6-2

「ね、お嬢さん。気の毒だけど、今被疑者に会わせることはできないよ。分かってくれるだろ? 君はまだ若いんだし、早いとこ違う町に行って、仕事でも見つけた方がいい。さあ帰った帰った。ここにいると目立つよ」


 そう言ってそばかすの警察官はマトリの腕を引っ張ると、手の平に何かを押し込んだ。そして警察署の前まで連れて行き、何やらマトリに向かって大きくうなずくと、署内へ戻っていった。


 こんなところでまで町を出て働けと言われるのか、私はお父さんに会いたいだけなのに。マトリはしょげて警察署を離れた。


 警察官がマトリに握らせたのは、人気メーカー「タッカーズ」の大きなチョコレートボンボンだった。綺麗な水色の紙に包まれて、甘い匂いを放っている。


 こんな時でなければこのチョコレートを大いに楽しめるのにと、マトリは切ない気持ちでチョコレートを目の高さまで掲げた。マトリが大好きなチョコレートすら、今の気持ちを晴らす役には立ちそうになかった。


 その時、目の前に掲げたチョコレートボンボンの後ろから見覚えのある背中が現れ、庁舎へ向かって歩いていくのが見えた。


「あの後ろ姿は……!」


 マトリはチョコレートをポケットにしまうと、紙袋を抱え直して、その人物を目を細めて眺めた。


 それはスカビオサだった。がっくりと打ちひしがれた様子で、杖をつきながら庁舎へ続く石畳を歩いていく。


 庁舎まであと少しというところでスカビオサは立ち止まると、疲れ切った様子で大きくため息をついた。そして辺りをキョロキョロ見回すと、庁舎の中へ入って行った。


 スカビオサは庁舎に何の用があるのだろう? それにあの気落ちした様子は何かあったのだろうか。


 マトリは好奇心から、スカビオサを追いかけて庁舎に入ろうとしたが、思い直して立ち止まった。警察官の自分を見つめるあの表情が、目の裏にちらついた。


 マトリはスカビオサに背を向けて立ち去ろうとしたが、すると今度は道場でのスカビオサの姿が脳裏に浮かんだ。寄付集めの缶を振り回す姿、横柄おうへいな態度、ヒックスとケンカする様子。

 

 マトリはきびすを返すと庁舎に向かって歩き、アーチ型の玄関ポーチをくぐり抜けた。


 庁舎の中は警察署よりも明るい印象だった。玄関ホールに敷いてある絨毯じゅうたんはワインのような渋い赤色で、玄関ホールいっぱいに敷き詰めてある。階段の手すりには透かし彫りが施されており、縦長の窓から差し込む光が透かし彫りの影を絨毯の上に落としていた。


 まだ朝が早いせいか、庁舎の中は職員以外ほとんど人がいなかった。くるくるの天然パーマを頭に乗っけたおじさんが、町が新しく出した「汚物掃除おぶつそうじに関する条例」で生ごみを川に投棄することを禁止したことについて、「ごみ対策課」に文句を言っているだけだった。


 スカビオサは玄関ホールを入ってすぐの「総合案内」の前にいた。マトリは階段近くの柱の影に隠れて、スカビオサの様子を伺った。


「——ですので、今はお取次致しかねますの。申し訳ありませんね」


 総合受付に座っている女性がスカビオサに話しかけている。


「あんたらはいつもそうだぞえ。今日こそパーカー町長に会わせとくれ。あたしゃ、町長に会うまで帰らないよ」


「失礼ですが、町長のパーカーは本日予定が詰まっていると申してますわ。ええ、あなたが今日も来ると思って、今朝秘書に確認させましたの」


 受付の女性の声には多少イラついた響きがあった。


「じゃあジャドソン町長補佐を出しとくれ。私はあの男との約束をちゃんと果たしたんだ。会わせとくれ、今日こそケリをつけるぞえ」


「恐れ入りますが、ジャドソンは本日外出しておりまして、戻る予定はございません」


 受付の女性がツンとした声でそう言い放つのが聞こえた。スカビオサは搾り出すような呻き声を上げた。そして何かを叩いたようなバーンという大きな音が女性の悲鳴と一緒に聞こえてきた。


 マトリは柱の陰から顔を少し出して様子を伺った。目を釣り上げたスカビオサが来客用ソファーに向かっている姿が見えた。受付では女性が憤慨ふんがいした顔で座っている。スカビオサが癇癪かんしゃくを起こして杖で受付を叩いたようだ。


 マトリはスカビオサに気がつかれないよう小走りで玄関ホールを駆け抜け、庁舎の外に出た。スカビオサは一日中座り込む決意したかのようにソファーのど真ん中に座り、杖に両手を置いて総合受付を睨みつけていた。


 マトリは軽い興奮を覚えながら芝生の上を歩いた。と同時にほんの少しだけ苦い罪悪感も味わった。うわさ好きの婦人たちと同じように、自分もお節介な「知りたがり屋」になってしまったからだ。


 少なくとも自分はうわさ話をしたわけではない。そう思いながら、マトリは今見たことについて考えた。スカビオサがジャドソンと何かを約束しているが、ジャドソンはその約束を果たしていないらしい。


 スカビオサが毎日庁舎に通うほどジャドソンに求めているものは何なのか、マトリはあれこれ考えたが見当もつかなかった。最後にスカビオサが道場に来たのはいつだったかマトリが思い出していると、どこからか声がかかった。


「おおーい! マトリ、こんなところで何してんだよ!」


 マトリが振り向くと、ヒックスがこちらに走ってくるのが見えた。手に新聞のようなものを持っている。


「ヒックス! 用事はもう済んだの?」


「いいや、まだ情報収集してるとこ。パントフィ先生の家にも行きたいしさー、マトリは何してんの? 朝の散歩? まさかおやじに会おうとして警察署にのこのこ入ったりしたんじゃないだろうな? え?」


 マトリは自分の顔が火照るのを感じ、ヒックスに顔を見られないよう広場の花壇に咲き乱れているルピナスを鑑賞かんしょうしているふりをした。ポケットに入っているチョコレートが足に触れているのを感じる。


「ち、違うわよ! 買い物してたの、ヒックスが昨日ジャガイモを全部食べちゃったからね」


「ふうん、それで帰りはわざわざ大回りして、庁舎の花壇なんか鑑賞しに来たってわけだ。俺がおやじを解放するために忙しく駆け回ってる間にさ」


 マトリは今しがた買ってきたトマト缶をこぶしの代わりにして、ヒックスにアッパーをお見舞いしてやれたらどんなにせいせいするかと思った。そんなマトリの様子を見たヒックスは笑って紙袋を取り上げると、小脇に抱えて歩き出した。


「そういえばねヒックス、今スカビオサさんが庁舎に入っていくのを見たのよ」


「え、スカビばばあを?」


「うん、スカビオサさん、何か問題を抱えてるみたいなんだけど……」


 しかし、その先は言えず仕舞いになってしまった。


 芝生の広場が終わり庁舎の敷地の外に出ようとした二人は、門の外で具合の悪そうな中年の男が立っているのに気がついた。

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