花嫁の島 終

「すっかり暗くなっちゃいましたね……」

「ええ……。ごめんなさい、話し込んでしまって」

「いえ、あたしたちは良いんですけどアンナ様は……、ん?」


 ひとまずアンナを先に送り届けてから帰ろうと、アンナの侍女を含む四人で連れ立って歩く。楽しい時間はあっという間とはいえ、徐々に帰りが遅くなっていくことを考えれば、やはり護衛を連れて来てもらった方が安心なのかもしれない。

 そうして、伯爵の城へと伸びる石畳の入り口で、ジョゼが不穏な「におい」を感じたのは、夜になってもがやがやと賑やかな表通りを抜けた先でのことだった。


「ジョゼ? どうかした?」


 思わず足を止め、ひくりと鼻を動かしたジョゼに、つられて立ち止まった三人が首を傾げた。何でもないと答えようとして息を吸い込めば、また鼻を刺激する異臭。目の前の花壇の花をやんわりと覆うように、甘い果実の香りが。そして微かに鉄錆とアンモニアの混じり合うツンとした臭いが、脇道の奥から追ってくる。確かにその路地裏は、普段からあまり衛生的な場所とは言えなかったけれど、いつもの悪臭とは明らかに程度が違う。

 眉を顰め、においが、と呟けば、きょとんとしたアンナがジョゼの真似をして鼻をうごめかした。


「におい……ですか? 何も感じませんけれど……」

「あ、その、あたし実は……」

「この子、人より鼻がいいんですよ。もしかしたら、自警団の連れてる犬よりずっと鼻が利くかもしれないってくらい。……ジョゼ、においって?」


 言葉の続きを引き取ったルネに、ジョゼは頷いて返す。それから迷うように視線を彷徨わせ、目を閉じると、件の路地裏を指さした。臭いの元は、やはりここだ。


「ううん、分からないんだけど……こっち。嫌な臭いよ、血みたいな……。もしかしたら怪我人かも」


 声を潜めてそう言えば、怪我人という言葉に顔色を変え、ふらりと動きかけたアンナの肩を侍女が引いて留める。真面目な彼女が首を振れば、アンナは困ったように眉を垂れ頷いた。


「……ええ、ごめんなさい。何かあっては危険ですから、真っ直ぐ帰るべきなのは分かっています。……お二人も今日のところは。城に帰ったらお父様に伝えて、すぐにでも人をやりますわ」

「そう……ですね。わたしたちの手に負えないようなことなら、行っても仕方ないし……ねえジョゼ、行こう?」

「うん……」


 アンナの申し出も、ルネの言い分も、至極もっともだった。

 後ろ髪を引かれるような思いで路地裏を振り返るまでは、ジョゼだって彼らの意見に賛成だったのだ。けれど。


 ゆるり、暗がりへと吸い込まれていく人影ひとつ。

 街灯の下で僅かに見えた表情は、恐ろしいほどに冷たい目をしていた。


「……! 誰!?」

「あっ! ちょ、ちょっとジョゼ! 危ないってば!」

「ジョゼ! ルネ!? お、お二人とも待って……」

「姫様、いけません!」


 人影を追って駆け出したジョゼを、三人分の足音が追いかける。星が瞬き始めた空に響く少女の誰何に、ほろ酔い気分の大人たちも何だ何だと身を乗り出して、そのうち数人が腰を上げた。長く間延びした人の列が、汚れた路地裏へとぞろぞろ入っていく。暗い、と不満の声が上がれば、誰かがランプを前の者へと手渡して、灯りがどんどん奥へと運ばれていき、そうして。


「ひ……っ!? きゃああああああああ!!」

「え、な、何です、どうしたの!? 一体何が……」

「駄目、駄目ですこんな、見たらいけな……、っうぐ……ぇっ」


 最初に悲鳴を上げたのは、アンナの侍女だった。

 その後ろに立っていたアンナは、侍女に抱きしめられて視界を奪われたので、何か恐ろしいことが起きたのだということしか分からなかった。

 ルネは、可憐な藤色の目を限界まで見開いて唇を震わせると、う、と口を覆ってよろめくと、そのまま道の端に吐いた。それほどまでに、凄惨な光景だったのだ。


 足元に広がる水たまり。ランプの灯りではよく見えないが、きっと赤黒い色をしているのだろう。ほんの少しだけむっちりとした、けれど愛らしい少女の腕が、本来の白さを失ってくたりと地べたに垂れていた。見覚えのあるスカートから覗く脚は膝からあらぬ方へと捩じれ、仰向けに倒れた胴の上に、長い長い黒髪が、頭ごと無造作に置かれていた。


「……」


 先頭に立っていたジョゼは、しばらく声を失っていた。

 侍女の悲鳴を合図に、後ろから次々と怒声や足音が聞こえてきても尚、身動ぎすることすらできなかった。


 足元に散らばって、無残に踏み砕かれたフルーツ飴。

 頭と身体がばらばらになってしまった友人は、それをいたく気に入って、近頃ちょっと太ったのだとお腹を摘まんでは溜息をついていた。


「……マリー……?」


 変わり果てた姿は一見しても、誰のものだかわかるまい。けれど、ジョゼには分かってしまった。フルーツ飴が大好きだった食いしん坊のマリーは、いつだって、果物のような甘い香りを漂わせていたから。


 いつもあんなに柔らかく色づいていた頬は、血に塗れて汚れたまま。

 四人の「乙女」役の中で、一番くるくるとよく動き、愛くるしかった青い瞳はどこにもない。


 落ちくぼんだ空っぽの眼窩から目を離せないでいたジョゼの目から、ようやくぽろりと涙が落ちた。



◆◇◆



 ――驚いた、というのが初めの感想だ。

 においになんて気が付かなかった。香水店から出てくる一行をつかず離れず、そっと追っていた彼は、急に立ち止まったジョゼがぴたりと路地裏に――彼のいたすぐ脇の小道に視線を据えたのを見て、思わずどきりとしてしまった。

 尾行していたことがバレてはまずい。だって、そう「約束」したのだから。慌てて路地裏へと滑り込み、死角に入った隙にそのまま屋根上へと駆け上がる。手探りで奥へ奥へと進んでいく少女たち、それに従う人、人、人。アリの行列のようなそれを見るともなしに眺めていれば、先頭近くで絹を裂くような悲鳴が上がった。


「ああ、……これは」


 果たして、そこにあったのは一つの躯であった。

 嗅覚ひとつで「それ」を探し当てた少女は、気丈にも声一つ上げず、二本の脚でその場に立ち続けていた。


 冴え冴えとした月を背後に浴びて、男は僅かに眉を顰める。


「……厄介なことになったな」

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