箱根EP

箱根EP - 01 スタイル 

 「レイナさん、そろそろシャキッとしてください。今日は念願ねんがんのロングランなんですよ?」


 午前4時。日がのぼろうかとする時間帯であたりは薄暗うすぐらい。いつもよりかなり早く起きたせいでまだ視界がぼやけている。ノアが私のほほについたケチャップをぬぐってくれた。今日の朝食はチーズをのっけたトーストだった。


「何があろうと眠いもんは眠い。あんたはいいよね、起きた瞬間からすぐ動けるんだからさ。普段ふだんはあんなにけてるくせに…」


「普段は仕方しかたないでしょう?人間のいとなみは私にとって新しいことばかりなんですから」


 そういいながらも、気まずそうにコーヒー(ほぼ牛乳)を口に運ぶ。きっと、昨日私のした洋服のすそを思いっきりテーブルのかどにひっかけてダメにしたことを思い出しているのだろう。箪笥たんすの角に小指をぶつけたりなんて露骨ろこつ失敗しっぱいはかなり少なくなったものの、着るものなんかへの配慮はいりょはまだ少し慣れてないみたいだ。


「ノア、今の状態でスポーツ走行なんてできるのか?」


 パパが新しくベーコンエッグを運んできた。若干じゃっかん不安そうな表情をしている。


「正直、わかんないです。以前とはずいぶん勝手かってことなるものですから」


「慣れない状態であんまり無茶むちゃはするなよ?あと、あんまり食べぎると動けなくなるぞ」


 ノアはもうトーストを6枚もたいらげている。それでもまだはこばれてきたベーコンエッグに手をばすノアを見て、こちらはトースト1枚でおなかがふくれてしまった。


「パパ、ごちそうさま。ノア、私先に準備してるからね」


「わたしもすぐ準備します」


「あ、レイナ!自分の食べた食器ぐらいは下げておきなさい」


「はーい」


 私は皿とカップをながし台に運び、そのまま洗面台せんめんだいへ。


「レイナー!お前もひさしぶりっちゃ久しぶりなんだから、ちゃんと防具はつけて行けよー!」


「わかってるー」


 今日は私にとっては久しぶりの、そして二人では初めてのロングラン。軽く化粧けしょうませ、厚手あつでのジャケットを羽織はおる。髪の毛をお気に入りのDIRT SPECタグでくくり、ギアに荷物をむ。荷物はいつもの配達の時ほど重くはないが、泊りがけになるので意外とかさばるものが多い。走行中に落ちないようにしっかりパッキングし、ベルトを一本一本確認する。


 少し遅れて身支度みじたくを済ませたノアがギアをみつめている。


「どうしたのノア、早くしないともう45分だよ?5時には出ないと道こんじゃうって言ってたじゃん」


「あ、すいません。また万全の状態で走れる時が来るなんて、つゆほどにも思っていなかったものですから。新しいギア、かっこいいなって…」


「そのギアは私じゃ乗れないから、正真正銘しょうしんしょうめいノアのモノだよ。頑張って乗りこなしてあげなきゃだね」


「…そうですね」


 ノアも多くはない荷物をささっと積載せきさいする。単気筒たんきとうエンジンを積むノアのギアは全体的にすごくコンパクトだ。セオリーをあえて外したフロントブレーキリアドライブの超軽量ギアはどんな走りを見せるのか、なんだか私まで熱が伝播でんぱしてきて、ジャケットのジッパーを少しおろした。


