第4話
「あぁ、南雲部長……おつかれさまです」
にっこりと笑ってみせると、南雲部長はますます表情を歪め、はぁ? とでも今すぐに言いだしそうな顔をした。普段落ち着いている彼が時折見せる、こういう子供っぽい表情が、好きだ。
「何がお疲れ様です、だ。呑気に笑いやがって」
ったく……と彼は心底呆れた調子で自らの頭に手をやった。なんだか今日は機嫌が悪いようだ。まぁ、彼の嫌いな雨だし仕方ないんだろうけど。
「傘は」
「今日は気分じゃなくって」
本当の理由なんて言えるはずもないから、へらり、と笑って適当にごまかした。わたしは基本的に気分屋ということで通っているので、そんな答え方をしても何ら不自然ではない……と、思う。
しかし南雲部長的には、この答えはお気に召さなかったらしく。
こちらに伸びてきた温かい手が、その心地よい体温とは裏腹に、わたしの冷えた額を容赦なくぺちっと叩いた。
「いった!」
「あほ」
早く乗れ、と相変わらず不機嫌そうに、助手席を指さした。
車が濡れる、と騒ぐわたしを無視して、南雲部長は半ば無理矢理に、わたしをいつもの助手席へと押し込んだ。濡れた身体から滴る雨水が、案の定車のシートを濡らす。
「後でドライヤーお持ちするんで」
申し訳なさから、よく考えると自分でもよくわからないことを申し出ると、「いらない」と無下に断られた。
わたしが歩いていたところから家まではもともとそんなに距離がなかったので、数分もなく家の前へ着いてしまう。
「すみません、ありがとうござ……わふっ」
わたしが降りようとする隙をつくように、唐突にばさりっ、とタオルを被せられた。どうやら後部座席にもともと乗せていたものらしく、ふかふかした手触りからじんわりと温かさが広がる。
謎の声を上げて急に静かになったわたしに、南雲部長は声もなく目を細めて。両手を使って包み込むように、けれど力強い手つきで、わたしの濡れた髪をわしわしと拭いてくれた。
「……お早いお帰りでしたね」
しばし続いた沈黙。
いつもみたいに勝手に気まずくなって、だからと言って寝てしまうこともできないまま、やっぱり耐えきれなくなったのはわたしの方だった。
「いや、そんなことはない」
わたしの頭を拭く手を一瞬だけ止めた南雲部長は、存外優しい顔でゆうるりと首を横に振る。
「夕方には終わってあっちを出てきたし、今回の出張先は車で二時間もかからないとこだった。だから、こんなもんだと思うけど」
「じゃあ、なんでここにいたんです?」
通り道じゃないですよね、と首を傾げれば、「あほか」とタオル越しに頭をぽんっと叩かれる。今度は普段ふざけている時みたいな、泣きたくなるほど優しい手つきだった。
「お前は知らないかもしれないけど、高速降りてそのまま直帰するとしたら、俺の場合どっちにしろお前の最寄り駅を通ることになるんだ。で、家に向かってたらびしょ濡れで歩いてるお前を見かけて、声掛けたってわけ」
「そうなんですね……」
やっぱり偶然だよな。そりゃそうか。
わざわざわたしに会いに来ようとしてたとか、そんな都合のいい幻想あるわけないか。そりゃあ、早く家に帰りたいに決まってるよね。
「まぁ、雨降ってたし……」
そう諦めかけていた、けれど。
「偶然でも会えたのはラッキーだったな」
そのあとぼそり、と付け加えられた言葉に、萎れかけていた心が途端に潤い。ふわり、と再び浮き上がるのを感じた。
……なんて、こんなことくらいでまた期待しちゃう自分があまりに単純すぎて情けないんだけど。
ぐ、と込み上げてくる何かに耐えるように、顔を背けようとする。けれどタオルに包まれた頭はまだ南雲部長の両手に捕らわれたままだったので、身動きができなかった。
「……どうした?」
手を止めた南雲部長が、じっとまっすぐに見つめてくる。いつもよりトーンの落ちた優しく低い声に、鼓動が速くなった。
嫌だ。こんなの、いけないことなのに。
どうしてこんなにもわたしは、この人を好きだって思ってしまうんだろう。いつだってそう、思わされてしまうんだろう。
ぼろり、と勝手に涙が零れる。拭う間もないままに、わたしの頬を次々に大粒の滴が伝っていくのが分かった。
「何で泣くの」
「ちが、っ……う、もん。これは、雨で」
「ここは車内だぞ。雨降ってるわけないだろうが」
下手な言い訳はやめろ、と笑う南雲部長に、ますます胸を締め付けられて。
「……なぁ。どした?」
問いかけてくる南雲部長の口ぶりは、そっけなく冷たいようでいて。
「何かあったのか?」
「っく、何でも……ない、」
「何でもないのに、泣くわけないだろう?」
まるでぐずっている小さな子供に問いかけるようでもあり、拗ねてしまった恋人を宥める時でもあるような。
そんな、どこまでも。どうしようもなく、優しい口調だった。
いつまでも口を割らないまま泣き続けるわたしに、南雲部長は小さく溜息を吐く。呆れられたかな、と思っていたら、タオルを乗せた頭から離れた両手が、投げ出していたわたしの両手を不意に包み込んだ。
わたしの小さな手などすっぽりと隠してしまう、南雲部長の大きな手。こうしてるとわたしたちの体格差は歴然で、まるで大人と子供のようだ。
そりゃあ、釣り合ってないように見えたって仕方ない。同僚の言葉を思い出して、また勝手に悲しくなる。
「冷たっ」
めちゃめちゃ冷え切ってんじゃん、と強く握り込まれた。
じんわりと伝わってくる温かさに、今までごちゃごちゃ考えていたはずのことは一気に霧散した。身体が強張って、まるでその場に縫い付けられたみたいに動けない。
もう、離れなきゃ。帰らなきゃいけないのに。
そもそも振りほどけるわけが、ないって分かっていても。
「……」
じっと、濡れた目を覗き込むように見つめられる。逸らせないまま、けれど涙も止められないまま、じっとしていたら。
そのまま掴まれた両手を引かれ、おもむろに抱き寄せられた。
ぽすり、と南雲部長の肩にわたしの顔が当たって。離れた両手がそのままわたしの頭と背中に回り、ぎゅっと抱きしめられる。
……あったかい。
人肌の心地よさに、部長の服まで濡れちゃう、という咄嗟の焦りすら言葉にならなかった。
両手を彼の広い背中に回したくて、抱きしめ返したくなってしまうのを必死に堪えて。けれど離れがたくて、縋るようにぎゅっと目を閉じる。
「……あいしてる」
幻だと思っていた囁きが、その耳元で聞こえた。
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