第3話
雨の降る、夜。
最近雨が多いな、と億劫に思いながら、わたしはいつもそうしているように最寄りの駅で電車を降り、家までの道すがらを歩いて帰っていた。
南雲部長は出張で、今日は会社に来ていなかった。直帰だから会社に戻ってくることもなかったので、雨が降っていても車で送ってはもらえない。だから今日は久しぶりに電車で帰っている。
免許のないわたしはもともと電車通勤だから、まったくもっていつも通り。ただいつもと違うのは、雨が降っていることだけ。
ここ一年ほどは雨の日となると南雲部長に車で送ってもらってばかりだったから、こんな日に自分の足で帰るのはなんだか新鮮で。いつもと何ら変わり映えのしない帰り道だったけど、雨が降っているというただそれだけの理由で、今日は心持ちわくわくしながら帰路に就いていた。
けれど、少しだけ。
ほんの少しだけ、心にぽっかりと穴が開いたような気がしているのは、さすがに気のせいだと思いたい。
前回の雨の日、包まれた右手の感触を思い出す。僅かな時間だったけれど、はっきりと覚えていた。
こみ上げてくる何かに耐えるように、ぐっと力を込めて握り込む。確かめるように、噛み締めるように。記憶を刻み込む、ように。
南雲部長は平気だろうか、とふと考える。
今頃彼は、何をしているのだろう。何を、考えているだろう。
もう、自分の家へ着いただろうか。今日はこんなにも雨が降っているけれど、ちゃんと無事に帰れただろうか。
出張先はここから少し離れているけど、あの辺りも今日はちょうど雨だったのだろうか。
ひとりきりで今頃、涙の一つも流せないまま呆然としているのだろうか。
目を凝らしながら運転し、なんとか家に帰った後は。暗い部屋で、雨の夜の孤独に――……さらさんも、誰も頼る人がいないことの寂しさに、耐えていたりするのだろうか。
それとも、一人きりの夜に耐え切れず、気分転換でもしているだろうか。わたしの心配なんて杞憂に過ぎないだろうか。
わたしじゃない誰かに付き合ってもらっていたり……するのだろうか。
考え出すと止まらない。暗い方、暗い方へ意識が沈んでいって、いつも明るいと言われるわたしにはらしくもないぐらい、気持ちが落ち込んでくる。
外の雨脚は、強くなる一方だ。
――あぁ、何だもう。
余計に、他人の心配なんかして。意味が分からない。
ひとりきりの夜に耐えられなくなっているのは、むしろわたしの方じゃないか。
会社を出た頃には、傘なんて差さなくても平気なくらいの小雨だったはずなのに。今や雨はざぁざぁと音を立てて、容赦なく降り続けている。
鞄の中に折り畳み傘を持っていたけれど、今更差す気になんてなれない。服の中にまで染み込んでくる冷たい雨水は、少しくらいこんがらがった頭を落ち着けてくれるかと思ったけれど、意外とそうでもなかった。
この大粒の雨に紛れて、頬に流れるこの涙すらも共に流れてしまえばいいのに――……なんて、そんな詩人じみた浪漫など欠片もない。残念ながらわたしに国語の才能はないし、あほらしい、とすら思ってしまう。
傘を差さないのは、そんな気取った理由なんかじゃない。ただの、わたしの気まぐれだ。ただ、それだけ。それ以上でもそれ以下でもない。
そう、気まぐれ。南雲部長だってきっと、同じ。
あの日隣にいたのが、たまたまわたしで。わたしがたまたま免許を持っていなくて、電車通勤で。いい口実ができた、と思っただけ。
だから南雲部長は、あんなことを言ったんだ。
期待しちゃいけない。そんなこと、とっくに分かっていたのに。
少しだけでも、南雲部長に近づけたのが嬉しくて。頼られることが誇らしくて。彼が見せるその一面を、わたしだけしか知らないんだと思うと、優越感がたちまちにわたしを支配した。
わたしは、少し調子に乗りすぎていたのだと思う。
今考えれば、彼の心に入り込むちょっとの隙間すら、そもそもあるわけがなかったんだ。その心の中には、まだ当然のようにさらさんがいるのに。
わたしが南雲部長の隣にいたところで、一時の慰めにすらならない。なれたとして、少しの現実逃避の道具くらいなもの。
誰にだって、できたこと。わたしじゃなくたって、彼は別によかった。それなのに、わたしは。
これしきの事で心躍るだなんて、わたしはあまりに愚かだった。
……いっそ、声を上げて泣けでもすればなぁ。
こんなにもずぶ濡れになってしまえば、それこそ大雨に紛れて誰も気づかないだろう。わたしが子供のように、助けを求めて泣いていたところで、きっと誰も……。
「――間宮!」
ぱーっ、とクラクションの音が耳を刺す。
こみ上げそうになった涙など一瞬で引っ込んだわたしは、髪に伝った滴を飛び散らせ、慌てて振り向いた。
クラクションの音に、驚いたのではない。
……いや、まぁもちろん多少は驚いたけど。そりゃあ大きな音がいきなり鳴ったら、誰だって驚くに決まってる。ってそんなことはどうでもいい。
だって、こんなの驚かずにはいられないだろう。
振り返った先に、停まっていたのは一台の車。これまでに何度も見ている、嫌ってほど馴染みのある車で。
運転席の窓が開いて、出てきた顔――つまり、さっきクラクションの音とともにわたしを呼んだ主は。
「……何やってんだ、こんなとこで」
少し怒った調子の、南雲部長だったんだから。
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