【抜け出せない辛い日々】

 ──生徒会長演説会を数日後に控えた1─Aの教室。

 黒縁眼鏡の少年──里中健太郎は一人、自分用の机の椅子に着席していた。

 朝日が教室に差し込み、誰もいない閑散とした室内で読書に興じる。

 ページをる、紙の擦り切れ音が微かに響く。

 早朝に太陽光を浴びて、通学しているお陰で脳が活発になり本の内容がスラスラと頭に入ってくる。

 同時に整理のついた脳内ではいろいろな考えに耽(ふけ)ることが出来る。

 しかし、その半分近くは余計なことを思考してしまう。嫌な記憶を。


 ──他人に問い掛けたい。

 目の前で痛めつけられている人を見て、心が痛まない人などいるのだろうか?

 確かに全く知らない人間ならあり得るかもしれない。

 他人事──対岸の火事と見ているだけで割り切れるかもしれない。

 だが知り合い、しかも気にかけている存在なら答えは──いいえだろう。

 少なくとも良心の呵責が働くはずだ。周りからそれが偽善だと言われるならばそうかもしれない。

 だが、偽善は偽善でも、それでも善だ。

 あの時とった行動に後悔も、反省もない。ただ為すべきこと──正しいと思った自分の心に従っただけだ。

 ──でも結果としてこれはなんだ?

 周りから向けられる忌むべき、冷たい視線の応酬は。

 一人の少女を助けるのに、一人の少年が代わりに犠牲となる。

 イジメられ、暴行を受けた彼女の容態にいてもたってもいられなくなって飛び出し、応急処置を施したあの日を、僕は思い出す。


 ──教室を開けようとする音が聞こえた。

 扉は引き戸だが開ききるどころか三分の一くらいで止まる。

 そのまま床にペタンと何かが倒れ込む音がした、気がする。

 時刻は誰もいなくなった放課後。僕はつい先ほどここへ戻ってきたばかりだ。

 座っていた机から立ち上がり気になって扉へ近づく。そのまま扉を引き切る。

『──さん⁉ 一体何が……ッ⁉』

『……ッ‼』

 扉の前で右腕を痛そうにしながら倒れ込む小柄な少女──クラスメイトの三河安城みかわあんじょうさんがいた。

 急いで駆け寄り、

『怪我したところ早く見せて‼ ──隠さなくて良いから!』

 怪我している彼女の右前腕に注視する。EA──クレヤボヤンスの透視能力により筋繊維の下、骨幹部を確認する。

『今、何とかするから……ッ‼』

 端的に彼女は骨折していた。それも強く衝撃を加えられたのか、かなり酷く折れている。自分は医者じゃないがその程度くらいは分かる。というか視れば判る。

『まずは……』

 とりあえず固定だ。何か固定できるものは……。あるな。ひとまずこれで我慢してもらうしかない。紐は教室にビニール紐があったはず。

『すぐ戻る。ここで幹部を上体より上にして待ってて。いいね?』

『う、うん……』

 自分の教室へ駆け込む。机に掛けてあった自分の鞄を引っ張り出して、乱雑に床にぶち撒ける。目当てのものを手に取り、生徒用の事務用具箱からも必要な物を持ち出す。

 ……あって良かった……。

 少し安堵するも急いで戻ると自分の言いつけを守って彼女は幹部を上体より上げて待っていた。そのまま目があって僕の手元に視線が落ちる。

『健太郎くん……それ……』

 彼女が視線を向ける先には僕が持ってきたなるべく折り曲がり易く、人の腕を包み込める大きさの教科書何冊かとビニール紐があった。

 すぐに彼女に駆け寄ると細かい説明は無しで淡々とかつ手早く処置する。

『……ッ!』

『痛いけど今は我慢して。直ぐに終わらせるから』

 彼女を励ましながら処置をこなしていく。

 あっという間に固定して出来上がったのは教科書を腕にグルグル巻きにして固定してビニール紐でキツく結んだ状態だ。

 箒を折って添木なんてことも考えたが折るのに手間取りそうで自信がないから今できる最善はこれだ。こんな発想や手順もこの特異能力を活かせる将来を僕は早くから見据えて、救急救命士や医者の調べ物をよくしてたのが功をそうした。

