9-3
マトリは素直にそう言った。会ってみたいことに間違いはない。何が待っているのか分からないこの状況が、ちょっと怖いだけだ。
「ふふ、マーチン博士は喜びますよ。あなたのような体験をした人の話は、誰よりもマーチン博士が聞きたいに違いないですから。どれ、大学名と住所を書いて差し上げましょう。ええと、紙はどこにあるかな」
パントフィ先生は立ち上がって、メモ用紙を探し始めた。マトリも立ち上がると、ポケットからかさりと音がした。
「そうだ、拾った紙をポケットに入れたんだったわ」
マトリはポケットからクシャクシャの紙を引っ張り出して、急いでシワを伸ばした。
「パントフィ先生、よければこれを使って下さい! 余白に書いていただければそれで十分ですから」
パントフィ先生は驚いた顔でマトリの紙を受け取った。
「マトリさん、この用紙をどこで手に入れたのですか?」
「あ、えーと、それは……!」
マトリは一瞬言葉に詰まった。町長室から失敬してきましたなんて言いたくない。出さないほうが良かったか……。
「町長室の本から落ちたんですけど、戻す時間がなくてとりあえずポケットに入れたんです」
「ふうむ、そうですか。いや、気が変わりました。きちんとした紹介状を作成することにしましょう。マーチン博士は立派な大学教授ですし、そのほうがいいでしょう。その代わり、この用紙をいただいてもよろしいですかな?」
「え? それは構いませんけど……。その紙は『感染症の原因と予防法』の一部ですよね? お父さんが持ってる本と同じだったんです」
不思議に思って先生を見上げると、先生は穏やかにふふふと笑う。
「ちょうど私に必要なものでしたよ。さあ、夜も更けました。もし休みたいなら、客間を使ってもらって構わないですが、いかがですかな?」
* * *
マトリは道場の裏庭にいた。
パントフィ先生は、外は危ないから落ち着くまでうちにいればいいと言ってくれた。その方が賢明ではあった。マトリたちが庁舎に、しかも町長室に忍び込んだのが周知の事実となってしまったからだ。
町長室のソファーを燃やしさえした。今にも警察官たちが、マトリたちを捕まえにやって来てもおかしくないだろう。
それでも、マトリたちは一度道場に戻って来たかった。今日でこの道場ともお別れなのだ。最後にもう一度見ておきたかったし、それならば夜明け前のほうが都合が良い。
道場にジャドソンの部下か警察官が既に潜んでいるのではないかと、マトリはドキドキしながら足を踏み入れた。しかし、見る限り誰も潜んではいないようだ。マトリはほっと胸を撫で下ろした。
ヒックスは荷造りをすると言い、そのまま部屋から降りてこなかった。きっと少しベットに転がって休憩するつもりが、そのまま寝てしまったにちがいない。
マトリは裏庭に置いてある木箱の上に座って、白み始めた空を眺めた。考えることがありすぎて、眠気は全く感じない。
フェツの大森林から鳥の鳴き声が聞こえてくる。遠くのほうで、鳥の大群が一斉に空へ飛び立つのが見えた。
「マトリ……」
後ろから声が聞こえた。見ると、ラフィキが立っていた。
「眠らなくていいのか……?」
「うん、大丈夫。体力には自信があるの」
ラフィキはマトリの近くにしゃがみ込む。
二人はしばらく、星々が薄らぎ、だんだんと明るくなっていく空を眺めた。
「今日でここともお別れだな」
やおらラフィキが口を開いた。
「いいえ、お別れじゃないわ。必ずお父さんを取り返してみせるし、またここに戻ってくるもの」
ラフィキが驚いた表情でマトリを見た。
「それはつまり……この場所は一度無くなってしまうかもしれないけど、また戻って来てやり直すって意味よ」
マトリは頬を紅潮させ、熱心にそう言った。町長室から証拠をひとかけらも集められなかったとしても、他にどのようなピンチが訪れようとも、この思いだけは
ラフィキ小さく微笑んだ。
「マトリはいつでも真っ直ぐだな。ジャドソンの部屋に忍び込んだ時もそうだった。……マトリが少し
「ラフィキはすごく強いじゃない」
マトリは驚いてそう言った。
「ラフィキは足も速いし、ハンターとしての腕前も一流だってお父さんが言ってたわ。その歳で、自分の腕一本でやっていける人はそうそういないって」
「そうじゃないんだよ。力が強いとかじゃないんだ……」
ラフィキは苦笑した。
「でもマトリ、僕は時々分からなくなるんだ。マトリはどうして、そこまでこの道場にこだわるんだ?」
「え!? それってどういうこと?」
マトリがプロックトンや道場を大切に思っていることは、ラフィキもよく知っているはずだ。マトリには質問の真意が理解できなかった。
「すまない……聞こえてしまったんだ。師匠がマトリに、スミス家の女中になる話を持ちかけてたのを。返事ができないでいるマトリの声も……」
「ああ、そうなのね。そう言えば逮捕される時も、お父さんその話してたものね」
「ああ……。それに庁舎に忍び込む前の気合の入り方もすごかった……」
マトリは少し恥ずかしくなって
「マトリは手先も器用だし、愛想はいいし、仕事も早い。僕と違って、人と話すのも上手だ。マトリなら、どこに行っても上手くやっていける。マトリならなんでもできる」
ラフィキはマトリの顔をチラッと見た。その途端、顔にさっと赤みが差した。眼球が震え、どこを見るべきか
「……つまり僕が言いたいのは……マトリのこの道場へのこだわりや、師匠と離れたくないという思いが……うん……なんて言うか……ちょっと強すぎるのかもしれない。そのせいで、マトリの可能性がちょっと狭まってるのかもしれない。そう思ったんだ」
鳥の群れが、再び森から飛び立った。木々の間から、ルビー色の太陽が登るのが見える。
「それが悪いってわけじゃない……そういうわけではないんだ……」
ラフィキは必死に何かを伝えようとしているように見えたが、感情表現能力が底をついたらしく、黙り込んでしまった。
ラフィキの言い方はたどたどしかったが、言葉の一つひとつが、マトリの心の中にストンと入ってきた。ああそうか、とマトリは思った。
ジャドソンが問題を持ち込む前から、マトリはずっと、この家を離れることを恐れていたのかもしれない。プロックトンと別れて暮らすのを恐れていた。プロックトンは誰も身寄りのいないマトリの、唯一の心の拠り所だった。
ラフィキはどうなんだろうと、マトリはふと思った。ラフィキは山小屋で一人で暮らしをしている。
「ラフィキは実家を出る時、寂しくなかったの?」
マトリが唐突にそう聞いたので、ラフィキは面食らったようだ。
「僕?」
「ラフィキって、もう何年も猟師をしてるんでしょ? 家に戻りたいとは思わないの? お父さんとか、お母さんと離れるのが寂しいとか、そういうのは感じないの?」
ラフィキはちょっと険しい顔になった。どこかに忘れてきた昔の記憶を、必死こいて探し回っているような、そんな表情だ。
「僕は早くに実家を出たかったんだ」
「え!? そうだったんだ。 じゃあラフィキは実家を出る時は何も感じなかったの? ……寂しくなるかもしれないとか、一人でやっていけるかとか、そういうの心配じゃなかったの?」
「うーん……いや、あるにはあった。母と別れるのは寂しいと思ったよ。母だけは僕のことをちゃんと扱ってくれたし、僕のことを見ててくれていた」
「お母さまだけは?」
「そうさ」
ラフィキは相変わらず俯いたまま言った。メーティがやって来て、二人を不思議そうに見た後、菜園でミミズを探し始めた。
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