第34話「杏子さんは、お兄ちゃんのことが好きなんですよね?」

「だ、大丈夫だったんですか? それ」


 杏子さんの話を聞いて、思わず身を乗り出してしまいそうになってしまう。

 私の考えていることが正解だとしたら……杏子さんは。


「ああ、ごめんね。心配をかけたみたいで。といっても、そこまで酷いものじゃなかったから大丈夫だよ。せいぜい物を隠されるだとか、無視されるだとか、そんな可愛いものばかりだったから」

「……全然、可愛くないと思いますけど」


 杏子さんの口ぶりから、そこまで大きな出来事じゃなかったように聞こえるけど……実際はどうなのか分からない。


「ちなみに、理由は尋ねても大丈夫なんですか?」

「んー、理由なんて、大した事じゃなかった気がするよ。とある女の子には好きだった男の子がいた。けど、その男の子は別の女の子が好きだった。そのことに嫉妬したとある女の子は……みたいな、そんな理由だったと思う」


 よくある、女の子同士の話だった。

 きっと、その男の子が好きだった別の女の子ってのが……杏子さんなんだろうな。


「だから僕は、しばらく学園では一人で過ごしてたんだ。といっても、一人でいることには慣れてたからね。そこまで気にはならなかったよ」


 慣れてたって、どういうことだろう。

 少し気になったけど、それより尋ねたいことが。


「じゃあ、もしかして……お兄ちゃんが、杏子さんのことを助けてあげたとか、そういうことですか?」


 この質問の大本は、杏子さんがどうしてお兄ちゃんのことを好きになったのか、ということだ。

 話の流れからして、そう考えてしまう。

 お兄ちゃんが、困っている杏子さんを助けた。だから、杏子さんはお兄ちゃんのことを好きになった。

 そう考えるのが自然……だと、思っていたんだけど。


「いいや。涼太郎は、別に何もしていないよ」

「え?」


 どうやら、それは違ったみたいだ。


「お兄ちゃんが助けてくれたから好きになったとか、そういう話なのかと思っていたんですけど……違うんですか?」

「ふふっ。まあ、何もしていないってのはちょっと嘘だけどね。……そうだね、涼太郎はただ隣にいてくれたんだ」

「隣に?」

「ああ。誰も来ないことを知っていた僕は、お昼になるといつも部室で一人でお昼ご飯を取っていたんだ。教室にいても、クラスの女の子の視線を感じて、集中できなかったからね。そんな時、たまたま涼太郎が部室へやってきたんだ」



「あれ? ここ、誰か使ってたんですか?」


 一年生、高垣涼太郎が先日入部届を提出したボランティア部の部室を訪れると、女子生徒が一人、そこでお昼ご飯を食べていた。


「……君は?」

「俺は高垣涼太郎って言います。一年生で、一応この部に入部したんですけど……」

「ああ、そうだったのか。僕は中野杏子。同じ一年生だから、敬語はいらないよ」

「なんだ、一年生だったのか。てっきり先輩なのかと……」

「それより、部室に何か用事でも?」


 女子生徒、中野杏子は尋ねる。

 今までお昼休憩の時間に、この部室を尋ねるものなどいなかった。

 なので、この高垣涼太郎と名乗る人物が、どうしてここへやってきたのか、気になったのだ。


「ああいや、いつも一緒に昼飯を食ってた友達がいたんだけど、どうも彼女が出来たみたいで。それで、一人でご飯を食べることになったんだけど……なんつーか、教室で一人ってのも寂しいなと思ってな」

