第10章 再び逃亡

10-1

「僕の実家は大きなワイナリーのオーナーなんだ。ぶどう畑や醸造施設もたくさん持ってて、社員も多く抱えてる」


「ワイナリーって、ワインをたくさん作ってるところ? じゃあ小さい頃は、ぶどう畑に囲まれて育ったのね。うわあ、私、そういうのちょっと憧れかも」


 ラフィキがそんなお坊ちゃんだったとは、マトリは今の今まで知らなかった。マトリは、真新しい白いシャツを着て、ぶどう畑を走り回っている幼いラフィキを勝手に想像し、自分の想像に微笑んだ。


 しかし、朝焼けに照らされたラフィキの表情は曇っている。


「僕は三兄弟の末っ子なんだ……。兄二人は優秀で、人付き合いも上手かった。父はそんな兄たちが自慢だった。特に自分の後継者になる長兄のことは特に可愛がってた……。

 でも僕は三男で、プレッシャーに弱かったし、人付き合いも苦手だった。父は僕にも、兄たちみたいに周りに自慢できるような子になって欲しかったんだ。僕は早くあの家を出たかった……」


「そうだったんだ……」

 

 二人はしばらく、メーティがミミズを探して動き回る姿を見つめた。


「でも、お母さまはラフィキのことをちゃんと見ててくれたんでしょ? その……つまり」


 マトリは体を寄せて、一番聞きたいことを質問した。そんなつもりは無いのに、なぜかひそひそ声になる。


「家を出た後、帰りたくならなかった? お母さまに会いたくてたまらなくなったりとか……」


 ラフィキはマトリの顔を見て小さく微笑むと、マトリの頭に左手をポンと乗せた。


「すぐ慣れるよ……」


「そ、そっか」


「そうさ。それに実家を出てからの方が、冷静になって家族のことを見れたりするものさ……」


 遠くの方の山で、鳥の大群が三度みたび飛び立つのが見えた。日が完全に登り、辺りは鳥の鳴き声で騒がしくなった。


「何か……様子が変じゃないか?」


 ラフィキは立ち上がって、フェツの大森林を見た。メーティもミミズを探すのをやめて、森をじっと見ている。


 その時、突然空気が震えだした。森の奥の方から、木管楽器を低音で鳴らしたような、低く、長い音が響いてくる。


「なんなの……あの音」


 マトリも立ち上がった。何かのけものの声にも聞こえる。音は低く、悲しげだった。音がするたび、森がざわついた。


 よく耳をすますと、その音がするたび、他の獣たちも声を上げているようだ。太い一本の音に、いくつもの音が絡みついて、大きなうねりとなり空気を震わせている。


 メーティが音に合わせて、猫のように細く甲高い鳴き声を上げた。


「モアの声だ……」


 マトリは呟いた。


「わかるのか?」


 ラフィキがマトリを見て言う。


「うん……。モアが悲しんでる。泣いてるんだ……」


 モアの鳴き声は波動のように森中に広がっては収まり、また広がった。まるで森全体が息をしていて、苦しみ、悲しんでいるかのようだ。


「森で何かあったのか……?」


 ラフィキは目を細め、今にもモアが現れるのではないかと体を固くした。


 その時、裏口が開く音がした。振り向くと、真っ青な顔のヒックスが走ってくる。


「時間切れだ」


 ヒックスは喘いだ。


「ジャドソンの部下らしき奴らがこの家に向かって来てる。二階の窓から見えた。このまま逃げるぞ、表からはもう出られない。何も持って行くな、急げ!」



* * *



 三人はラフィキの山小屋がある白狼山はくろうさんに向かうため、町の北川を目指した。しかし、町から山へ続く道には数人の警察官がいた。三人はそれを見るが早いか、急いで木の影に隠れた。


