第四話 夜陰の姫君

「あ、そろそろ始まりそう。アイナは頑張ってね!」


 そう言うと、ミオーシャは流行の鳥打帽に引っ掛けていたお手製の真鍮製ゴーグルを降ろした。歯車がカリッと鳴いて、展開した黒い遮光レンズがガラス玉じみた瞳を覆う。彼女はしれっと、これから始まる流血の舞台を見届ける任を降りたのだった。


「それは来賓としてどうなの」


 聞こえるか聞こえないかの声量でぼやく。確かに外科手術は傍目に気持ちいいものではないかもしれないけれど、生命の戦いには敬意を払うべきだと信じている。例え、それが仕事でなかったとしても同じこと。


 麻酔の完了から執刀までの僅かな猶予の時間。構図の当たりをつけ終えた私は改めて、これから切断される患者の右足を見取った。爪先から概ねくるぶしにかけてまでが、かさぶたのお化けのような壊疽で覆い尽くされている。健常な左足のほうには分厚い角質や魚の目があり――右にもあったに違いない。でも、もはや壊疽との区別がつかない――その男が窮屈な靴を履きながら、長時間の肉体労働に従事している様子がありありと瞼の裏に浮かんで。


「――描きたい」


 彼の黒ずんだ脚を見つめていると、本能の呼び声が胸の内を駆け抜けていく。


 彼が背負ってきた痛みの証を、医者たちは除去すべき患部としか捉えまい。間もなく主より一足先にこの世を去ろうという生まれながらの友を、他の誰が記録してやれると言うのだろう? それに芸術家とは、ほとばしる情動を何よりも優先してこそではないか?


 私は内なる囁きを押しつぶすように奥歯を噛んで、理性を励ました。その内訳は概ね金銭欲と憎しみだけど、いざというときには頼りになる子たちだった。私は自分のやり方を貫いて、そして売れなければならない。既に一度は商売の相手を見誤って失敗しているのだから、今を堅実にこなさなければ先はない。


 私が濃いデッサン鉛筆に持ち替えるのと、執刀医がメスを手に取るのはほぼ同時だった。鋭い刃が腐肉に食い込み、紫がかった血と膿を散らし始める。


 瞬間、静かな手術室をどよめきが満たした。そう、観衆が声を上げるまでは「静か」だった。皮膚と筋肉を切り開かれているにも関わらず、患者は曖昧な意識の中で僅かに身じろぎするだけで、悲鳴どころか小さな唸り声すら立てない。

 

 この状況に何より驚いているのは、目の前で見ている執刀医のようだった。外科手術とは、夢の中にも響いてくるような恨めしい寄声を浴びながらするもの――そんな常識が崩れて、当惑しているのだろうか。患者の苦痛を短くするため、普通は目にも留まらぬ速さで振るわれるべきメスが、一手一手を確かめるような慎重さで用いられていた。そこに立ち会う画家にとっては都合のいいことだと言えた。


 これ幸いとばかりに、目を凝らして医師の手業やアシスタントの一挙一動に集中していると、不意に首筋を冷たい感触がなぞった。


「どういう風の吹き回し? 作業中の邪魔だけはしない約束は……」


 憤慨して右隣の席を見ると、ミオーシャは寝息を立て、船を漕いでいた。それが演技ではないことは、お互いの家で何度も寝泊まりした経験から明らかだった。


 私は半ば反射的に首を逆に振った。見れば誰も居なかったはずの左側の座席に、いつの間にか一人の女性――というよりも、少女が腰掛けている。


 医学生ではないことは一目でわかった。黒ずくめという一点では同じだけれど、ダチョウの羽をあしらった幅広の帽子や、扇形のレースの襟を持ち大胆に胸を開いたドレスを身につけていた。その仕立ての緻密さもさることながら、美術史の観点で言えば、概ね200年ほど前流行していた様式に近い装いであることが大いに興味を引く。


 もっとも本当に私の目を奪ったのは、彼女自身の容姿だった。紫水晶アメシストをそのまま嵌め込んだような艷やかな瞳。老齢の白髪とは異なり、芯が通った太さを持つ銀の髪。蝋を彫刻したかの如き白皙。彼女を構成する何もかも奇異なものでありながら、互いの間に完全な調和を湛えていた。


「あら、お隣は一人分しか空いていなかったかしら?」


 鈴のような声を鳴らして、少女が小首を傾げる。ただそれだけの仕草に洗練された出自を感じ取ると共に、底知れない不気味さを覚えた。人と全く同じ寸法と関節を持つ人形が存在したなら、このような挙措を見せるだろうか、と。


 或いはその空恐ろしさこそが、今まで直面したことがない程に美しいものを目にしながらも、「描きたい」という衝動に襲われずに済んだ理由かもしれなかった。言語の限界の外にある何かが、手出しをするな、このまま流してしまえと告げている。


「いえ、空いてる。仕事の邪魔をされない限りはね。お嬢様には物珍しいかもしれないけれど、触るのはやめて」


 ひとしきり少女の様子を検分した私は、ミオーシャが起きていたら「そっけないよ!」と叫ぶに違いない物言いで応じた。気を取り直して、今も刻一刻と進む麻酔手術に向き直る。


「触ってはいないわ。あなたの方がわたしを感じただけよ。画家さんって、やっぱりそういうところも敏感なのね」


 それでも、彼女が品定めするように、じいっと私の横顔を見ているのは振り向かずとも分かったし、


「……本当に触れてしまったら、どうなるのかしら」


 艶めかしい呟きが、いやに耳に残った。


 


 

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ブラッド×アーティスト~崖っぷち画家と傲慢なる血の女主人~ 妖精からっぽまる @Alice0405

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