第5話

 わたしが何も言えず固まっている間に、わたしを抱きしめたままの南雲部長からほっと息を吐いたような声が聞こえた。少し、身体が震えている気がする。少しは落ち着いてくれているんだろうか。わたしの体温で。

 しばらくそうしていたら、気が済んだのか南雲部長はようやくわたしから身体を離した。あんなに流れていた涙はいつの間にか止まっていて、多分目や鼻が赤かったと思う。

 わたしを見て、可笑しそうに彼は笑って。

「なんつー顔してんの。……お疲れ」

 まだ乾いてない髪を、誤解してしまいそうなほど愛おしげな手つきでそっと撫でられた。濡れて固まった毛先をぱらぱら、と崩すように触れられ、思わず目をぎゅっと閉じる。くすり、と小さく笑われた吐息に、どきどきした。

「早く風呂入って、着替えろよ」

「分かってるよ……」

 あぁ、また敬語が抜けた。

「南雲部長も、早く帰ってあったまってくださいね。濡れたんだから」

「はいはい」

 俺も早く帰るよ、ともう一度あやすように頭を撫でられて。

「おつかれさま、でした」

 小さく頭を下げ、わたしは半ば夢見心地のまま呆然と車を降りた。


    ◆◆◆


 あの日以来なんとなく、南雲部長を避ける日々が続いた。

 最低限仕事のこと以外で彼と話すのは極力やめて、以前みたいに南雲部長が仕事中でも構わず話しかけに行く……なんていう今考えると迷惑極まりない行為も控えるようにした。

 部署のみんなはそのことに少し違和感を覚えたようだ。間宮が大人しくなった、と一時期話題が持ちきりだった。それもほんの一過性で、すぐに日常へと戻っていってしまったけれど。

 幸いにもここ最近はずっと快晴、もしくは曇り空で、夜に雨が降っているということはなかった。

 深く関われないのはちょっと寂しいけど、これでいいのだと思う。また雨が降ろうものなら、わたしはきっと絶対に、南雲部長を放っておくことなんてできないんだから。

 ……あぁ、でも。

 いざ雨が降って、いつものようにまた、南雲部長と二人で帰る時が来てしまったら。

 わたしは南雲部長と、まともに顔を合わせることができるだろうか。


 ――あいしてる、だなんて。

 あの日どうしてわたしの耳元で、あんなこと言ったの。

 どうしてあんな風に、わたしを抱きしめたの。まるで愛おしいものを見るように、わたしを優しく見つめたの。

 それは本来さらさんに対する言葉であって、さらさんが受けるべき態度であったはず。それなのに、どうして。

 気まぐれにしては、あまりに残酷だ。

 それともあの一瞬だけでも、わたしをさらさんに見立てたの?

 顔も体型も、声も性格も、何もかも。わたしとさらさんは、似ても似つかないはずなのに。

 それでもあの時だけは、南雲部長の目には、わたしがさらさんに見えた?

 それならばいっそ、夢のままで。幻のままで、いさせてほしかった。


 せめて、南雲部長が代わりの慰めを見つけるまでは。そうだ、南雲部長の気が済むまででいい。

 雨が降っていたら、彼の傍にいなきゃいけなくなってしまうから。

 ……いや、違う。わたしが傍に、いたくなってしまうから。


「間宮さぁん」

 定時が過ぎ、今日は残業も残っていないのでそそくさと帰り支度を整えていると、後輩の武藤むとうくんが話しかけてきた。

「んー? どしたの」

 手を止めないままのんびりと答えれば、人懐っこい笑みを湛えた武藤くんはわたしの顔を覗き込んで――彼はわたしと同じく、パーソナルスペースが極端に狭い――こてんと可愛らしく首を傾げた。

「間宮さん、この後暇です?」

「このあとぉ? 別に、家に帰るだけだよ」

「じゃあたまには飲みに行きましょうよ。明日休みだし」

「お、悪くないねぇ」

 今日はいわゆる、花の金曜日。

 どこぞのホワイト企業みたいに、三時とかで業務を終えて帰れる職種ではないけれども、やっぱり翌日休みという免罪符は大きい。

 あまりに邪気のない笑みにふふ、とわたしもつられて笑ってしまった。

「いいよ。行こうか」


 南雲部長は自分のデスクから一歩も動かず、仕事に熱中している。パソコンを前にして、一心不乱に何かをチェックしているようだ。

 あの様子だと、今日は残業だろう。週末ならば、なおのこと。

 南雲部長は割と細かいことを気にする性格だから、部署内で行われた業務内容の全てに目を通す。全員の仕事に穴がないかをチェックして、足りないところはフォローする。そうやって、円滑に部署を回すのだ。

 内助の功というか、縁の下の力持ちというか。

 南雲部長のそういった仕事ぶりや姿勢をわたしは何より好み、そして心から尊敬していた。

「南雲部長、今日も残業みたいですね」

 わたしの視線に気づいたらしい武藤くんが、ほぅ、と感嘆を零す。

「また一個ずつチェックしてくれてるんだなぁ……助かるけど、大変そう」

 上の立場ってやっぱ無理そうっすわ、と笑う武藤くんに、「だよねぇ」とぎこちなく笑みを作った。内心を悟られぬよう、慎重に。

「――石川いしかわ、ちょっと」

「はい」

「この部分だけど……」

 淡々とした南雲部長の声が、人もまばらになったオフィスに小さく響く。

「早く行きましょ、間宮さん」

「あ、うん」

 ぼうっとしていたら、武藤くんに急かされた。我に返ったわたしは、変に思われるといけないと思い直し、慌てて足を進める。

「そうですね、そこは――……」

 南雲部長と石川さんの声を背に、半ば上の空のまま、わたしは武藤くんと連れ立ってオフィスを出た。

「お先に失礼しまーす」

「……失礼します」

 南雲部長がこちらを気にもしてくれないことなんて、いつものことだ……と自分に言い聞かせる。だから何だというのだ。わたしたちは別にそういう深い関係じゃないんだし、当然じゃないか。

 ……それでも、もやっとした気持ちは晴れなかった。


 会社を出て、武藤くんと歩きながら見上げた空は、いっそ腹立たしいくらいの快晴で。澄み渡った夜空に、いくつもの星が瞬いていた。

 それはまるで、わたしの存在を真っ向から否定しているみたいで。

 お前はもう、南雲部長にとって必要ない存在なんだよ、って言われてるみたいで。

 どうしようもなく悲しくなったと同時に、そんなひねくれた考え方しかできない自分に、心の底から失望した。

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