チェスの作法 4
さすがに今日は早めにと、日が傾く前に腰を上げたアンナを、店の入り口まで見送りに出た時だった。
「ジョゼ! ……アンナ様!」
「ルネ? どうしたの、髪ほつれてるわよ」
「いいよそんなこと! ともかく、二人とも無事でよかった」
息を切らして駆け寄って来たルネが、飛びつくようにジョゼの両肩を掴んで言う。いつも綺麗にセットされた髪型は風と汗でぐちゃぐちゃになってしまっていて、唇だって珍しいほどかさかさに乾いてしまっていた。尋常でない様子に昨日の事件が過ったジョゼは身構え、アンナの両脇にいた護衛たちが目を見合わせる。
悪い予感ほど当たるものだ。呼吸を落ちつけていたルネに、改めて何事かと問えば、彼は小さく息を吐いて首を振った。
「また【花冠の乙女】が殺されてたって。今度は犠牲者が二人、全然関係ない観光客の女の子もだ。不審な男が現場近くをうろついてたらしいから、女性はなるべく一人で外出しないようにって、さっきうちに自警団の人が来てさ。お店閉じた後、ジョゼが一人だから、トマさんと迎えに行ってあげなって母さんに言われ……あれ?」
「トマさん、いないわね」
「……途中で人混み抜けてきたから、はぐれちゃったみたいだ」
頬を掻くルネに肩を竦め、ジョゼはアンナに振り返った。不安げに揺れる青い瞳はジョゼとルネを順に見つめて、ゆっくりと瞬きする。
「あの、今日こそお家までお見送りしましょうか?」
「んん……、そう……ですね。トマさん見た目だけは厳ついから、いれば少しは安心だったんですけど……ぼく一人じゃ、逆に傍にいるジョゼが危ないかもしれないし」
「ルネ……」
「だってそうでしょう。花冠の乙女が死んでるんだ。昨日はマリー、今日はお針子のコレット。今日コレットと一緒に亡くなってたのは、彼女のお客だったお嬢さんだって。これで残ってるのは、ぼくとパン屋のリーズ、女王役のアンナ様だけだ」
それきり沈黙が降りる。「帰りましょうか」とジョゼが口を開くまで、重く落ち着かない空気が店先を覆っていた。
今年の花祭りを妨害したい者がいる。
誰が指摘せずとも、誰もが思い当たることだった。
初めの犠牲者は、遠目で見ればアンナによく似た黒髪碧眼の少女。二人目の犠牲者は彼女と同じ、「花冠の乙女」に選ばれた娘で、ついでのように殺された少女の存在は、犯人にとって人の命など花より軽いのだと主張している。
未だ誰のもとへも――伯爵へすらも、脅迫めいた文や要望を伝えるものが一つも届いていないということだけは、少々不思議ではあったけれど。
「……そういえば、不審な男、ジョゼも昨日見たんだっけ?」
「え? ああ、うん……すぐ見失ったんだけど」
問われ、頷く。暗闇にするりと滑り込み、そのまま煙のように姿を消した男。覚えているのは、すらりと長い手足に細身の体つきと、ぞっとするほど冷たい無表情だ。
あの男が犯人だったのだろうか? それにしては、ジョゼに見られて慌てているといった様子でもなかった。それに、犯人は目的の娘を殺すため他の人間を巻き添えにすることも厭わないような凶悪犯らしいのだ。それが尻尾を巻いて逃げ出したのもよく分からない。あの体格の男性であれば、その場で女子供の四人組の口を封じることくらい造作もなかったろうし、犯人の本当の狙いであろうアンナだってその場にいたのだから猶更だ。
「……知らない顔だったし、確かに怪しかったとは思うわ」
けれど、分からない。
曖昧にそう告げて、ジョゼは首を振った。昨日から気の滅入る事ばかり、「きっとこうだろう」と予測はできても確証はない。かと言って状況を打開できるような力が、ただの小娘のジョゼにあるはずもなく。
