青の転機
ヴィルヘルミーナ・セランネは、それはそれはとても美しい娘だった。
淡いブロンドの髪に紫の瞳を持つので、それだけで神秘的。顔立ちも人形のように整っていたものだから、幼い頃は天使、女としての成長が見え出した頃には絵画にある女神のようだ、と評された。
教養もマナーも充分。幼さを残しても見た目も極上で、男児を成し得なかった辺境伯のたった一人の娘。本格的な結婚の話が出てくるデビュタントまでまだ何年もあったというのに、彼女に対する求婚の申し入れをしてくる男は多かった。
だからこそなのだろう。ヴィルヘルミーナの父は、娘がまだ十三の齢の頃に婚約者捜しをはじめた。はやいうちに後継者となる婿を見繕い教育したかったというのもあったのだろうが、それよりなにより、愛娘に早々にパートナーをあてがうことで、後々降りかかる男女のトラブルを回避させようというのがあった。辺境伯の爵位に、領地、財力も持った美姫……セランネの娘を射止めるだけで全てが手に入る。愛娘がデビュタントを迎えた頃にどのような目に遭うかは、自らも美しい妻を娶った辺境伯には想像に難くなかった。
そのせっかちとも思える行動は、娘の愛情ゆえの行動であることは間違いなかった。
しかし、それはかえって裏目に出た。
それも、あろうことか、ヴィルヘルミーナが見合いをした最初の相手によってもたらされた。
相手は、とある侯爵家の次男坊だった。当時ヴィルヘルミーナが十三だったのに対し、相手は十八。セランネの家を訪れた彼は、真面目な好青年に見えたため、娘の夫としても、辺境伯の後継者としても、申し分のない相手だと思われた。
すっかり相手を気に入った父は、気を効かせて娘と侯爵令息を二人きりにして、庭を散策させた。はじめは和やかな雰囲気だった。しかし、庭のより奥へと進み人の気配が少なくなると、青年の雰囲気は一変した。ヴィルヘルミーナを茂みの奥へと追いやると、草の上に押し倒してそのドレスに手を掛けたのだ。
幸いというか、当然というか、父がきちんと監視をつけていたため、ヴィルヘルミーナは彼女の声を聞きつけた使用人にただちに助けられたのだが。
訪問先で初対面の幼い少女に白昼堂々襲い掛かった好色令息は、本性を表してこう叫んだのだ。
「どうせ結婚すれば、屋敷も領地も、この女もお前たちも俺の所有物となるんだ! 今好きなように扱って何が悪い!」
ふざけるな、とそのときのヴィルヘルミーナは憤った。怒りのあまり、強姦されかけた恐怖も吹き飛んだ。
確かに、ヴィルヘルミーナと結婚した相手は、セランネの後継者となる。当然屋敷の主になるだろうし、領主にもなるので、〝所有者〟となる、ということにも間違いはないのかもしれない。
だが、セランネが代々守ってきたそれらを私利私欲のままに好き勝手に弄くりまわそうなんてことはとても許容できなかった。父も、そんな相手に娘と領地を渡すために早くから婚約者捜しを始めたわけではない。
これからもやってくる求婚者がこんな輩では堪らない、と感じたヴィルヘルミーナは、父の後継者となる相手を見繕うのではなく、自らが辺境伯の位を引き継ぐことを決意した。領地を、家を守ることを第一に考えるのなら、自分が主導権を握るのが一番確実だと思ったのだ。
幸いにして、性差による機会の不平等が法によって改正されてから久しい。慣習からは外れるが、ヴィルヘルミーナが跡継ぎになっても法の上では支障はなかったのだ。
……まあ、世の中は、殊に古い慣習に縛られがちな貴族社会では、ヴィルヘルミーナのような存在はそうそう認められるはずもなかったが。
そこは箔をつければ良いのだろう、と功績を得るために騎士を目指し。
二年かけて従騎士の務めを終えて騎士になり、ようやく周囲に認められるようになってきて。
まさか今になって、とんでもない壁にぶち当たるとは思いもしなかった。
「私が、ライティネン侯爵夫人のお茶会で殿下に御目にかかった、ヴィルヘルミーナですわ」
そう言ったらすっかり固まってしまったクリスティアンを前に、ヴィルヘルミーナは困り果てた。
久しぶりに休勤日と重なったこともあり、気紛れに参加した茶会で、なんと自分はこの王子様に気に入られてしまったらしい。
「……まさか……そんなはずは……」
ショックから立ち直りかけたクリスティアンは呆然と呻く。まじまじと両目を見開いて、ヴィルヘルミーナの身体を見回した。
その視線が特に胸のほうに向かうのを悟って、ヴィルヘルミーナは居たたまれなくなった。かつて女神と呼ばれたことだけあって、ヴィルヘルミーナの身体つきは豊満なほうだ。だが、身長に合わせたサイズの制服をそのまま着用するのは些か窮屈だったので、それよりもワンサイズ大きなものを着用している。その甲斐あって、胸囲部分が楽になったわけだが、同時にヴィルヘルミーナの体型が傍目からは分かりにくくもなった。クリスティアンがヴィルヘルミーナを男と間違えたのもその所為なのだろうが……何も胸元に着目しなくても良いだろうに。
そこはクリスティアンもすぐに気づいたようで、あまり長い時間ヴィルヘルミーナの胸を凝視することはなく視線を上げた。
「……そうだ、名前。ヴィルと呼ばれていた」
「ええ。
騎士のときはヴィル。令嬢としてドレスを纏っているときはミーナ。ヴィルヘルミーナは愛称を使い分けていた。男性めいた愛称は、女でありながら爵位を継ごうとし、加騎士にまでなろうとしたヴィルヘルミーナを馬鹿にした貴族への反抗の象徴。反面、女性らしい愛称は、自分はまだ女を捨てていないことの証明だ。
……なんて。実は騎士服を着ると男装めいた格好になるものだから、つい楽しくなって、二つの姿と名前を使い分けていたりするのだが。
「髪は……」
「もともと短くしておりました。お茶会などの場では、
あれは騎士に成り立ての頃。模擬戦の最中に一本に纏めていた髪束を掴まれたヴィルヘルミーナは、相手から逃れるために剣で髪を切り落とした。それ以後、少年のように髪を短くしているのだ。
短髪は頭が軽く、さっぱりして良い。結構気に入っている。
「……服は。それは男物だろう」
「騎士服の規格は男女とも統一されています。ご存じありませんでしたか?」
とはいえ、クリスティアンは専ら国の教育政策の業務に従事しているという。騎士団に注目することなど滅多にないだろうし、まして女騎士の数も少なく見比べる機会もそうないだろうから、気づかなくても仕方ないことなのかもしれない。
「…………すまない。こちらから呼びつけておいてなんだが、失礼する」
一通り質問しても、ヴィルヘルミーナが騎士をしている事実が受け入れがたかったのか、驚愕を顔に張り付けたままそう断りをいれると、クリスティアンはのろのろと城内へ戻っていく。
その背を見送りながら、ヴィルヘルミーナは肩を竦めた。
「……引かれたかな」
なにせ恋に落ちた令嬢が男のような格好で剣を振るっているのだ。幻滅されてしまってもおかしくはない。
「うーん、ちょっと残念」
おかしくはない、とは思うのだが、やはりヴィルヘルミーナも乙女の一人だ。自分が王子様に、それもあの見目の良いクリスティアン王子に見初められて、少しでも舞い上がらないはずもない。だからまあ、仕方はないとはいえ、幻滅されてしまったとあっては、がっかりしてしまうのも否めない。
……まあ、自身の辺境伯後継者の立場を考えると王子との婚姻などあり得ないのは解っていたため、本当にちょっと――好きなご飯のおかずを同僚にかっさらわれた程度の〝がっかり〟具合ではあったが。
少しだけ落としたヴィルヘルミーナの肩を、ぽん、と叩く者がいた。茶色い瞳にブルネットの、背が飛び抜けて高いこと以外にはこれといって特徴のない騎士。先程まで一緒に訓練していた同僚のマルセルだ。彼はヴィルヘルミーナの同期で、従騎士時代からの親友でもある。
そういえば、と周囲がどういう状況にあるのか、ヴィルヘルミーナはようやく認識した。――この場にいる騎士全員の注目を集めているなんて、恥ずかし過ぎる。
「残念だったな、殿下が」
「殿下なの?」
振られた(推定)のは自分の方であるのに、とヴィルヘルミーナは口を尖らせる。
「そりゃあ。猫を被ったお前に夢見ちゃったわけだから」
「猫被りじゃないってば」
今と違って令嬢モードでいただけだ。仕事を全うすることを求められる職場では騎士モード、女らしさを求められるお茶会などの社交の場では令嬢モードと、場所によって振るまい方を切り替えているだけにすぎない。
「はいはい、拗ねんな。放っておけよ。別にロマンスを期待していたわけじゃないんだろ」
「そりゃもちろん。王子様が来られたら、それこそ後継者問題がはじまるもの」
王太子以外の王族は、男女に関わらず婚姻で相手の家に入るしきたりになっているが、姓が変わったからといって王族の威光がなくなるわけではない。もし王子がある家の娘と結婚した場合、その家に跡継ぎになり得る男子が居たとしても、婿に入った王子が爵位を継ぐのが慣習となっていた。
