紫の偶像

 訓練所から立ち去った後。

 クリスティアンは、呆然としながらも自らの仕事をきちんと片付け、業務時間が終わった後にセランネ家の戸籍を調べた。あの騎士ヴィルが、本当に茶会で逢ったミーナと同一人物であるのか、どうしても客観的な事実をもって確認したかったのである。

 調べた結果、セランネ家には、男児誕生の事実も養子を取った事実もなかった。それどころか、彼女の従姉妹にすら男は一人もいない。セランネ辺境伯の家に男児が入り込むことなど、稀有な状況にあるのである。

 これでようやくヴィルヘルミーナがあのヴィルという騎士と同一人物であるという事実が飲み込めた。


 そうすると、次にクリスティアンの中に湧いてきたのは、何故ヴィルヘルミーナがそんなことをしているのか、という疑問だった。娘たった一人しか子供がいないのなら、婿を取れば良いだけだ。女騎士を否定する気はないが、貴族の一人娘がすることではないだろう。

 となれば、情勢の問題か。セランネの領地は、領主の爵位の示す通り国境に面した位置にある。隣国の攻め入る危機を感じて、健気にも剣を取ろうと思ったのか。


「……いや、隣国とは数年前に新たな条約を結んだばかりだ。不穏な話も聴かない」


 その可能性も排除された。

 クリスティアンの常識では彼女の思惑を図ることができず、頭を悩ませながら灯りのともった城内を歩く。


「あら、クリスお兄様、どうかなさったの?」


 高い声に呼び止められて、クリスティアンは赤い絨毯から顔を上げた。黄色い煉瓦の壁の向こう側からクリスティアンの兄妹が顔を出している。半年だけ歳上の兄である第四王子アハトと、今年十二になる妹の第三王女カトリーナ。クリスティアンと違って日の光に似た髪色の、異母兄妹たちである。


「いや、少し考え事を」

「ひょっとして、恋の悩みとか?」


 からかうようにいう異母兄アハトの言葉に、クリスティアンは頬をひきつらせた。隣でさらに、異母妹が目を輝かせるものだから、さらにその場から逃げ出したくなった。

 なんとか踏みとどまり、喉から声を絞り出す。


「……何故それを」

「王妃様が母上に話に来られたからさ。クリスに気になるご令嬢ができたって」


 お喋りな。内心実母に悪態を吐く。澄ましているようで、母はお喋りが大好きだ。側室であるカトリーナの母もこれまた話好きなものだから、王妃は暇を見つけては側室のもとを訪ねている。その回数は、王の夜渡りよりも多いという噂が流れるほどだから、全く奇妙なことだった。

 王妃と側室の仲が良いのは結構なことだが、自分の子供のあれこれを話題にするのは止めてほしいものだ。まして、片恋の話など。進展も後退もしていないとはいえ、当事者には恥ずかしいのだから本当に勘弁してもらいたい。


「お相手は、どなたなの?」


 そして、そんなお喋りな王室の娘のカトリーナもまた、話好きなのだから厄介だ。特に、年頃らしく恋の話は大好きで、よくお友達と集まって、小鳥のようにあちこちから情報を集めては噂話に興じている。

 それを可愛らしいと寝惚けたことを言う者もいるのだが、その執念は幼いながらもすさまじいものがある。残念ながらカトリーナの手の中に捕らえられてしまったクリスティアンも、きっと逃れることができないだろう。

 妹の追及を逃れるのに使う労力と、妹が騒ぐのをうんざりしながら眺めることで消耗する体力を天秤に掛け、後者のほうがまだマシだと判断したクリスティアンは、諦めて白状することにした。


「……セランネ辺境伯のご令嬢のヴィルヘルミーナ嬢だ」

「まあ! ホルテンシアの騎士様ね!」


 ぱん、と両手を叩き、カトリーナは目をキラキラと輝かせた。


「……紫陽花ホルテンシア?」


 浮かれた妹の様子に呆れながら、クリスティアンとアハトは互いの顔を見合わせる。

 女性を花に例えることはままあるが、紫陽花に例えることは、まず少ない。〝移り気〟などという印象の良くない花言葉を持つからだ。ヴィルヘルミーナがそんな浮わついた女性には見えないものだから、クリスティアンはますます困惑する。

 ――それともまさか、本当にそんな一面もあるのだろうか。

 だとすれば、第三の衝撃である。


 そんなクリスティアンの心配を知らず、カトリーナは異母兄に迫り、さえずった。


「お兄様方は、ヴィル様について、ご存じなぁい?」


 まあ、デビューもまだですものね、とカトリーナは前置いて、


「ヴィル様はね、普段は凛々しい騎士のお姿なのだけれど、お茶会やガーデンパーティーに参加されるときは、令嬢の姿に戻って現れるの。場所によってがらりと印象を変えられるものだから、まるで咲く場所によって色を変える紫陽花のようだと言われているのよ」