 よし。次は三角巾で更に固定だ。なら今すぐに保健室へ行かなくては。

『立てる? 肩を貸すよ。早く保健室へ行ってもっと固定しないと。それから次にもっと専門的治療を受けられる場所に行くんだ』

 返事を待たずに三河さんを立ち上がらせる。

『う、うん……』

 怪我の部位をなるべく動かさないように注意しながら慎重に歩みを進める。

 終始彼女はずっと顔を俯かせて、何も言えずにいる。

 僕もかける言葉がどうしても出てこない。こんなことになる前にと、沸々と湧き出る後悔と罪悪感が胸の中で渦巻いているせいで余計に言い出せない。

 そのまま彼女を保健医へ預け、僕はその場を後にする。

 振り返り様、彼女がか細く消え入りそうな声で「ごめんね」と言葉をかけてきたのを僕は今でも覚えている。

 そして憤りも。


 その後彼女を助けた満足感は間違いなくあった。

 自己満足かもしれないが、でも間違いなく彼女を救えたと思っていた。

 それが地獄の始まりだった。


 ──自分は西条に目をつけられた。


 突き付けられた絶望はそれからだ。

 普段通りに接しているのに、いつも通りに向けてくれていた友人達の笑顔が日に日に消えていく。周りから避けられていく。言葉を交わさなくなっていく。

 その原因を知った時、さらに自分の感情が耐えられなくなった。

 千里眼を使って少女の肢体を視姦したいがために応急処置に名乗り出た。


 驚愕だ。

 あまりにも馬鹿げていて、噂を流した人間の幼稚性を疑った。

 もちろん流した相手などすぐに察しがついた。

 少女のイジメを扇動していた西条静香だ。

 一度流れた噂は一人歩きして、流体的に生徒間を止めどなく流れていく。その濁流を一人で塞ぎ止めるのは不可能。

 やがて僕は自分から人と関わるのに疲れた。

 こんな辛い思いをするなら、と思うようになった。

 だから人と距離を置くことにした。

 そうすれば傷つけ合うことはない。

 自分からも見えない溝を、堀を、境界を作り、自分と他人の接点を完全に潰した。

 それでも授業で仕方なく接しなければいけないことだってある。

 その時は関わりを持ち、目的が達成したらすぐに離れる。

 関わりは最小限に留める。

 そんな生活も二年続けばもう慣れた。

 ページを捲る指に力が篭る。

 紙にシワができ、僕は小さく誰もいない教室で溜息を吐く。

 早朝、誰もいない時間に一人着席している僕は毎日この時間に登校していた。

 朝早くに登校すれば、誰とも会わずに教室に直行出来るから。

 かぶりをふり、雑念となった思考を振り払うと本の中の物語に意識を集中する。せっかくの逃避が台無しだ。

「おはよう、健太郎」

 突然、声を掛けられて僕は目を見開いて顔を上げてしまう。

 読書に集中していたせいか、音もなく近づかれたのかどちらかは分からないが、机を挟んだ目の前に史弥が眠たげに立って話しかけていた。

 今登校したばかりか、通学鞄を片手に持っている。

「…………おはよう」

 僕は不愛想に挨拶を返すとすぐに視線を落として読書に戻る。

 そんな話しかけないでオーラを多分に含んだ態度に興ざめもせず、真摯に会話を続けようと史弥はさらに話しかけてくる。

「こんな朝早くに読書って、熱心だな」

「早起きして読む方が頭に入ってくるから」

「そうか。おっ! この前とはまた違う本だ!」

「…………」

 今度は無言の肯定を史弥へ返す。そして僅かに首が縦に振る。見逃さなかった史弥は会話の糸口になる言葉すら発しなくなってしまったそんな僕に慎重に恐る恐る話しかけた。

「……読書の邪魔だったよな。ごめん、俺もう行くわ」

 申し訳なさそうに告げた史弥に僕は胸が少し締め付けられた気がした。

 いつもならそれはまやかしだと思うことで緩和出来るはずだった。

 しかし、今日は違った。

 この顔見知り程度のはずのクラスメイトを、事情を知らなかったとはいえ声を掛けてくれた史弥を、無下にするのを惜しんでしまった。

 だから次に出た自分の言葉に、自分でも内心、驚いてしまった。

「……べ、別にそこまで気にならない」

 普段なら他にも言いようはあった。

「助かる」や「すまない」とか肯定を含む歯切れの良い回答はいくらでも出たはずだった。

 だけどいつもの用意されていたはずの常套句が口から出なかった。

 これだけでも驚きに値する。

 眉が少し釣り上がり、意外な表情を見せた史弥は切れるはずだった会話を続けた。

「あんまり改まって言うことじゃないんだけど、健太郎と友達になれないかな? もちろん健太郎のプライベートの邪魔は極力しないように努力する。気に障らない程度で話しかけても良いか?」

 今の境遇からすれば嬉しい一言。

 ──ただ前の僕からすれば。


「それは出来ない」

 冷たく突き放す声音。

 沸点の低い人間であればこれで怒っても仕方ない言い方。

「親切心で言っているのに……ならもういいよ」、そう言って離れていかれても可笑しくない。もしかしたら激高してくるかもしれない。

 だが史弥は違った。

 焦燥感に駆られることもなく、心配気な表情になると短く「そっか、なら仕方ないか…………」と残念な様子で引き下がった。

 だから僕は次に発した問い掛けは又しても突拍子もなく自分でも驚きの質問を口に出してしまった。


「……怒らないのか?」

 史弥は意外なものを見るような顔で反問した。当然だ。

「怒って欲しかった?」

 途端に自分が口にした言葉に僕自身が面食らってしまう。

 自分で何を言ってるんだ。すぐに後悔して慌てて訂正を口にする。

「いや、別にそういうつもりは……」

「そうか、別に気が向いた時に俺に話しかけてくれれば良い。色々と無理はしなくてもな」

 それ以上追求されることもなく、むしろフォローされる形になってしまった。

「変なことを聞いてすまない」

 ひとまず僕は史弥へ謝罪を挟む。ここまで会話したのは久しぶりだ。

「いや、気にしなくて良いよ」

 ここでふと疑問が生じた。妙な違和感と言っても良い。

 このクラスメイトは僕の過去を誰かから聞いたのではと。

 多少の親切心でここまでするかと思ったのだ。

 気の使い方が周りとは違う何かを感じ取ったその疑問は好奇心となり興味を引き、だから自然と僕の唇は動いて疑問を口にしていた。

「聞いたのかい?」

 あえて主語を歯抜けにしたことで様々な問い掛けを含ませ、相手から情報を引き出す常套手段じょうとうしゅだんだ。


「……あぁ、別のクラスの友達から聞いたよ。過去のこと」

 この短い一瞬で考えた僕の問いは史弥の返事で確信に変わった。

「なら分かっただろう。抗ったって変えられない事はある」

「まぁ誰だってそうだよな。見たくないものから目を背けたいし逃げたい。でも俺は違う。生憎、憎まれるのは慣れっこでね」

「集団に溶け込めない奴の意見だな」

「そんな集団なんて解散すれば良い。誰かを貶めて存続する集団なんか」

「綺麗事だな」

「そうかもしれないな。だからそういう立場に俺はなったよ」

「どういう意味だい」

「風紀委員になった」

 頭の片隅で忘れ去られていた記憶を思い出して僕は意味を理解する。

 最近の噂をすっかり忘れていたのだ。

 噂とはクラスメイトが話していた内容の事。クラスメイトが話している声は教室で座っているだけでも嫌でも自然と耳に入ってくる。

 その一つに史弥が風紀委員に抜擢された話しは僕の耳に届いていた。

 ただ聞き流していた。

 でもしっかりと記憶として頭の片隅の奥深くに格納されている。それくらいに記憶力は良い方だ。ただ周囲に興味を失っていく過程で一緒に消えただけ。


「なら尚のことだ。揉め事を渦中に自分から突っ込んでいくだけ無駄。損をするだけ」

 ここで会話を切ろうとページに視線を落とした時、妙に力がこもった反論が返ってきた。

 納得のいかない人一倍不満の声にそれは聞こえた。

「……嫌だね。俺は俺が正しいと思ったことを──間違っていると思う事をハッキリ言う。例え助けを求めていなくても」

「…………」

 強引な力を持った言葉が、僕の胸の奥深く、昔に持っていた何かに刺さったのを感じた。

 その揺らぎを史弥へ悟られぬ様に表情を変えず、本へ視線を落とし込むことで防ぐ。

 史弥もそんな僕の機微にはさすがに気付かず、読書に意識をシフトしたことを認識すると改めて自席へ着席しようと翻して離れて行く。

 お互いに会話はここで終わりだなと空気が教えていた。

 それなのに、これ以上気を引くものなんて何もなかったはずなのに、どうしてこんな事を僕は口にしたかは分からなかった。ただ離れていくのを見過せばいいのに。

「もし──自分の周りで人がいなくなって西条が絡んでいたなら敷地内にある廃校舎へ行くといい」

 風紀委員になった史弥に対する助力を考えたつもりはなかった。

 ただの気まぐれ。

 何故かは分からないが、史弥が西条の情報を欲している様な──ただの健太郎の気まぐれ。

 そんな別にどうでも良いような情報に振り返った史弥は何故そんな事を教えるのだとか、知っているとか野暮なことは言わずにただ屈託のない笑顔を作ると、

「健太郎、ありがとな」

 久しぶりに言われる感謝の言葉を口にしていた。

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