不安にじわじわと締め上げられるような居心地の悪さを感じながら、息を吐く。同時に隣でルネが溜息を吐き、アンナが少しだけそれを笑ってくれたことが、ささやかな救いだった。
◆◇◆
「トマさん、まだ帰ってないんですか?」
こんな状況で真っ直ぐ帰って来たなら夕飯のあてもないだろうと図星を指され、ルネたち家族の食卓にお邪魔していたジョゼは、素っ頓狂な声を上げた。夕方にアンナと別れてから、もうずいぶんと時間が経っている。日はとっぷり暮れて空には星が瞬いているし、わざわざ外を出歩いているのは、数人組で見回りを続ける自警団の面々くらいのものだ。
困った顔で頷く女将に眉を垂れて返せば、煮込んだ蕪をはふはふと咀嚼しながらルネが言う。
「あれ、そうなの? こっそり帰って来て、部屋で寝てるってことは?」
「無いと思うけどねえ。一応、後でトマさんの部屋見に行ってくれるかい、二人とも」
「あ、じゃああたし今ちょっと見てきちゃいますよ。美味しかったです、ごちそうさまでした」
「はいはい、お粗末さま。悪いけどお願いね」
黒パンの残りを口に放り込み、ジョゼは立ち上がった。まだもぐもぐと口を動かしているルネにひらりと手を振り、ランプを片手に廊下に出る。突き当たりの部屋が、トマのアトリエ兼自室だ。
ノックを一度、二度。返事はないし、人の気配もなさそうだった。
トマが常に身にまとっている「油絵のにおい」を濃くしたものが、ドアの隙間から染み出してはいるものの、それは人の体温で温められたにおいとはまた違う。開けずとも分かった。トマが中にいないというのは間違いない。
「やっぱり帰ってなさそうね……」
呟き、踵を返そうとした時だった。トマの部屋からがたがたと窓枠を揺らすような、不穏な音がしたのは。
「……トマさん?」
まさか、そんなはずはないと分かっていた。トマ本人が帰って来たのなら、わざわざ窓から入ろうとする必要などない。女将もルネも、ジョゼだってまだ起きている時間帯だ。けれど、ならば、焦ったように窓枠を軋ませているのは?
(泥棒……!?)
ゾッと鳥肌を立て後退れば、とうとう焦れた何者かが、窓に石を投げつけたようだ。がこん、ぎぃ、と窓の扉が壊れる音がして、ジョゼは息をのむ。今この家に男手はルネしかおらず、あの細腕に狼藉者と戦えるほどの力はないだろう。いっそジョゼの方がよほど腕っぷしが強そうなほどだ。
咄嗟に廊下の窓から身を乗り出し、侵入していく人影を確認しようと思っていれば。
「……え? 誰もいない……? あっ! あんた、この前の!」
「!」
通りの向かい側、またも路地裏の影にその男は佇んでいた。凍り付きそうな無表情に、感情のない目。トマの部屋の窓を睨みつけ、長い手足を組んで壁にもたれていた彼は、鉄面皮を一瞬だけ驚いたように動かして、それからするりと闇の中に滑り込んでいく。
途端、ジョゼの頭の中から、一切のことが吹き飛んだ。
こんな時に一人で出歩くべきではない。追いかけてどうにかなるものでもないし、空き巣が入ったかもしれないと、女将に伝えておく方が先だ。けれど、ジョゼは昨日からもやもやと続いている閉塞感にうんざりしていて、どうすることもできず、状況が変わることもない事実に苛つき始めてすらいたのだ。
「ッ、待ちなさい!」
チェスの師である【賢人】曰く、「序盤は本のように、中盤は奇術師のように、終盤は機械のように指せ」という。それが上手いプレイヤーの指し方であり、全ての知的活動に応用できる思考でもあるのだと。
けれど、ジョゼは若かった。若く、青く、だからこそ、行動力だけは人一倍だ。
開け放った廊下の窓から飛び出して、ジョゼは男の後を追い、暗い路地裏へと駆け出して行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます