第2話 チェスの作法

「序盤は本のように、中盤は奇術師のように、終盤は機械のように指せ」

「……え?」

「そういう言葉があるのだよ、調香師殿。そら、チェックメイトだ」

「あっ」


 ひょひょ、と笑う対戦相手に不満げな声を上げたジョゼは、両手を上げて降参の意を示す。満足げに煙管をふかす【賢人】が、その小さなずんぐりとした手をチェス盤に翳した。触れもしないのにかちゃかちゃと音を立て、最初の場所へと戻っていく白と黒の駒。ジョゼの拙い指し手をも忠実に巻き戻していく動きが、何だか嫌味で腹立たしい。そんなことを思っていれば、顔に出ていたのだろう、【賢人】はまた笑ってひょいとジョゼの黒い駒を一つ摘まみ上げた。


「せめてここでプロモーションすべきだったな」

「プロモーション?」

「左様。そのルールもご存知なかったかね?」

「知るわけないじゃない。チェスになんか興味なかったし、おばあちゃんも教えてくれなかったもの。この間、あなたが『暇だから付き合いたまえ』って言いだすまで、触ったこともなかったわよ」

「ふむ、そうか。知らぬこととはいえ、それはすまないことをした。では私が調香師殿のゲームの師ということになるな。……まあ、これについては簡単な話だ。この位置に来たポーンをもう一歩前に進めれば良い」


 かつんと音を立て、【賢人】の陣地の最奥にポーンが進む。ジョゼは首を傾げ、でも、と口を尖らせた。


「ポーンは前にしか進めないんじゃないの? そこに置いたら何もできなくなるわ」

「そのとおり。だから、『昇格プロモーション』しなければならないのだよ」

「……ええと、つまり?」

「ここに到達したポーンは、好きな駒に『成る』ことができる。もちろんキングを除いてだがね」

「え!? そうなの? 何でもってことは、クイーンでも?」

「もちろんだとも。実際、昇格先には最も強いクイーンを選ぶ者が多いだろう。状況によっては、他の駒を選ぶこともあるがね。まあ、そのあたりは戦況を見ながらだ」

「なるほど……、ねえ、すっごく頭の悪いこと言っていい?」

「ああ、何だね」

「多分そういうことじゃないと思うんだけど。でも、最弱が最強になれるって、ロマンね……」


 きらきらと緑の目を輝かせるジョゼに、【賢人】は珍しく噴き出すように笑った。それから、「ときに調香師殿」とのんびり話の帆先を変えて、ぷわりと甘い香りの煙を吐き出す。


「人が死んだそうだな。第一発見者の君が一番しっかりしていたと聞いたが、近頃の若い娘にとって、バラバラ死体というのは大して堪えるものではないのかね?」

「こ、堪えるわよ! みんなショックで落ち込んでるのに、あたしまでずぅっと暗い顔してるわけにもいかないから、なるべく気にしないようにしてるだけで……亡くなったの、友達だったんだから……」

「ああ、気落ちしているのは分かっているとも。テンションの浮き沈みがわざとらしい。更に集中力が全くない。だが、私が言ってるのは見た目の話だ」

「見た目? 遺体のこと? ……そっちはまあ、ひどいとは思ったけど。……脳みそ丸出しの赤ん坊とここ数日、毎日チェスして毎日負けてるのに今更というか……」

「なるほど、私で耐性が。哀れなことだ。実に可愛げがない」


 ふむ、と愉快そうに言うなり、また一つ煙の輪が吐き出された。【賢人】は人間の胎児のような姿をしているが、その頭の上半分は透明なドーム状に盛り上がっていて、ジョゼの視界からはつむじの代わりに異様に大きな脳が見えている。眼球でぽこりと盛り上がった両目は開いていないが、ジョゼの姿やチェスの駒は見えているらしい。くしゃくしゃに皺の寄った口は老人のようにも見えるし、話す言葉はいつだって比喩と皮肉に塗れて難解だ。まったくもって可愛くない。先日の事件現場とはまた違うが、これはこれで悪夢のような光景だ。

 そもそも、実際これはジョゼの見ている「夢」そのものでもある。ただの夢と違うのは、ジョゼに夢を見ている自覚があるということと、この奇妙な空間が人ならざる者の領域と繋がってしまっているということだった。ピンクとライトグリーンの空模様に、おもちゃのような星が瞬く空は、その日その時の気分で色を変える。ぬいぐるみのペガサスがふわふわと漂っていくのは大変可愛らしいのだが、その隣を目玉を剥き出しにしたゾンビ魚が大群で泳いでいくのは実に悪趣味である。そんな、メルヘンとグロテスクを足して割ったような「茶会」の主は、夢の主のジョゼでも「客人」の【賢人】でもなく、この夢がつながった先にいる鏡の怪物だ。


 べぇ、と舌を出したジョゼに気分を害したような様子もなく、【賢人】は笑う。そうして長いテーブルの先を顎でしゃくってみせ、空になったティーカップを振った。


「けれど、そんなことがあっても祭りは予定通りに行うのかね?」

「やめようかって話も出たみたいなんだけど」

「中止にできるはずもないさ。何てったって、未来の王妃様のお披露目会を兼ねてるんだ。まあ、その未来の王妃様の代わりにマリー嬢は死んだんだろうけど」


 噂をすれば何とやら。鏡の魔性のお出ましである。

 弾むようなボーイ・ソプラノがどこからともなく聞こえ、間もなくふわりと現れた赤毛の少年に、ジョゼはムッと口を尖らせた。


「……彼女が悪いんじゃないわよ」

「うん、彼女にはどうすることもできない。人間はしがらみが多くて大変だね」

「他人事だからって適当なこと言って」

「そりゃそうさ、悪魔だもん。人間の常識なんて知ったことじゃない」


 ムッとしたジョゼに構わずあっさりと答えたとおり、この「魔性」が何かを端的に言うならば、悪魔である。本人の自己申告を信じるのなら、誰よりも「誠実な悪魔」だそうだが、他に悪魔の知り合いなどいないので、そのあたりは置いておくとして。ジョゼがまだ言葉もおぼつかない幼児だった頃から、ずっと十代の少年の姿をした彼は、確かに人の理の外にいる。

 さてそんな夢の茶会の主人、見た目ばかりはとびきり愛らしい赤毛の悪魔は、髪よりもっと鮮やかな苺色の瞳を細めた。そうして、良く動くジョゼの顔のパーツが心底おかしいとでも言うように、くつくつ笑いながら【賢人】のティーカップにお茶を注ぐ。透き通った赤茶色からほわりと湯気が立ち上るのを眺めていれば、ほら、と手を差し出された。


「ともあれ、伯爵令嬢は生きている。なら仕事の依頼も生きているんでしょう?」

「……ええ」


 頷き、懐から取り出したのは小さな箱だ。中にあるのは、縁をレースで飾られた、すべすべと手触りの良い絹一枚。初めて出会った日、アンナがジョゼに託した「おまじない」のハンカチである。

 小箱はジョゼの掌を飛び出して、ふわふわと浮きながら長テーブルの端の席の前で動きを止めた。にんまり笑った悪魔が、ぱちんと指を鳴らす。箱が空気に弾けて溶けて、小さな絹の正方形が花のように広がった。端に刺された小花の刺繍が白い布地から逃げ出して、机に置かれた無地のポットを彩る。陶器の上で芽吹いた可憐な花々は、素っ気ないポットをあっという間に美しく染め上げた。華やかだが派手過ぎず、どこか素朴な花畑の意匠は、ハンカチの持ち主の印象とよく似ている。

 ジョゼは感心したように、ほうっと息を吐いた。


「相変わらず不思議よね。これ、ちゃんとまたハンカチの刺繍に戻るでしょう?」

「君がそうしろって言うからね。僕はこのまま貰ってもいいんだけど」

「駄目よ、お客さんのものなんだから。大体、あんたにあげたらろくなことにならなさそうだもの」

「ひどいなあ、もう少し僕のこと信じたっていいのに。僕は他の悪魔よりよっぽど……まあいいや。彼女の願いは、君が思う通りの香りになりそうかな?」

「ええ。素直に作って良さそうだわ」


 こてり、首を傾げて問うた悪魔に、ジョゼは頷いた。

 ポットの中に入っていた液体は、いつの間にやら程よく温まり、柔らかな芳香を漂わせている。小さなティーカップへと注がれた淡い空色の「願い」を一口含んで、ジョゼは少しだけ頬を緩めた。


 爽やかに、甘やかに、舌を撫で鼻に抜けていく夏の花束。

 すっきりと初々しい味わいの最後に香るのは、とろりと甘い乙女心だ。


「信用がないって言えば、魔法のポットの使い方だってそうさ。ソレを一滴と言わず、そのまま全て使ってしまえばすぐなのに」

「あら、これに関してはそんなんじゃないわよ。単に、そんなことしたら、あたしの仕事がなくなっちゃうでしょ。大体もうもの、こういうのは少しくらい遊びがあった方がいいのよ。それにね、」 


 どことなく不満げな、それでいて愉快そうに眉を上げた悪魔がそんなことを言うものだから、ジョゼは肩を竦めて笑ってみせた。


「魂は安売りするなっておばあちゃんに言われてるのよ」

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