第54話「三人の、いつも通り」

「や、おはよう」


 玄関を開けると、中野が立っていた。

 最近、すっかり当たり前になった日常。ここ何日かは、それも失われていたけれど……、今日、ようやくいつも通りの朝に戻った。

 そう、何も変わらない、いつも通りの朝。


「おはよう、中野。ちょっと待っててくれ……って、どうした?」


 おはように、おはようと返す。

 特段、変なことを言ったつもりはないが……何故か中野は、むっとした表情になり。


「涼太郎、何か忘れてない?」

「忘れてる? ……ああ」


 若干、棘のある口調で、そう問い詰めてくる。

 初めは何のことか分からず、困惑したが……すぐに理由が分かった。


「……杏子。って、呼べってことか?」

「ふふ。正解」


 いつも通りの朝。だけど、いつも通りじゃないこともあって。

 例えば、今までずっと名字で呼んでいた友人を、名前で呼ぶようになったりだとか。

 今まで知らなかったけど、目の前にいる友人が、俺のことを好きだと言ってくれたりだとか。


 ……って、そんなことを考えている場合ではない。

 俺は、今日から本当に中野のことを、名前で呼ばなきゃいけないのか……!


 妹を、下の名前で呼ぶ。それは、普通のことだろう。

 男友達を、下の名前で呼ぶ。まぁ、それも別に。特段、取り立てて騒ぐことでもない。


 では"女友達"なら?


 これは、人によるところもあるだろうが……少なくとも俺は、簡単に出来ることではないと思っている。

 というか、出来るならやってる。前にも、何度か中野から言われたことがあったしな。


 その度に、のらりくらりと乗り越えてきたが……流石に、今回ばかりは事情が事情だ。とはいえ、やはり恥ずかしいものは恥ずかしい。

 周りからどう思われるとかじゃなくて……何ていえばいいのか、こう、気持ち的な問題というか。


「……ふふっ。ごめん、困らせてしまったね」


 と、俺が何を考えているのか勘ぐったのか、中野は急に笑い出し。


「冗談だよ。別に、怒ってなんか無いさ。涼太郎が、呼びやすい名前でいいよ。というか、涼太郎から名前で呼ばれるのは、僕も少し恥ずかしいってことに気づいたからね。急に変化をつけるのは、案外逆効果かもしれない」

「……そ、そうか?」

「ああ。もちろん、涼太郎が名前で呼びたいって言うなら、止めないけど?」

「……すまん。もう少し待ってくれると嬉しい」

「了解。そうだねぇ……それじゃ、涼太郎が僕の恋人になったら、その時はまた名前で呼んでもらおうかな?」

「こいびっ──おま、何を朝から」


「──二人とも、何してるの?」

 

 そんな問答を中野と繰り返していると、後ろから低い低い声色で。


「あ、涼奈ちゃん。おはよう」

「おはようございます、杏子さん」


 振り向くとそこには、ニコニコとした笑顔を見せる涼奈の姿が。

 笑顔が逆に怖い。怖いよ、涼奈。


「ふふっ。ごめん、涼太郎の反応が面白くってね。ついからかっちゃった」


 中野がそう返すと、はぁ、と一つため息をつき。


「確かに、申し訳なく思う必要はないって言いましたけど……。とりあえず、準備してくるのでちょっと待っててください」

「あ、俺も準備しないと! "中野"、ちょっと待っててくれ」


 涼奈の後を追い、部屋に鞄を取りに戻る。

 意気地なしだとか、ヘタレだとか、もう好きに呼んでくれ。

 中野には申し訳ないけど、やっぱりこっちの呼び方の方がしっくりくるんだ、俺は。



「──というわけで、何かお詫びが出来ないかなと思ってね」


 授業も終わり、いつも通り部活の時間。

 結局、今日も俺と涼奈、そして中野の三人で活動をすることとなったのだが……そんな中、中野が突然、この間のお詫びをしたいと言い出した。


「別に、何かを詫びられるようなことは無いと思いますけど……」

「まあ、気持ちの問題だよ。二人が気にしていなくても、僕が気にしてしまうんだ。色々と、迷惑をかけてしまったことに」


 俺も涼奈も、特に気にしていることなどない。

 こうして、一応は元通りに戻ったわけだし……それをどうこう言うつもりは毛頭ないのだが、中野はそれで満足しないらしく。


「来週から、夏休みだろう? だから、みんなで一緒に海へ行きたいと思ってね」

「海……ですか?」

「うん。実は、僕の実家と所縁のある旅館があってね。毎年、気分転換も兼ねて一人で施設を使わせてもらってたんだけど……良かったら、今年は三人でどうかなって。ちなみに、許可は貰ってるよ」

「旅館って……」

 何というか、中野家のスケールの大きさを再確認させられてしまう。

 結局、実家が何をしているのか……なんてことは知らないけど、ひょっとしたら、俺の想像以上かもしれん。

「それか、この間使ったとこでもいいけど……涼太郎も僕も、あそこに行ったら色々思い出しちゃうかもしれないからね」


 ちょ、それは言わないで!

 涼奈の機嫌がちょっと悪くなってるから……!


「ふふ、冗談だよ。……けど、今までこの三人で遊んだことってないからさ。ちょうどいい機会かなとも思ったのも事実だよ。だから、誘い自体は結構本気なんだけど、どうかな?」

「……まあ、お詫びとかっていうのは全然気にしてないんですけど。でも確かに、三人で何かできるのはいいですよね」


 そう言い、割と乗る気な涼奈。


「涼太郎は?」

「俺も別に構わないけど……」


 涼奈はまだいいとして、中野と泊りがけっていうのは、若干悩むところではある。

 そりゃ、気心知れた友人とはいえ……男女だしなぁ。


「よし、それじゃ決まりだね。また日程は一緒に考えよう」

「あ、はい。分かりました」


 しまった、もう決定されてた。

 ……まあ、いいか。別に、何かするわけじゃなし。

 部屋だって、別々にすれば大丈夫だろうし……ただ、三人で遊ぶだけ、だからな。



 

 ──と、この時の俺は、楽観的に考えていた。

 まさか、あんなことになるなんて思いも知らず……。


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