王族だった者にそれなりの身分を保証するためにできた制度だろうが、後継者の立場にある者にとってはかなり理不尽な慣習だ。王子の婿入りがきっかけで、親類同士が血と血で争う羽目になった家も少なくはない。
「本当に、面倒な国」
やれやれ、とため息を吐く。まあ、いろいろと不満はあるが、世間の支持も受けられるようになった今のヴィルヘルミーナには他人事だ。
「しっかし、やっぱり女で騎士なんてモテないのかなぁ」
訓練の終了の合図を受けたヴィルヘルミーナは、マルセルと連れだって訓練所の端へ向かいながら、ぶつくさと呟いた。なんども繰り返してしまうが、後継者の心配はしなくても良くなったとはいえ、結婚の問題は残っている。さらにその次の代の後継者――子供は残す必要があるからだ。デビュタントも控え、そろそろその事を視野に入れて結婚の相手を見つけなければならないと思うのだが……今回のことで少し自信をなくしてしまったかもしれない。
「辺境伯の領主っていうオプションもないしなぁ……」
肩を落とす。男女平等を謳っていても、この国の現状はこれである。女の身で騎士になったり跡取りになったりすると、世間からは変わり者扱いだ。幸い、周囲――両親や友人、騎士の同僚たち――はそんな彼女を受け入れてくれてはいるのだが、社会的にはまだまだヴィルヘルミーナのような存在は、異色の部類。男性は自分のような女を避けたいのだろう、とうすうすと感じてはいたが、それが現実となって目の前に現れてしまうと、やはりへこんでしまう。
ちらり、と黙ったまま横を歩くマルセルに目を向ける。
「どう思う?」
男代表としての意見を友人に請う。
「答えにくいことを訊くなよな」
従騎士時代から互いに切磋琢磨していた友人は、顔を顰めた。
「それに、どうせ何を言われたって、止める気はないんだろ?」
ヴィルヘルミーナは頷いた。例えかつて父が望んだような、領地経営に理想的な結婚相手がいたとしても、後継者の座は渡す気はない。
「だったら、気にする必要ないだろ。なるようにしかならねぇよ」
「……それもそうだね」
そう返事しながら、ヴィルヘルミーナは胸が温まるのを感じた。投げやりな解答にも思えるかもしれないが、それは騎士として生き、領主としての道を選んだヴィルヘルミーナを否定しない言葉でもある。昔は、「そんな女と結婚したい相手はいない」だの「婚期を逃す」だの、よく言われていたものだ。それに比べて彼は、ヴィルヘルミーナの生き様を否定する言葉を、冗談でも吐いたことはない。
「いっそ、マルセルがお婿に来てくれたらなー」
じっとマルセルの顔を上目で見る。彼は子爵家の三男坊だ。気心が知れた友人で、ヴィルヘルミーナの事情に理解もあって、伴侶の条件としては申し分ない。
……いや、正直に言おう。実は、本当に
キープと言えば聞こえは悪いが、政略的な合理性とヴィルヘルミーナの心情を兼ね合わせると、現在マルセルが一番理想の相手である。
「……お前な、そういうのは気軽にいうもんじゃない」
咎めるように言う彼の表情は苦々しい。やはり脈なしだろうか。でも、親友じみた付き合いをしているのだから、一生の
やはり騎士でも女騎士は伴侶に選ぶ対象ではないのだろうか。それとも結婚しても爵位を継げないのが駄目なのだろうか。それでも彼ならきっと、というヴィルヘルミーナの希望的観測もあるからか、その辺りがいまいち判断が付かない。
しかしまあ、ヴィルヘルミーナも社交界デビューはまだなのだ。本格的な結婚話は、デビュタントを済ませてから行うのが一般的。もろもろのことは十八になるのを待つしかないのだから、とヴィルヘルミーナはこの件についてこれ以上考えることは止めた。
唯一懸念されるのが、今回のことが周囲にどう評価されるかだが――まあ、今さら悪評が一つ増えたところでそう大して変わりはないか、とこちらも考えるのを放棄する。
せめてあの王子が、後継者問題に発展しない家に婿入りすることを祈りつつ、ヴィルヘルミーナはマルセルと詰所へ入った。
――だが、このクリスティアンの恋は、ヴィルヘルミーナの予想に反して、とんでもない展開を迎えようとしていた。
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