ブラッド×アーティスト~崖っぷち画家と傲慢なる血の女主人~
妖精からっぽまる
プレリュード
今から言うことはハッキリとした自慢なのですが、私のママはとても上手な画家さんです。川の浅瀬に集まってのどかな夕日を浴びる牛たちも、思い思いに草を食む羊たちを優しい瞳で見つめる羊飼いのおじさんも、打ち寄せる波を砕いてそびえ立つ白亜の断崖も、目で見た景色をそのまま切り取ってきたみたいにキャンバスに映してしまいます。
娘としてママの絵を見ながら育ってきた私が、自分も画家になりたいと思うのは自然のなりゆきでした。学校の宿題やパパが望むごく一般的な淑女の手習いに飽きると、私はいつでもアトリエに忍び込みます。それでキャンバスと同じサイズのノートを広げては、ママの絵を真似て鉛筆で描いてみるのです。(前に顔料を混ぜて本物の布に絵を描こうとしたら、一人ではやるな、ってこってり絞られました)
もちろん、私の絵は「模写」って言えるほど綺麗には仕上がりません。どこから光が差し込んでこんな景色が出来上がっているのかとか、肖像画で鼻筋の傾きや唇の厚みをどうやって描き出しているのかとか、考えながら手を走らすだけでくたくたになってしまいます。
そうして出来上がった不細工なものと、お手本の間で視線を行き来させていると、不意に出入り口が開きました。ママがアトリエに帰ってきたのです。
「ただいま、アイナ」
「あっ、おかえり、ママ。夕方まで帰ってこないって聞いてたからちょっと驚いちゃった」
「そのつもりだったけれど、肖像画のお客様が体調不良ってことで延期になったの。おかげで愛娘が母親のアトリエで我が物顔してるのを見られたってわけ」
「別に良いでしょ。絵の具は勝手に使ってないし」
「冗談よ。アイナが自然と絵に興味を持ってくれた以上、このアトリエはあなたのものでもあるわ。もちろん限度はあるけれど……」
ママは帽子と外套を棒型のハンガーにかけて、私の隣まで来ました。滲むように歪んだ見様見真似のシヴェイラ農村の昼下がりの景色にママは微笑みを向けましたが、私は出来栄えにまったく不満足だったのです。
「気遣うのはやめてよ。油絵じゃないのを差し引いたって、ろくな出来じゃないのにさ」
「家族におべっかは無用よ。気分がいいから笑ったの。それに最初から上手く描ける人は、きっといないわ。私が描き始めた時はアイナよりよっぽどいい加減だったんだから」
「もう、それも天才って呼ばれる人たちはみんな言うやつなんだから! ……というか、ママは私が紙に描いた絵をそんなに見たことある?」
「ええ、たくさん」
話している間、私は左手で頬杖をつきながら右手で鉛筆をくるくると回してもてあそんでいました。けれども忙しない動きは、ママが机の物入れから取り出した皺だらけの紙を見た瞬間、ぴたりと止まってしまいました。
「ちょっ、と! 捨てたはずなのにどうしてママが持ってるの!?」
「私がこの家のゴミ出しをしているからよ」
「そうじゃなくて、ゴミを持ってるのはおかしいでしょ」
「これをゴミにしてしまったのは、アイナ、あなたよ。自分がまだ目標に達していないと思っているのに、どうして描いたものを忘れようとしてしまうの?」
学校の先生がサボり魔を叱るような厳しい言葉を、ママは穏やかに、緩んだ顔つきのまま突きつけてきました。少なくとも私にとっては、怒鳴るよりよっぽど自分の非を冷静に、純粋に意識してしまう方法でした。
俯いたまま答えに窮していると、頭の上に温かい血の通った手のひらが触れ、手の小ささのわりに節くれた指が優しく真っ黒な髪に沈んでいきました。
「ごめんなさいねアイナ。私には、自分の絵がまだ上手くないから恥ずかしい、って気持ちは正直わからないの。でも上を目指したいのは一緒。だってもっと綺麗に描いてあげたいもの」
「息づいている自然、懸命に生きている命、日々を営んでいく人々、緊張の合間に流れる平和なひととき。私が描いていて楽しいと思うものは、どれもありのままに存在しているだけで美しいのよ。その美をあらわす術こそが、私にとっての美術なの」
私はママが言っていることを辞書的な意味としては理解しているつもりです。それでも簡単にうなずくことは出来ませんでした。だって私は、ママが素敵な絵を描いていることは知っていても、絵という手段で伝えたいことを今まで気にも留めていなかったことを発見したのですから。
「それが、ママが絵を上手くなりたかった理由なの?」
「そうよ」
「だったら……私はまず、ママと同じものを見てみたい。それで同じことを考えるか、自分の技術に落とし込めるかはわからないけれど、とにかく知りたいの。どうしてママがあんなに世界を綺麗に映し出せるのかってことを」
すっくと顔を上げると、私はママの瞳を真剣に、でもひとつまみの子供らしい媚を混ぜて見つめました。
「つまり、方向音痴で一人じゃ怖いから、スケッチのためにどっか連れて行けってことね?」
「方向音痴は余計だから! 自分の認める師匠にマンツーマンで見てもらいたいってだけ」
「勿論見てあげる。どうせなら早く帰ってきたことも活かしたいしね。そのかわり、描いた絵はこれから絶対に捨てちゃダメよ? 世界の姿を見つめるつもりなら、自分のありのままと未熟なあゆみもしっかりと認めないとね?」
「……仕方ないなぁ」
私は既にノートから切り離していた模写のページをノートにひとまず挟み込みなおしました。きっとこの絵を未来の私が見たら、今以上の恥ずかしさに襲われて、もしかしたら死にたくなるかもしれません。ママもとんだ試練を授けてくれたものです。
「ママ、お昼はもう食べた? 私は自分で済ませたけど」
「外で食べてきたわよ」
「じゃあ行こう。すぐ行こう。どこ行くのか知らないけどっ!」
「もう、アイナはせっかちなんだから」
荷物を稲妻の早さで鞄にまとめると、脱いだコートをすぐ着直す羽目になったママをよそに、内鍵を開けてドアノブに手をかけました。これから目にする景色を最大限に味わい尽くして、天才画家の技術と、そのきらめく瞳に反射する世界の秘密を盗み取ってやろうと心に誓いながら────。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます