チェスの作法 2
目を開けた時、ジョゼが立っていたのは店の二階の作業場ではなく、久々の自宅だった。このところ多忙にかまけて出勤をショートカットしていたのだが、少女の惨殺事件が起きた翌日の朝である。さすがに顔を見せておかねば、何かと世話を焼いてくれる下宿の女将も心配するだろうと、悪魔にこちらへ送ってもらったのだ。
ジョゼの目の前にあるのは、片付ける暇がないせいで雑然とした室内の中でも最も大きく、最も目を惹くであろう大きな姿見。拭かなくとも曇らないし、埃が積もることもない。おまけに、所有者が許可した場所であれば悪魔の力でどこへでも行き来できるし、鏡自体も勝手に動く。今繋がっているのは、このジョゼの部屋と作業部屋の二か所だ。そんな「悪魔の鏡」は、育ての親の遺品の中でも特にジョゼが大事にしている品である。
先代から続くオーダーメイドの香水、少女たちの憧れである「ルール・ブルーの香水」の製法には秘密があった。恋の願いを叶える、幸福を呼ぶ、巷でそう噂されている不思議な一品は、とある酔狂な悪魔の協力を得て作られる、正真正銘「魔法の香り」だ。と言っても、そこに強力な悪魔の力が宿っているだとか、そういうわけではないのだけれど。
ルーツはともかくとして、完成品自体は何の変哲もない香水である。因果を捻じ曲げてまで望みを叶える力もなければ、恐ろしげな対価も必要ない。依頼人の人柄と願いを見極め、最大限に本人の魅力を引き出せるよう、勇気を出して一歩踏み出す後押しをするような――そんな香りを作るヒントと「願い」の一滴を、悪魔はマダム・ルブランに与えてくれる。やけに愛らしい姿かたちをした悪魔曰く、「美しいものが好きだから」という理由で。
先代が亡くなった後、マダム・ルブランという称号を引き継いだジョゼは、契約もそのまま受け継ぎ悪魔と縁を繋いだ。悪魔本人の言葉を信じるのなら、対価はマダム・ルブランの生み出す美しい香りと、そこに込められた人々のささやかな願い――ひねくれた言い方をすれば、欲望というやつだ。そうして、「グルメ」な悪魔を満足させるためには、先代やジョゼのような並外れた嗅覚が必要だった。
人並の腕では悪魔を満足させることはできず、また、ありふれた素材では望みの香りを生み出すことはできない。故にこの関係はビジネスであり、己ほど誠実な悪魔は他にないと、悪魔は初めにジョゼに告げた。その言葉どおり、没した先代の魂は悪魔の領域に囚われることなく天へ昇っていった。……昇っていってしまったのだ。二度と会えない、はるか遠い天国へ。
「……おばあちゃん」
ひとり小さく溜息を吐いていれば、控えめなノックの音が聞こえた。顔を上げ、はい、と声を返せば、扉の向こうから微かに届くテレビン油のにおいに目を瞬く。
「トマさん? おはよう、何かありました?」
「あれ。よく私だと気づきましたね、ジョゼさん。……おはようございます。女将さんが朝食作ってくれてますが、食べられますか?」
「ありがとう、いただきますって伝えてください。……あ、」
「? どうしました?」
踵を返しかけたトマが立ち止まる。ひくりと鼻をうごめかしたジョゼは、そっと扉を押し開けた。廊下の先から漂ってくる朝食のパンと卵の香り、初夏の朝の少し湿った空気。広い背中を丸くしてこちらを見下ろすトマの、頻繁に洗濯などできるほど替えのないシャツからは、ほんのりと黴のにおいと、お決まりのテレビン油。それらに紛れるようにして、微かに、本当に微かに――血の臭いがする。
「……怪我でもしましたか?」
「え? ……あ、ああ。これですかね……?」
昨日ちょっと、と腕をまくって小さな擦り傷を見せたトマは、困ったように頬を掻いた。ざらついた質の悪い壁にでもぶつけたのだろう、傷よりも痣の方が目立つそれを手早くしまってから、彼は苦笑混じりに首を振る。
「こう、身体が大きいと、あちこちぶつけてしまうもので……。においましたか?」
「ちょっとだけ。大したことないなら良かったです、利き腕でもないみたいだし」
「そうですね。ぶつけたのが左で本当に良かった」
無精ひげをざらりと掌で撫でたトマは、眠たそうな目の奥を輝かせ、こう言った。
「今、とても大事な絵を描いているんです。私の人生、私の全てを託した、最高の一枚になる大事な絵を。……完成したら、ジョゼさんにも見ていただきたいですね」
同じ芸術家の端くれとして。
そんな風に言われ、ジョゼはくすぐったさに肩を竦める。
「あたしはそんなんじゃないですよ。ただの商売人だわ」
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