第二話 腐れ縁

 その日の寝覚めは最悪だったけど、机に突っ伏しての二度寝が最大の理由ではなかった。というのも、ミオーシャの指が、私の頬を後ろからつまんで引っ張り上げる感触で起きたから。

 

「うわ、粉っぽ。アイナ、昨日は化粧も落とさないで寝たの?」


「みいじゃばい、ぞぼぞぼうずでじょうだぢ(いいじゃない、そもそも薄化粧だし)」


 口を開くことができず、短絡な反論は不機嫌な闘牛犬のような唸り声として出力される。これ以上いたずら好きな隣人を面白がらせるのも癪なので、彼女の手首を掴んで、少し痛むであろう程度に出っ張った骨に力を入れる。果たして軽い呻きと同時に手が頬を離れ、本人も後ずさった。

 

「もう、相変わらず荒っぽいなー。朝ごはん作ってあげた手だよ?」


「それはそれ、これはこれでしょ」


 緩慢に作業机から身を起こすと、確かに、浅く焦げた香ばしい肉と濃いコーヒーの匂いが談話室パーラーから這入りこんでいるのを感じた。


 私が朝の10時ごろまで起きてこないと、ミオーシャは決まって来訪し、押し付けがましくも朝食を用意してくれる。ざらついた食味のパンや過剰な塩気のハム、どこの生まれとも知れないコーヒー豆は、その手にかかれば魔法のように美味しくなる――などということは特にないけれど、砂糖を火薬のように慎重に取り回す仕草には、間の抜けた愛嬌があるかもしれない。認めたくないけど。


「顔を洗うのは後でいいよ。アツアツが冷めちゃうし、二人しか居ないし。アタシにも経験あるけど、行き詰まってる時ほどお腹は満たなさいとヤバいんだからね!」


 ミオーシャ・クラント、私と同い年の19歳で、腐れ縁の幼馴染。わずかに誕生日が早いからと「お姉ちゃん」ぶっているけれど、二つ結びの髪や、飴色のビー玉のような落ち着きのない瞳、150cmに満たない背丈は、幼い印象を与えずにはいない。


 私がこのトゥーリカ工房街にアトリエを持ったことを聞きつけると、彼女は3週間ですぐ隣に越してきた。幾らこの数十年で下手な貴族を遥かに凌ぐ財を成し、蒸気文明の嚆矢たる者の一人となった【鉄の寵児フェラム・フェイバリット】の愛娘といっても、異常なフットワークだった。


 ミオーシャのことは、嫌いじゃない。ただ彼女がいる限り、私的な感傷に浸る時間はせいぜい一晩しか持たない。


「さ、座って座って」


「……いただきます」


 促されるまま食卓に就く。さっさと帰って貰いたいという一心で、瞬く間にハムサンドイッチにかぶりついてから、私は想定していない一品がテーブルに乗っていることに気づいた。


「ん、目玉焼きがある。うちは卵を切らしてるから、わざわざ持ち込んできたんだ」


「そっ! でもただの目玉焼きじゃないよ? 実はこの卵、私の発明品で割ったの」


「……ふうん。その割に、味は普通だけど」


「おー、普通なら大成功だね! 殻だって欠片も入ってないでしょ! 蒸気式自動卵割り機、商品化への第一歩~!」


 私が母の画業を受け継いだように、ミオーシャは自身の父から機械づくりの才能を受け取っていた。違うのは、彼女には段違いの資本力と、絶えない家族への敬愛があることだった。その天与は眩しくもあり、妬ましくもある。


「あなたの仕事は順調なようで何よりね」


「アイナだって悪くないでしょ。『リアリズムを追求する新進気鋭の画家』だって話題だし……」


 その情報は一日と少し遅いのよ。喉元まで出かかった言葉を、硬いパンと共にコーヒーで押し流すのとほぼ同時。ミオーシャは食事と会話を中断して立ち上がり、そそくさと玄関先へと向かっていった。じきに彼女が帰ってくると、手には新時代の郵便制度の象徴、官製紙封筒が握られていた。


「ほら。今朝だって郵便受けに新しい仕事の打診っぽい手紙が入ってたよ。差出人は……お医者様だって! しかも貴族の苗字だよ。 これ、結構いいやつなんじゃない?」


 どくん、と心臓が高鳴る。上流社会で悪評が広まる前に、名誉挽回の好機が訪れるとは。このチャンスを絶対にモノにしなければならない。額にうっすらと汗の粒が立つのを感じながら、ミオーシャを手招きし封筒を受け取った。


 「気づいてくれてありがとう、ミオーシャ。今すぐにでも読みたいけれど……取り敢えず朝食は済ませましょう。この手紙が甘いデザートでありますように」


 ──先に結果を言えば、これから私の期待は裏切られることになる。

 

 


 

 


 


 

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