6-3

「おじさん、大丈夫ですか?」


 マトリはその男性に近づいた。男性は腹を抱えて体をくの字に折り、青白い顔には冷や汗が玉のように浮かんでいる。


 ヒックスも近づいて、その男性の腕を取った。


「おい、大丈夫かよ。なんか幸薄いぜ」


「ヒックス! 一言余計なのよ!」


 マトリは可能な限りひそひそ声で言ったつもりだったが、どうやら男性に聞こえてしまったらしかった。


「いいんだ……私は特別幸の薄い男だし、運の悪い人間なのさ。そうだとも……」


 男性は花壇に生えているルピナスが散りそうなため息をついた。


「えーと……とりあえずあそこのベンチにでも座って休めばよくなるかもしれませんよ?」


 マトリとヒックスは庁舎の敷地に入ってすぐの場所にあるベンチに男性を座らせた。


「いやありがとう、君たち。何、大丈夫だよ、いつものことさ。出勤する前は決まって腹が痛くなるんだ。若い頃からのくせだよ。ここ最近ちょっとひどいんだけど、休めば良くなるさ」


「おっさん、上司にいじめられでもしたのか?」


 ヒックスは紙袋を勝手に開けて、マトリが買ったパンをちぎろうとしながら言った。


「ヒックスったら! すいません、この人ちょっと口が悪いんですけど、悪気はないですから」


 マトリは慌てて取り繕ったが、男性はそれほど気にしていないようだ。広場の中央付近にある池を、本気でそこに飛び込んでおぼれてしまいたいような顔でじっと見ている。


「上司……そうだね、私はなるべく上司と揉め事は起こさないように生きてきたはずなんだけどね。それでも、仕事をしていれば揉めることもある。そうさ……」


「平社員は大変だな」


 ヒックスはパンをむしゃむしゃ食べている。マトリはヒックスをにらみつけたが、ヒックスはお構いないしだ。


「いや、私はこれでも副町長なんだけどね」


 ヒックスは突然パンがのどに詰まったらしく、ゲホゲホとむせた。


 副町長ってもしかして! マトリは昨晩の記憶を手繰り寄せた。小さな記憶が、マトリの頭の中でとうもろこしの粒のようにポンと弾けた。


「もしかしてハリス副町長ですか!? 町長に鎌をかけた?」


 今度はヒックスがマトリを睨みつける番だった。ヒックスの目が恐ろしく釣り上がった。


「私を知っているのかい?」


 ハリス副町長は不思議そうにマトリを見つめた。マトリは大汗をかきながら、この状況をどう乗り切るか、濡れた布巾を絞るかのように脳みそを絞りあげたが、出てくるのは使えそうもないお粗末な案ばかりだった。


「えーと、つまりですね、私たち聞いてしまったんです。その……うわさ話しを。誰かから聞いた話では……ええ、まあ言いづらいことですけど……町長と副町長は仲がよろしくないとか?」


 ハリス副町長はマトリが一言話すたびにみるみる肩を落とし、しまいには前屈みになってがっくり頭を垂れてしまった。


 しまった! 余計に落ち込ませてしまうとは! マトリは手をみ絞ってハリス副町長にかける言葉を頭の中で探し回った。


「あの! 気を確かに持ってください! 副町長さんだって分かってらっしゃるでしょう? こんな小さな町なんですから、うわさが飛ばないようにするなんて無理なことなんです。

 ハリス副町長はクロユリ・ゴールドという人をご存知ですか? ほら、町の大工の棟梁の奥様ですよ。町中のうわさの半分以上があの人から発信されてますけど、みんなゴールド夫人の言うことは眉唾物まゆつばものだって言ってます」


 マトリは話がクロユリの下になると自然と熱がこもった。ヒックスがなんとも言えないニヤニヤ顔でマトリを見ている。


「だって本当だもの」


 マトリは憤慨ふんがいして言った。


「あの人は嘘っぱちな情報でお父さんを陥れたのよ」


「いやいや、君たち、町の人たちが私のことをうわさしていることは百も承知だよ。使えない、無能なクズだってね。……君たち、窓際族という言葉を知ってるかい?」


 ハリス副町長が何やら不可解なことを聞いてきた。マトリは窓際族など聞いたこともなかった。この国どこかにいる少数民族のことだろうか?


「えーと、すいません、何族ですか?」


 マトリは聞き直した。


「俺知ってるぜ、会社の中で厄介払いされて窓際で暇してるおっさんのことだろ?」


 ヒックスが気遣う風でもなくそう言い放った。


「そうとも、私は長年窓際族の人間だった。いろいろな部署を転々としたんだ。どこの部署でも、同じような単純な仕事を毎日ひたすらこなす日々だった……」


「そんなんでよく続けてられるな。悔しくないのかよ」


「私だって若い頃はやる気に溢れていたさ。仕事だって人並みにできた。でもどうも苦手でね……出世争いというものが。それに一生平役人のままでも、首にならずに給料が入ってくるならそれでもいいと思っていた。安全に、決められたことだけしていれば給料がもらえるなら……。

 しかし前回の町長選挙でパーカー町長が当選し、町長が交代した。そしてパーカー町長はなぜか、万年平役人だった私を突然副町長に任命したのさ」


「副町長は選挙で選ばれるんじゃないんですか?」


 マトリは尋ねた。


「いや、副町長は選挙に勝った新しい町長が指名するんだ。それを議会が承認すれば副町長にはなれる」


「でもパーカー町長がハリス副町長を認めたから副町長にしたんですよね? だったらそんなに落ち込まなくても……」


 マトリは慰めたつもりだったが、これが大間違いだった。ハリス副町長はブルっと震え上がって頭を抱え込んだ。


「認める? まさか! パーカー町長は、私が窓際族だったから副町長に任命したんだよ。つまり副町長には特に何もして欲しくなかったわけだ。出しゃばらない、自分の意見を持たない、決められたこと以外余計なことは一切しない人間を欲した。そして白羽の矢が私に立ったってわけだ」


「でもあんたはその通り働いてたんだろ? もちろん」


 ヒックスが口を挟んだ。


「何もせず副町長室に座ってるだけで以前よりも高い給料がもらえるんだぜ。あんたとしてもおいしい話だったはずだろ?」


「ああ、そうだね……。そのはずだったんだが……そのうち気がついてしまったんだ」


 ハリス副町長はより一層頭を抱え込んだ。何に気がついたというのだろうか? マトリは口を開きかけたが、ヒックスが人差し指を口元に当て、声を出さずに黙るよう合図しているのが見えたので何も言わなかった。


「何に気がついたんだい?」


 ヒックスが慎重に、何気ない口ぶりで聞いた。


「会計課から回ってくる経費の報告書にどうも不自然な点があってね。別の報告書を作成するための資料を探しているフリをして調べてみたら、何者かが、かなりの額を経費として落としているらしいことがわかったんだ」

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