容疑者Aの述懐 麗しのマドモアゼル

 善良なるトマ・コーヘンに罪があるとすれば、ヴィエルジェ島という高嶺の花に、熱烈な「恋」をしてしまったことだろう。


 白く美しい建物が連なる景色に、澄み切った空の青と海の青。真っ白なウェディングドレスの裾から青いフリルを覗かせ、温かな海の中に佇む可憐な乙女の姿に、トマは一目で恋に落ちた。この美しき乙女ヴィエルジェの肖像を、誰より先に、誰より完璧に描き出したいと強く願ったのである。

 それは画家としての性であり、またプライドでもあった。先の戦争で男親を亡くしたコーヘン家に必要だったのは、どこぞの偉い先生に画才を認められた画家の卵ではなく、家計を支えてくれる働き者の息子だった。芸術の道はいばらの道。実るかどうかも分からぬくせに、金だけはやたらとかかる。その日の生活にも困るような有様では、夢など追えるはずもなかった。

 そうして家族の懇願を受け、筆を置かざるをえなかった彼が、人生四半世紀をとっくに過ぎて出会った初恋の娘こそ「ヴィエルジェ島」である。仕方がないと諦め、捨てたはずの絵画への情熱が、一目見るなりごうごうと音を立てて燃え始めた。船から眺める遠景も素晴らしいが、島の至る所、どこを切り取っても美しい。すっかり乙女の虜となった彼は何もかもを捨て、ヴィエルジェへと移住したのだ。


 トマはヴィエルジェを愛していた。もしかすると、領主のノワリー伯爵よりもずっと、この島を愛していたかもしれない。金は常になかったが、抜けるように青い空の色を愛し、花の一輪一輪をじっくりと愛でて、そして何より、「乙女のフリル」を彩るヴィエルジェ・ブルーを渇望した。

 少ない絵の具で何だって描けたトマが、この島で唯一描けなかった色。

 幾人もの画家たちに筆を折らせた、あまりに美しいその青を一番に手に入れられるならば、死んだっていい。悪魔に魂を売っても構わない。これまでヴィエルジェ島の魅力に憑りつかれた数多の画家が口にしたのと同じ言葉を、いつしかトマもまた、胸に抱くようになった。


 善良なるトマ・コーヘンは、学のある人物ではなかったけれど、決して軽率な男などではなかった。四半世紀と幾らかの人生において、彼が周囲を驚かせるような行動に出たのは、ヴィエルジェに移り住むと決めた時の一度だけ。

 香りで全てを描き出してしまう隣人の、若さと才能に嫉妬したこともある。愛らしい姿かたちで皆に愛され、何だって与えられる大家の息子が「トマさん」と声を掛けてくるたび、得体のしれない焦燥に駆られていた。けれども、トマは慎重で、堅実だった。画の道を志すということは、長く険しい道のりを歩んでいくことだと知っていたから。


 だから、そう。それは「魔が差した」のだ。


「絵具が欲しい? それならこちらへおいでよ」


 手招く声に惹かれ、トマは立ち止まった。


 立ち止まってしまったのだ。

 その声に応えてしまえば最後、トマ・コーヘンという男の人生が、無残な結末を迎えることになるとも知らずに。

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