第一話 失意

 幸せな、ひどい夢を見た。私がまだ無邪気で、母が画家として“生きて”いた頃の夢だ。まだ瞼の裏にはぼんやりとした名残が刻まれているけど、執務室のテーブルに突っ伏したまま眠った身体が訴える痛みと、家に帰ってから着替えてすらいない汗ばんだ身体の重さが、ここは昨日と地続きの現実だと雄弁に物語っていた。


「全く、情けないんだから」


 ぼんやりとつぶやいた言葉は明白な自嘲であり、母への怒りでもあり、何より誰よりも憧れた芸術家と今の自分を比べての無力感だ。それらの感情に少し遅れて、こうして不貞腐れる原因となったお客さんとのやり取りの印象が追いついてくる。


 私、アイナ・ラドウィックは、駆け出しとしては軌道に乗っていた方の画家だ。率直で素朴、と自負している風景画や主に田園を舞台とした人物画が評価を受ける中で、ちょっとばかり調子に乗っていたのかもしれない。更に事業を拡大していく上での先立つもの欲しさに、最近の流行りである成金の肖像画なんてものを引き受けてしまったのが運の尽きだった。


『へえ、凄いわねえ。お嬢さん先生、これは何を見て描いたの?』


『もちろん、ご婦人とご子息を丹念に観察させていただきましたが』


『――ふざけてんじゃないよ! 私はこんなに厚ぼったい顔じゃないし、この子なんか猿みたいじゃない! 聖堂に飾ってある慈母さまの絵みたいに描いてくれって言ったのに覚えてないの?』


 あの時の会話を反芻すると、喉奥から苦いものがこみ上げてきそうになる。


 半年ほど前に生まれたばかりの赤ん坊を抱いた、肉付きの良いご婦人を、私の目が捉えた最大限の美質と真実味を込めて描出した結果がこれだ。私は幸福な生活の中で形作られた依頼主の身体性と、幼子の無垢という言葉では片付けきれない愛らしいふてぶてしさを切り抜きたかった。親子の間に結ばれた確かな血統のつながりと、子を想う母の緩んだ眼差しを、あるがままの美しさと呼びたかった。


 果たして、信念は奇矯で不躾な振る舞いとしか理解されなかった。もし肖像画家の仕事が嘘をつくことだったとしたら、少なくとも商売人としては、私自身に責任があるのだろう。母が子の目鼻立ちを詰るなんて世界最大の悲劇を呼んでしまったのだから。


 結局の所、契約は不成立となった。私は生活を支えていくためには不十分と言わざるを得ない前金のみを成果とし、すごすごと帰ってきて今に至る。これから先の予定は、まだ何もわからない。


「ああ、また寝てたい……でも夢は見たくないな……」


 憂鬱な気持ちを抱えて私は腕を枕に顔を伏せる。カーテンの隙間からは、嘲笑うような明るい日差しが薄暗い部屋に滑り込んでいた。

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