チェスの作法 3
いつもふぅわりと柔らかな笑みを浮かべているアンナが、少しだけ気落ちしたような――疲労の色を浮かべた顔で店に訪れたのは、お昼時を少し過ぎた頃だった。今日はこれまで付き添っていた侍女の代わりに厳つい体格の護衛が二人、アンナの一歩後ろに並んで控えている。
軽く目を見開き、どうぞと頷くジョゼに、アンナは「ごめんなさい」と頭を下げた。それに首を振って返すと、ジョゼは表の戸を閉めながら言う。
「あたしは構いませんよ。でも、今日はいらっしゃらないかと思ってたから、驚いちゃって」
「ええ……その方がいいのは分かっていたのですけれど、部屋にいても気分が落ち込んでしまって……。ジョゼこそ、お店を開けていて平気なのですか? その、ご友人だったと伺いましたし……昨晩は自警団の方とお話されて、夜も遅かったのではありません?」
「……まあ絶好調とは言えませんけど、動いていた方が気もまぎれますから」
そこまで言うと、お互い様かと思い至って顔を見合わせ、揃って苦笑した。生まれも育ちも生粋のお嬢様であるアンナと、孤児として拾われ、手に職を持ち生きていくジョゼ。似た者同士だとは言えない生い立ちと今後の人生を各々に抱えていても尚、どこか通ずるものはあるのかもしれない。奥の部屋へ三人を通し、いつものようにお茶と茶菓子をテーブルに並べたジョゼが座るのを待って、アンナがぽつんと呟いた。
「王都へ行くとき、ジョゼが一緒にいてくれれば、心強いのですけれど」
「……アンナ様」
「ふふ、ごめんなさい。あなたがいてくれたら、きっとどんな時だって楽しいと思っただけなの。だけど、ジョゼにはジョゼの人生がありますものね。……ねぇ、たまにはお手紙をくださいな。それだけで十分ですわ」
「文字も文も下手ですけど、いいですか?」
何しろ、きちんとした教育を受けたわけではない。ジョゼが知っているのは仕事をするのに必要な単語ばかりで、気の利いた言い回しなど書けもしないし、送られたって理解できるか怪しいものだ。そんなジョゼの言葉に首を傾げたアンナは、ピンとこない様子である。ええと、と目を泳がせて、頬を掻きながらジョゼは言った。
「あたし、おばあちゃんとこの島に来たっていうのは、この間お話したとおりなんですけど……おばあちゃんの実の孫じゃなくて、拾われっ子なんです。三つくらいの頃に、焼野原で死にかけてたところをおばあちゃんに拾われて、そのままおばあちゃんの弟子として、修行ばかりしていたので」
「まあ……そうでしたの。……ご両親は、先の戦争で?」
「はい。小さかったから、お父さんやお母さんの顔も全然覚えてないし、自分が死にかけてたってこともよく分からないんですけどね。……おばあちゃんが言うには、あたしには兄さんがいたらしいんですけど。その『兄さん』も、あたしを助けてくれっておばあちゃんに頼んだ後、息を引き取ったんだそうです」
「……それは……」
「ああ、まあ、その……だからですね! あたし、おばあちゃんに恩返しがしたくて! 早く一人前の調香師になっておばあちゃんを安心させてあげたいって、そればっかり考えてたから、お手紙の練習なんかしたことなくて……出す相手もいませんでしたし」
たははと笑うジョゼに、アンナは少し困ったような、悲しそうな顔で「そうなのですね」と頷いた。それきり追及もせず、余計に憐れもうともしないアンナに、ジョゼはそっと安堵の息を零す。実際、覚えてもいないような大昔の話なのだ。過剰なくらいに同情されることが億劫だからと、あまり人に話さないことにしているくらいには、ジョゼの中で折り合いもついている。
たわいない話として流したいというジョゼの気持ちを察してか、少し大げさなほど明るい声でアンナは言った。
「ええ、どんなお手紙だって構いませんわ。わたくしにとって大事なのは、『誰』がわたくしのために筆を執って、言葉を綴ろうとしてくれたかですもの」
それから、ちらりと護衛に視線を向けて、ジョゼを手招きしてみせる。首を傾げたジョゼが耳を貸せば、くすくすと笑いながらアンナは囁いた。
「王太子殿下も、あまりお手紙はお上手ではないのですよ」
「えっ? そうなんですか?」
「はい。初めの頃は、とにかく素っ気なくて。……ふふ。内緒ですよ」
ほんのりと頬を染めて微笑むアンナの表情は、これまで「ルール・ブルーの香水」を依頼してきた少女たちとよく似ている。……どうやら、望まぬ結婚というわけでもなさそうだ。目を合わせてくすくすと笑い合い、互いの椅子に座りなおした後で、ジョゼはホッと頬を緩めた。
「殿下とは、ずっとお手紙で?」
「ええ。初めはね、ご趣味のことで頼みがあるって、お父様にお手紙をくださったんです。この島でしか咲かないスズランの種が欲しいと」
ぽとり、ぽとりと温くて柔らかいものを落としていくように、アンナは語り始める。声色から言葉から、滲みだす香りは言わずもがな、優しい甘さに満ちていた。
スズラン自体は、そう物珍しいというほどの花ではない。けれど、この島に咲くスズランは他のものと比べ香りが甘く、花は小ぶりで控えめなのだそうだ。本来どちらかと言えば涼しいところを好む花なだけに、雪深い地域の者に「常夏の島」なんて呼ばれることもあるヴィエルジェ島に咲いているということも、特殊な進化を遂げた理由の一つかもしれない。
しかし、島民にとって当たり前の存在であるその「スズラン」が、実は特別なものであると知っている者は少なかった。伯爵もその一人だ。王子の言う「特別な花」がどれのことか分からず頭を悩ませ、猫の手も借りたいと頼った先が、城の中庭でささやかなガーデニングを楽しんでいたアンナである。
幼い頃から花祭りという行事に慣れ親しんできたアンナは、何より故郷を愛していたし、自分でも花を育ててみたいと考え勉強や試行錯誤を繰り返してきた努力家でもあった。そうして、父から王子への返信に花の種と共に、育て方や注意することなど事細かに記したものを書き添えて送ったことが、王子との「馴れ初め」となったらしい。
アンナの心配りとその内容の正確さに感銘を受けた王子は、それから改めて、アンナと文通を始めることにした。海を越えて語らう話題は植物についての相談に始まり、王都とヴィエルジェ島の文化の違い、近頃流行りのものが何か、そうして極々個人的な日々の話へと。「色恋にまるで興味のない堅物」と揶揄されることもある王太子が、そんな風に「伯爵令嬢」と何度も手紙を交わすことなど初めてだったものだから、周囲の者はたいそう驚いたそうだ。
ともあれ、憧れや愛玩よりも信頼を。恋情よりも親愛を。それらを優先して始まった穏やかな関係が実を結ぶこととなったのが、今回の婚約なのだという。
巷で噂のロマンスよりもずっと素敵な話だと、ジョゼはうっとり溜息を吐いた。けれど、アンナは俯きがちに小さく笑い、でも、と続ける。
「わたくし、肖像画がないでしょう? 殿下はわたくしの顔も見たことがないのに、急に婚約だなんて……わたくし、殿下をお慕いしておりますわ。もちろん殿下が、そのようなことをおっしゃる方だとも思いません。だけど、もしも実物のわたくしを見て、思っていたのと違うと言われたらと……少しだけ恐ろしくはあるのです」
「アンナ様……」
「だから、勇気が欲しかったの。ひとりでこのお店へ来る勇気、花祭りの舞台に立つ勇気――それから、自分に自信を持って、殿下のもとへ嫁ぐ勇気が」
ジョゼの脳裏に、アンナの願いを込めた「香り」が浮かぶ。
すっきりと初々しい爽やかな香りと、後に残る柔らかな甘さ。
「……大丈夫ですよ。きっとうまくいきます。あたし、アンナ様みたいなお客様を応援するために、調香師になったんですもの」
だから任せてくれと、ジョゼははっきり頷いた。
だってアンナは、本当にこの店へ一人でやって来た。それは若さゆえの無謀ではあったかもしれないが、自分で一歩踏み出していける娘だという証でもある。それに「ルール・ブルーの香水」を正しく理解している、賢い娘だ。それならジョゼの作った香りは、アンナの思いにきっと応えてくれるだろう。
彼女の一歩を最も軽くするには、さて、どんな香りを足せば良いのだろうか?
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