 なるほど、単に花の特徴を挙げただけであったらしい。色の変化と言えばアレキサンドライトという宝石がよく例に挙げられるが、それではなく紫陽花が選ばれたのは、セランネの治める国境の領地が花卉栽培で有名なことも理由にあるそうだ。


 セランネ領から訪れた、可憐な花。ある場所では華やかで朗らかな令嬢の装い赤色に、別の場所では凛々しく勇ましい騎士の装い青色に、その姿を変えていく。如何にも女性が好むその例えは……確かに、クリスティアンが見たヴィルヘルミーナそのものであるような気がした。


 しかしまだその説明だけでは気が済まないのか、カトリーナは両の手を重ね合わせ、夢見るように紫陽花の騎士についてさらに語った。


「ああ、哀れなヴィル様。十三のときに引き合わされた婚約者候補に全てを奪われかけたことがきっかけで、女としての幸せを棄てて辺境伯を継ぐことを決意なされたのですって。そのために髪を切り、男性の姿となって騎士になられたの。

 ……でも、やはり女性であることを捨てきれなかったのでしょうね。親しい方のお茶会に喚ばれたときのほんの一瞬だけ、本当の自分の姿に戻って、娘としての時間を楽しまれるのよ!」


 なんとも作り物めいた話だったので、いったい何処から何処までが本当のことなのか判断がつかないが、気になるのはある一点。


「全てを奪われかけた……」


 作り物めいていても根も葉もないというわけではないだろうから、本当に過去に何かがあったのだろうとは思う。特に、婚約者候補に、というところが気になるところだ。

 女性らしさを捨てて、爵位を継ぐことを決意し、そのために騎士にまでなったのだ。きっとなにかそれなりの、大きな理由があるはず。


「クリス、カトリーの言うことを全部真に受けるんじゃないぞ。半分くらい誇張があるからな、きっと」


 カトリーナの話を真に受けるクリスティアンを見かねて、傍観を決め込んでいたアハトが苦言を漏らした。


「まあ、そんなことないわよアハト兄様。私のお友達の中でも有名な話なのだから」

「だから怪しいというんだ」


 やれやれ、と額を押さえながら頭を振る。ミーハーな妹に振り回されるのはいつも、同母の中で(八歳差だが、それでも)一番歳の近いこの兄である。


「まあ、その婚約者候補が屑だったって話は本当らしいがな。セランネ辺境伯家を訪問したそのときに、まだ幼いヴィルヘルミーナに襲い掛かったというのは事実だそうだから」


 ヴィルヘルミーナが辺境伯継ぐのを決意したのは、その直後だというのだから、疑わしかったカトリーナの話に信憑性が出てきたというものだ。

 だが、これで貴族令嬢が騎士となった理由に合点がいった。


 女を棄てた、哀れな令嬢。

 藤の下であった美しい姿が脳裏に蘇る。娘の姿に戻った彼女は、木漏れ日の下で慎ましくも朗らかに笑っていた。その笑顔の自然な華やかさこそクリスティアンがヴィルヘルミーナに心を惹かれた要因であったのだが。

 ……まさかその笑顔の下にそのような悲壮を抱えているとは思いも寄らなかった。

 それなのに自分は、彼女が騎士をやっているという事実を躍起になって否定しようとして。

 自分の浅はかさに腹が立つ。


「クリス兄様。お兄様ならきっと、ヴィル様を助けてあげられると思うの」


 カトリーナは、アハトが止めるのも聴かずに、ククリスティアンに向かって祈るように両の手を組んで懇願した。


「どうか、ヴィル様を救って差し上げて」


 その言葉は、クリスティアンの胸に強く響いた。

 確かに、自分は王族だ。例えば彼がセランネに婿入りすれば、爵位は自分に回ってくる。そうすれば、望まぬ荷物を背負い続けているヴィルヘルミーナは、解放されるのだ。

 そして、娘の姿に戻り、心のゆとりができたのであれば、彼女は自分のことを見てくれるかもしれない。

 一度そう思い始めると、俄然自分がやらなければいけないような気になってくる。


 さて、そんな二人を遠巻きに見ていたアハトはいったい何を思うのか。


「早まるなよ、クリス。カトリーの言葉だぞ。口説きも台詞を考えるのは、きちんとヴィルヘルミーナ嬢の事情を聴いてからにするんだぞ」

「もちろんです。兄上」


 忠告をするアハトの意図を正しく理解しないまま、クリスティアンは威勢よく返事をした。その頭の中は、すでにヴィルヘルミーナを救うことでいっぱいだ。


「女を捨てて騎士になった令嬢が、王子に見初められて恋に落ち、再び女の姿に戻る……ああ、なんて素敵なの!」


 ……妄想過多なカトリーナの独り言もまた、残念ながら、使命感に燃えるクリスティアンの耳には届かなかった。

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