「だから、誰も使っていないこの部室に来たってことだね」

「ああ。……けど、先客がいたとは思わなかった。えっと、中野さんだっけ……。中野さんは、一人で昼飯食ってたのか?」

「まあね。僕も君と同じで、ちょっとばかし教室には……いや、何でもない。それより、座らないの?」

「いいのか? どこか別の場所に移ろうかと思ってたが」

「ここは部室だからね。同じボランティア部の部員なら、追い出す理由も、権利も僕にはないよ。それに……」


 嫌になったら、僕が別の場所へ移ればいいから。

 そう言いかけて、中野杏子は口を閉じた。

 それを、わざわざこの男に説明することは無い。そう思ったのだ。


「それに?」

「いや、何でもないよ。それより、早くお昼ご飯を食べないと授業が始まるんじゃないかい?」

「っと、そうだったな。んじゃ、この席借りるぞ」

「ああ。どうぞ」


 その後、二人はこれといった会話を交わすことは無かった。

 各々食事を済ませた後は、自分の好きなことをして時間をつぶし……たまに、一言二言、喋りはするものの。


「クラスは?」

「五組」

「そうなのか。俺は二組だ」

「へえ」


 最低限の言葉のみ。

 やがて、お昼休憩が終わる五分前のチャイムが鳴り響き。


「それじゃ、戻ろうか」

「そうだな。……っと、その前に」

「ん?」

「明日も、来ていいか? 思ったより、居心地良いな、ここ」

「……・ふふっ。それを決めるのは高垣君、君自身だよ。僕は部長じゃない。だから、君の決定に、異を唱えることは出来ない」

「そか。んじゃ、また明日な」

「……ああ、また明日」


 また明日。

 そんな言葉を聞いたのは、いつぶりだろうか。


 翌日からも、高垣涼太郎は毎日部室へとやってきた。

 やがて、少しずつ二人の間に会話が増えてきて。


「涼太郎って、呼んでもいいかい?」

「ああ、それは別に構わないけど」

「じゃあ、涼太郎も僕のことを、名前で呼んでくれるかな?」

「な、名前!? いや……それはちょっと難易度が高いというか」

「ふふっ。じゃあ、慣れたらでいいよ。涼太郎が僕のことを名前で呼びたくなったら、その時はそうしてくれると嬉しい」

「……分かった。そのうちな、そのうち」


 今ではすっかり、二人が一緒に食事をとるのが当たり前になっていた。



「それから、涼太郎も僕も、お昼に部室へ集まることが日課になってね。気づいたら、部活動にも出席するようになってたのさ」

「そうだったんですか……ちなみに、クラスの子たちとは、その……」

「ああ。進級してからはクラスも別々になったからね。今は特に何もないよ。だから、安心して」

「……なら、良かったです」


 安心した。どうやら今は、大丈夫みたいだ。


「さて、涼奈ちゃんの質問は『どうして涼太郎のことを好きになったのか』だったよね。申し訳ないけど、その質問に答えるのは少し難しいかもしれない」


 杏子さんは続ける。


「好きになった明確な理由は無いよ。毎日一緒にいるのが当たり前になって、気づいたら涼太郎が大切な存在になっていたんだ。涼太郎は意識していないと思うけど、僕はその『当たり前』に随分と救われてきた。今までずっと一人でいることが当たり前だったからね。だからこそ僕は、涼太郎のことが好きだし……幸せになってほしいと思ってる」

「幸せになってほしい……ですか?」

「ああ。けど、僕には涼太郎のことを幸せにすることは出来ない」


 ……どういう意味だろう。

 杏子さんは、お兄ちゃんの幸せを願っていると言った。

 けど同時に、杏子さんはお兄ちゃんを幸せにすることは出来ないとも言った。


「杏子さんは、お兄ちゃんのことが好きなんですよね? だったら、自分でお兄ちゃんのことを幸せにしてあげたいとか……思ったり、しないんですか?」


 そう尋ねると、杏子さんは。


「さっき言った通りだよ。僕じゃ、涼太郎のことを幸せにしてあげることは出来ない。涼太郎に恩を返すことは出来ても、最終的にはきっと涼太郎を不幸にしてしまう。だから僕は、涼太郎のことを幸せにできる人物をずっと探していた。涼太郎の幸せを本気で願っている人物を。そして、その子が見つかったら、全力でサポートもしようと思っていた」

「それって……」

「涼奈ちゃん、君なら涼太郎のことを幸せにすることができる。そう思ってるよ」


 杏子さんは、そう言った。

 嘘をついているようには見えない。心の底から、本気でそう思っているんだろう。


「……つまり杏子さんは、私のことを応援してるってことですか?」

「応援ってほど、大したことはしていないけどね。涼奈ちゃんと涼太郎の距離が縮まるように、涼奈ちゃんをあえて煽るような言い方で部活動へ誘ったり、きっと二人で学校に行くのは難易度が高いだろうから朝迎えに行ったり、もっと仲良くできればと思って涼奈ちゃんの態度を指摘したりはしたけど……」


 それって、私がずっと杏子さんに抱いていた疑問だ。

 どうして杏子さんは、お兄ちゃんのことを好きなはずなのに、結果的に私が得するようなことばかりするんだろうと思っていた。

 けど……それって。


「杏子さんは、お兄ちゃんのことが好きなんですよね?」

「ああ。もちろん」

「じゃあ、お兄ちゃんと付き合いたいとか……思わないんですか?」


「思わないよ。いや、思えないかな。僕じゃ、涼太郎を幸せにすることは出来ないからね」

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