生まれ変わりと水とジュリエット




 面接待合室では皆が、出荷を待つ家電製品のように、まっすぐ背筋を伸ばして微動だにせずに座り、寸分違わぬにこやかな微笑をそのスマートな顔に浮かべていた。僕は喉の渇きを感じて、パイプ椅子から立ちあがる。その名の由来の通り、心身ともに調整されきった血気盛んな競争馬の尾さながらに、なめらかな髪を一つに結った女たちの列の後ろを回って、ウォーターサーバーのあるスペースに向かう。


 美しい街だった。


 少なくとも数年前までは、東京は美しさを保っていた。


 ウォーターサーバーは階下を見渡せる大きな窓のそばにあった。紙コップをとり、水を汲む。程よく冷えて、臭いもなく、透明で美しい。つい最近、東京に悲劇的なパンデミックが起こったのは記憶に新しいが、それがどうやって処理されたか、覚えている者はほぼいない。食料の流通が止まり、インフラが機能しなくなった。全国的にパニックが起きた。でも、今や誰もそんなことを引きずらない。デモや抗議運動をしている奴らや大学でそれを学んだ者たちにしても、まるで数十年前の出来事のようなぬるい温度でそれを扱うにすぎない。

 記憶力というものは、どこから生まれるのだろう? 

 それがどこであるにせよ、記憶とは水のようなものだ。なければ死んでしまう。

「影浦くん」

 声をかけられて振り向くと、大学の授業で一緒になったことのある、理学部の女子がいた。彼女も同じくこの食品会社に面接を受けに来ていたらしい。

「久しぶり」

「久しぶりだね。今日は頑張ろうね」

「そうだね」

「さもなきゃ、ハロワ行きだからね」

 彼女はおどけて首元をハサミで切るジェスチャーをしてみせた。祖父が言うにはハロワとは、昔は単純に「仕事を探しに行く場所」だったらしい。だが今は、誰が言い始めたのか、就活に失敗した人間の加工工場を暗に指す言葉になっている。僕は動揺を気取られぬよう、水の入った紙コップを口に運ぶ。

「縁起でもない」

「もし私がハロワ行きになったら、影浦くん、きっちり100日間はクリニックに通ってよね」

「嫌だよ。僕は君の名前もろくに覚えていないのに」

 それに君はほぼ確実に工場行きにならない、と心の中で僕は付け足す。

「冷たいんだから。ま、そういうところが影浦くんのいいところだけどね」

「本当にそう思ってる?」

「まあ、半分くらいかな」

 不思議なものだと僕は思う。こんなに善良に見える彼女でさえ、あの黒いバーを毎食食べているのだ。それもおそらく、好き好んで。

 目線を外に向ける。

 18階の窓からは利福党のバルーンがいくつか見えた。ビルから外を見る僕のような人に向けて、ナノテクを駆使して作られたガラスには宣伝のホログラムが映っている。令和287年、乳幼児向け幸滋養食品『ソイレント・イノセント』、発売開始。

「令和って、いつまで続くんだろう」

「え? 年号って、もう変わらないでしょ?」

「もし変わったら、の話だよ」

「もしも、なんて、考えたって無意味じゃない?」

 彼女は何気なく言い、ウォーターサーバーから水を汲んだ。

「君たちだって、もしもを信じてるだろ。死んでも生まれ変わってまた会える。そんな類の話を」

「あー、あれはもしもの話って言うか、おまじないみたいなものだよ……実際そうかはわからないけど、そう信じてた方がお互い気楽になれるでしょ?」

 ロマンチックだしさ。

 彼女はそう言って、ゴクゴクと水をたちまち飲み干す

「令和以降、どうして年号が変わらなくなったか、覚えてる?」

「さあ。私理系だから……文系の歴史とか社会科とかは、さっぱり」

 彼女は間を置かずにまた水を汲む。ひどく渇いているらしい。

「いなくなったからだよ。文献を探して良さそうな言葉を調べたり、センスある文字選びをしたりできる人材がね。日本人は元号を作ることができなくなったんだ。たったの漢字二文字の言葉でも、創意は求められる。でも令和の天皇が亡くなる頃には、誰一人として意味を理解できなくなっていた。創意という言葉の意味さえ」

「ふうん。俳句や短歌をやってるお年寄りは、施設にうんざりするほどいるのにね」

 どうしてこんなに喉が乾くのかな。

 彼女は言いながら、三杯目の水を飲み干す。

「西暦はなんでなくなったんだっけ?」

「それは単純。マイナンバー制度に『手続きの手間が増えるだけだ』って猛烈な抗議が寄せられて、それでとりあえず西暦をやめて元号だけにした」

「へえ」

 全くなんの解決にもなっていないが、結果的にそうなった以上、そうでしかない。

「あ。影浦くん」

「何?」

 彼女は水の滴る口元をハンカチで拭って、言った。

「影浦くんが私のこと悲しんでくれないにしても、私は影浦くんがハロワに行くことになった時、ちゃんと悲しんであげるから」

「別にいいよ」

「ちゃんと相手のことを悲しまないと、生まれ変わっても会えないんだよ?」

「仮にその通りにしたところで、生まれ変われるとか来世で会えるとかいう保証はされない」

「違うんだよ、影浦くん。これは『実利を保証されるからやる』とかじゃないんだよ。実利がなくても、祈ることに意味があるんだよ」

 反動。バランス。精神の釣り合い。

 利、利、利……。ひたすら得と合理だけを考えるよう調教された人間の鬱憤は、こんな形で発散される。発散されて、永遠に昇華されることはない。リサイクルされて、終わり。


 一年前、地下鉄の駅でジュリエットを見かけたことがある。


 ホームのベンチに座っていたら、隣の女性二人が突然騒ぎ出した。女性のうちの一人が、その場でハロワ行きが決まったのだ。シャネルを着た女性が、スマホを見ながら「うっそ」となんども言っていた。

「うっそ、うっそ」

「なに、うるさい、どしたの」

「ハロワ行き決まった」

「は? まじ? じゃ私ジュリエットじゃん」

「ウケるんですけど。じゃ私、男役だね」

「そうだよ。何、この展開」

 きゃっきゃっと笑っていた。互いに両手を合わせて、甲高い笑い声をあげて、まるで遊園地のチケットが当たったかのようなはしゃぎっぷりだった。

「やばい。指震えてきた」

「よ。頑張れ。来世で会えるように頑張って悲しむからね、私」

「うん。超悲しんでよ。気合い入れて泣いてくれなきゃ、祟るからね」

「うん。うん」

「でもしばらくしたら立ち直って、元気に生きていくんだぞ」

「わかった。わかったよ」

「じゃ私、家に行かなきゃ」

「おけ。またね」

 二人はぎゅっときつく1分ほど抱き合うと、シャネルの女は去っていき、もう一人の方はもう一度ベンチに座った。ハンカチでさっと目元を拭うと、すぐにタップ音を軽快に響かせてスマホをいじり始めた。少しだけ、僕はその画面を覗いた。


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 ネット検索のサジェスト欄には、そんな言葉がずらりと並んでいた。


 気がつけば、理系の彼女はいなくなっていた。もう面接官に名前を呼ばれたのかもしれない。僕も水を半分ほど飲むと、自分の席に戻った。しばらくして、僕の名前が呼ばれる。面接が始まる。

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