「あの人たちなジャドソンの手先かしら? それとも、たまたまあそこにいるだけなの?」


 マトリは息を切らし、胸を押さえながら警官たちの様子を伺った。心臓の動き方がおかしくなったようで、ゲホゲホと咳き込む。


「分かんないけど、どっちでも同じさ。ジャドソンが何もしなくたって、パーカー町長が俺たちを捕まえたがるだろ。建造物侵入とかで」


 ヒックスも肩で大きく息をしている。


 その時、警官の一人と目が合ってしまった。マトリは息をみ、急いで頭を引っ込めたが、警官の足音が大きくなる。


「……マトリ、ヒックス、まだ走れるか?」


 ラフィキの問いに、マトリはどうにか頷いた。走るしかない。


 マトリたちはまた走り出した。後ろから警官の怒鳴り声が聞こえる。石畳が、皮の靴で蹴られる音が辺りに響き渡った。


 マトリは無我夢中で走った。後ろを振り返る余裕なんてとてもない。ヒックスはどうにかこうにかついて来ているようだ。


 ちょうど道の曲がり角に来たとき、ラフィキが二人を掴んで物陰に飛び込んだ。三人は息を殺した。警官たちはそのまま駆け抜けていった。


 ヒックスは本当に息を止めていたらしく、ぶはっと大きく息を吸い込むと、息も絶え絶えにその場に転がった。


「これ——から——どこに——行く?」


 マトリはあえぎ喘ぎそう言った。


「町を上手く——出られる——かしら?」


「夜まで待った方がいいな。少しでも俺たちの事情を知ってるやつに見られたら……クロユリばばあとかにもし見つかったら……」


「でも、ここにいるわけには行かないわ」


「ああ、パントフィ先生の家まで行こう。パントフィ先生なら俺たちを匿ってくれるはず。海岸沿いまでたどり着ければいいけど……」


 三人は建物の陰を伝いながら、慎重に移動した。マトリは町中に警官がいるかもしれないと肝を冷やしながら歩を進めたが、警官が道をパトロールしている様子はなかった。


 警察署としても、たかだか三人のこそ泥のためにそこまで人材を割けないのかもしれない。


 しかし、船着場の入り口は二人の警官が立って見張りをしていた。警官たちは警棒を持った手をブラブラさせ、退屈そうにしている。


 早朝だったこともあり、マトリたちはほとんど町民と出くわさずに済んだ。鼻歌を歌っているラルコが、守衛の制服をだらしなく着て路地裏を歩いて行くのを見かけただけだった。


「ラルコさん、もしかしてクビになったのかしら?」


 マトリは早朝にもかかわらず、能天気に歩くラルコのずんぐりした後ろ姿を眺めた。その姿を見て、ほんのちょっぴり後ろめたい気持ちになった。


 ヒックスはフンと鼻を鳴らす。


「知るもんか、気にすんな。あいつクビになっても気にしないぜ。というか、気にする理由がない。自分一人、好きな時に酒を飲んで楽しく生きていければそれで満足な男なんだから。昔は奥さんいたらしいけど、酒が原因で捨てられたんだと」


 マトリたちは壁にへばりつきながら移動し、どうにかパントフィ先生の家までたどり着いた。


 低い鉄製の柵を乗り越え、ヒックスがドアをノックした。しかし、何度ノックしてもパントフィ先生は現れなかった。どうやら留守のようだ。


「こんな早朝なのにお出かけになったのかしら?」


 焦りがひしひしとこみ上げてきて、喉元を焦がす。


「おかしいな……パントフィ先生はそれほど頻繁に外出はされないんだけど。来客者は多いけどさ」


 三人はパントフィ先生の家の庭に入り込み、生垣の裏に隠れた。人の家の庭にこそ泥のように潜んでいるのはいい気持ちではなかったが、怖くて表に出ることができない。


 幸い、庭には井戸があったので水は確保できた。三人はパントフィ先生が帰ってくるのをひたすら待った。


 昼前になった。昨日から一睡もしていないマトリは、流石に疲れてしまい細い木にもたれてウトウトした。ヒックスの腹がグゥーと鳴るのが聞こえた。ヒックスの顔にも疲労の色が浮かんでいる。


 ぼんやりしたマトリの頭に、聞き覚えのある女性の声が響いてきた。あの声は……? マトリは首を上げようとしたが、ヒックスがマトリに伏せるよう目配せした。


「クロユリだ」

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