「ノア、準備は大丈夫?」


「はい、大丈夫です」


「ふたりとも、気を付けていってくるんだぞ。何かあったらすぐ連絡れんらくすること、無茶むちゃはしないこと、そして楽しんでくること。いいか?」


「うん」


「わかりました、お父さん」


「じゃ、行ってらっしゃい」


 エプロンをつけたままのパパがガレージのシャッターを開けてくれた。


 エンジンに火を入れる。腰に振動しんどうつたわってくる。たった一週間離れていただけなのに、ずいぶん新鮮しんせん気分きぶんなのはエキゾーストシステムを全部入れ替えたからか、はたまたエンジンの鼓動こどうが一つじゃないからかはわからない。でも間違いなく、気分は過去最高に高揚こうようしている気がする。少しだけアクセルをあおると、V型二気筒Vツインのレンジエクステンダーがするどく回転数を上げる。となりを見ると、ノアもエンジンの感触かんしょくを確かめるように少しアクセルをあおってはもどし、そしてにやにやしていた。


「おいおい、まだ朝早いんだから。エンジンかすのは郊外こうがいに出てからにしてくれ」


「あ、そうだった」


 走行の主電源をバッテリーに切り替える。


「じゃ、いこっか」


「そうですね」


アクセルを軽くにぎるとタイヤが静かに回転し始める。


「それじゃ、行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 家の前の道に出る。ノアと視線しせんかさなった。おたがいにうなずきあう。後方も前方も車の影はない。


「東名のるのでいいんだっけ」


「そう考えていましたが、今日は天気がいいので富士山がきれいに見られるかもしれません。どうせ中央道の方が近いですし、中央道から富士山まで行って、そこから南下なんかして箱根にしましょう」


「じゃあ、先導せんどうよろしく」


「わかりまし――あっ」


 赤信号、ノアがブレーキでつんのめってこけそうになった。


「ちょ、そんなんでほんとに大丈夫なの!?」


「違うんです、新しいギアのブレーキが想像よりはるかにきが良くて…しばらく走るうちに慣れると思います」


「ならいいけど…」


 その後、青信号の発進で今度は後ろにひっくり返りかけたり、やっぱりフロントブレーキリアドライブっぽいなあと思いながら後ろをついていっていた。




 しばらく走ると、あっという間に民家が少なくなり、田園地帯でんえんちたいが広がるようになる。


 エンジンを解放かいほうし、そのまま高速道路へ。料金所のゲートをくぐるとそこは信号のない滑走路かっそうろ


「これ右でいいんだよね」


「そうです」


「さあさあ加速!加速ですよノアさん!!」


「100㎞/hの巡航じゅんこうから様子を見て速度上げていこうと思いますけど、いいですか?」


「私は全然大丈夫だけど、そっちは大丈夫なの?」


「…じゃあ、ついてきてくださいね」


「…え?」


 前を走るノアの姿が、野太のぶといエキゾーストサウンドとともに合流の加速で一気に小さくなった。


「…ちょ、まじ?」


 もう慣れたのか、さっき信号の発進で後ろにひっくり返りそうになっていたのはなんだったのかというほどのロケットダッシュ。ありえない。駆動輪くどうりんが後ろということはアクセルを思いっきり吹かせばその反動はんどうで後ろにひっくり返るはずだし、実際にさっきもそうだった。どんどん小さくなる背中に、黒髪のエースの姿が重なった。


 もうかなり離れてしまったノアから通信が入る。


『レイナさん、どうしたんですか?なにかありましたか?』


「いや、速すぎじゃない?ついさっきまでこけそうになってたのに…」


『だいぶ”かん”が戻ってきたみたいです。速度を落としましょうか?』


今の巡航速度じゅんこうそくどは150km/h。わたしが最高速アタックで出した自己最高まであと40km/hという速度で巡航している。普段は巡航だとせいぜい120km/hくらいなので、いかにハイペースかというのがわかる。


「いや、大丈夫。でも、次のサービスエリアでいったん休憩きゅうけい入れよ。ギアの状態じょうたいも見たいし」


『わかりました』


 高速に乗って最初のサービスエリアにはいる。ベルト類のゆるみを確認し、ギアの各部を軽く点検。ノアはこの寒いのにソフトクリームを食べていた。合流してからはさすがに130km/hでの巡航にしてもらった。高速巡航自体は別におどろくことではないけど、リアドライブでのロケットダッシュだけが分からなかった。

 


 その後、富士山を横目よこめに2時間ほど走り目的のとうげ到着とうちゃくした。峠といえばのぼってくだるだけだけど、SPEEDSTARの種目的にはヒルクライムとダウンヒルの二つに分類される。


「私先導でいいですか?」


「いいよ。リアドライブがどうやって登るのか見たいし」


 観光としてはオフシーズン、平日の午前中というのもあってか車通りはない。すっかり”走るモード”に切り替わったノアはブーツのバックルをさらに一段きつくめると、後ろを確認しゆっくり走り出した。


 私はどちらかというとダウンヒルの方が得意だから、少し間をあけて後ろをついていく。

 

 速度が100㎞/hに達した。ここから登りのつづらりが始まる。次の瞬間、私は目をうたがった。カーブにかるという直前ちょくぜん、前方を行くノアが低く姿勢を落としたかと思うと、タイヤがけむりを上げた。


「まさか…テールスライド⁉」


 登りなのにタイヤをすべらせている。先の見えない左カーブ、内脚うちあしの左脚を前に出し、駆動輪を自らの重心じゅうしん真下ましたに置き、無理やりトラクションをかけているみたいだ。荷重かじゅうをかけられた左リアタイヤは少しスライドさせるだけで簡単に滑る。そこでタイヤスモークを上げつつ姿勢を維持いじ外脚そとあしである右脚でバランスをとりつつ、フレームが地面にれるギリギリまでたおみ、タイヤを全力で回す。


 もともとリアドライブは登りに弱いはず。上り坂ではただでさえ後ろにたおれるように力がかかるというのに、さらにそこにタイヤの反動が加わるからとにかく加速が難しい気がする。上り坂で倒れないようにするには前傾姿勢をとらなきゃいけない。すると結果的にフロントタイヤ一輪いちりんに荷重をかけて、むしろリアタイヤはかすくらいの勢いで走った方がカーブの立ち上がりで加速しやすいはずなんですけど…


 しかし、ノアは遠心力えんしんりょくを利用し、まるで地面にいついたようにカーブをパスしていく。カーブはスローイン、ファストアウトがセオリーだけどノアの走りでは速度がほとんど落ちない。駆動輪にかける荷重をうまく調整することによって、減速ではなく加速でテールスライドを使っている。当然ながら、もうすでにその背中は見えない。


 走りが根本的こんぽんてきちがう。まったくついていけない。


「おかしい…ここまでの技術をもってるならSPEEDSTARSに名をつらねていてもおかしくないはず。後輪駆動こうりんくどうはただでさえめずらしいから、もしSPEEDSTARSならかなり目立めだつ。でもノアっていう選手は知らない。私が知らない昔の選手ってこと?わかんない、わかんないけどとにかく速い…」



 帰りのダウンヒルでも、アスファルトの路面ろめんをまるですべるように下っていくノアについていくのがやっとだった。とてもじゃないけど、同じ走りをしていたら命がいくらあっても足りないと思うくらいには、コントロールを失うギリギリを常に攻め続けるような走りは速く――そして危ない。


 お昼休憩で入った道の駅。いろいろと聞きたいことはあったけど、ギアを止めた次の瞬間にはフードコートに向かってかけだしたノアをみていると、なんだか大したことではないように思えてきた。


「ま、夜にでもゆっくり話聞こうかな。私もおなか減ったし。さすがに食パン一枚じゃ足りないよね」


「レイナさーん!お蕎麦そばって何ですかー!!」


「今行くから、ちょっと待ってよー!」


 さっきの圧倒的な走行技術をもった少女と、目の前で蕎麦の食品サンプルに目をかがやかせている少女が同一人物だとはとてもじゃないけど思えない。


「あれ?これ、ノアの分も私が払わなきゃいけないのかな…」


 急にお財布さいふ危機ききを感じた。

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