・コーヘン」という存在をこの世から消し去ることになろうとも。


 だから、以前からしつこくトマのもとへ訪れ、アンナの肖像画を描くよう――そうして城へ潜り込む手伝いをするよう言ってきていた、『花の獣』の手を取った。

 彼らはアンナさえ亡き者となればそれで良かったし、いつでも使い捨てられる「実行犯」を求めていたのだ。それを承知の上で、トマは頷いた。だって、どうだってよかったのだ。何もかもが取るに足らない。「至高の一枚」を世に生み出すことに敵うものなど、世界中探したって、何一つありはしない。


「ジョゼさんのことは尊敬していましたよ。その若さで、あれほどの作品を生み出すあなたは、天才だ。まあ、まさか悪魔の手を借りていたとは思いませんでしたが」

「……っ」

「ですから、その才能をこんなところで失うのは惜しい。……ええ、残念です」


 トマはそう言って、肩を落とす。彼自身はきっと、本当にそう思っているのだろう。まるで狂っているけれど、狂っているからこそ。

 ジョゼは緊張に乾いた喉をぐぅっと鳴らし、再び視線を周囲へ走らせる。気づけば、見知らぬ男たちにぐるりと囲まれていた。こうなってはいよいよ逃げられないが、もとよりアンナを置いて逃げる気もない。けれど、だからと言ってどうすることもできはしない。助けようとしたところで、ジョゼが動いた瞬間に、哀れな二人の少女が物言わぬ躯となり果てるだけだ。


 取り返しのつかない「もう一敗」を覚悟し、どうにか活路はないものかと、悪足掻きを考えたその時だった。


「人が多すぎて興醒めだよ。指し手は二人いれば充分さ。君たち、ルールは分かるかい?」


 実に愛らしいボーイ・ソプラノが木々の合間に降り注ぐ。

 耳に届くと同時、ぐにゃりと地面が歪んで

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